第二百七十夜 おっちゃんと悠久の釣り人
翌朝、朝靄の中を、おっちゃんはゲタのいる場所に向かった。
ゲタは昨日と変わらず池の畔で釣りをしていた。おっちゃんはゲタの隣に立ち声を掛ける。
「釣り道具屋に行って街を一通り見てきたで。釣り道具屋の店主の話でホイソベルクの街の置かれた状況は理解したで」
ゲタは釣りをしながら、のんびりとした口調で答える。
「釣り道具屋の主人のハイレはあれでなかなかの話好きだ。今はお客がほとんど来なくなって、寂しがっていたから、ちょうどよかっただろう」
「これから飯にしようと思うんやけど、保存食でよかったら、一緒にどうですか?」
ゲタが微笑んで勧める。
「保存食は嫌いなんだ。さっき、親戚がハムサンドと山羊乳を持って来てくれたから、一緒にどうだい?」
「それは、ええですな。なら、ありがたく頂きますわ」
ゲタが横にあった箱を開け、紙に包まれたハムサンドを、おっちゃんに渡した。
ハムサンドで朝食を摂りながら尋ねる。
「ホイソベルクって、街のあちこちに池がありますけど、湿気とか大変やないんですかね?」
ゲタが、どっしりと構えた態度で発言する。
「『幻影の池』は水にあらず。立ち上る靄もまた、水にあらずだよ」
「ホイソベルクの街にある『幻影の池』はマレントルクの『産岩』やアーヤの『始原の木』みたいに色々と出ますの?」
ゲタが食事をしながら、おおらかな顔で告げる。
「出るね、色々と。ただ『幻影の池』は釣れない時はなにも釣れないし、馬鹿当りしても同じ物しか出なかったりする」
「欲しい物を手に入れたいとなると大変やな」
「『幻影の池』は『産岩』や『始原の木』ほど便利じゃない。だが、形のないものが釣れるのが特徴だ」
「形のないものが釣れるとは、どういう意味でっしゃろ?」
「噂をすれば」だと、ゲタが竿を引く。針になにも付いていなかった。
ゲタが心地良さそうな顔をして発言する。
「これは近い未来だな。なるほど、そう来るのか」
おっちゃんには魚に逃げられたようにしか見えなかった。でも、ゲタは、とても満足そうだった。
不思議に思ったので、正直に訊いた。
「釣りで未来が見えますの?」
「全部が見えるわけではない。また、未来ばかり掛かるわけでもない。過去も掛かる。他国の人間には不思議なようで『水読み』と呼ばれているが、なんのことはない。私たちにすれば、単なる釣りなのさ」
「魚釣りの奥義みたいもんですかね?」
ゲタは再び竿を振って、飄々(ひょうひょう)とした顔で答える。
「ちと、違うな。魚も確かに釣れる。だが、私が釣っているのは、時だ。私はこの『幻影の池』で時を釣っている。時と共に生きる。時を知り楽しむ。そうして、時の終わりに死んでいくのさ。ホイソベルク人は生まれながらに、悠久の時を釣る、時の釣り人だよ」
(なんや哲学的な話でわかりづらいな。でも、満足しているようやから、それでええか)
「おっちゃんから質問ええですか。未来が釣りでわかるなら、ヤングルマ島は、どうなるんですかね?」
ゲタは笑って答える。
「ヤングルマ島がどうなるか、わからない。私たちの釣りの源は、巨人に託されたユーリアの夢だ。ユーリアの夢が終わるまではわかるが、完全に夢が終わった時の未来は私にはわからない。だから、我々はユーリアの夢の終わりを終末と呼ぶ」
「ゲタはん、終末が怖ないの? 全てが終わってしまうんやで」
ゲタは気負わずに、穏やかな顔で語る。
「もちろん、怖い。だが、怖れても避けられる事象ではない。足掻いても、どうにでもなるものでもない。我々には、できる心構えは受け入れるだけだ。もっとも、若い世代の考えは違うらしい」
「あと、一つ質問。おっちゃんの仲間に、赤髭いう男がおるんよ。髪も髭も真っ赤な大男や。赤髭はんを見んかった?」
ゲタの顔が初めて曇った。
「赤髭なる男については、知っている。教えることもできる。だが、時は伝える。まだ、教える時ではない、と」
(なんや? 知っているなら、教えてくれても、ええやろうに。これだから賢者いう人間は厄介なんや)
「そうでっか。なら、その時が来たら教えてくれますか?」
ゲタは、おおらかな顔で告げる。
「いいぞ。その時が来たらな。おそらく、その時は近い」
食事が終わるとゲタから話し掛けて来た。ゲタが穏やかな顔でやんわりと頼む。
「実はな。私の近しい者が困っている。よければ助けてやってほしい」
「測量を自由にさせてもらえるみたいやから、お礼にお手伝いくらいはしますよ。そんで、近しい人って、誰ですか? 親戚とかですか?」
ゲタが淡々とした顔で、西を指差して告げる。
「ここでは、皆が皆、親戚であり、他人だ。近くもあり、遠くでもある。困っている人間は若きホイソベルク人のマーカスだ」
「よっしゃ、これもなにかの縁や、手伝ったろう」
「マーカスには、おっちゃんの助けが必要だ。マーカスはここを真っ直ぐ行った場所にいる。行って助けてやってくれ」
「ほな、ちょっくら、行ってきますわ」
おっちゃんはゲタの示した方向に歩いて行く。
三十分ほど歩くと、直系が二十五mほどもある、大きな水溜まりのような場所があった。水溜まりには、高さが十mもある大きな黒い卵が浸かっていた。
卵の周りには、火に掛かった大鍋が置かれていた。大鍋の中では、黒い液体がぐつぐつと煮られていた。液体は、強いスパイシーな香を放っていた。
(これ、なんやろう? 料理や薬には見えんな)
おっちゃんが鍋の中を覗いていると、近寄ってくる若いホイソベルク人がいた。
若いホイソベルク人が険しい顔で問いただす。
「サレンキスト人が、俺の大鍋の前で何をしている?」
「わいは、おっちゃんいう外国から来た冒険者です。ゲタはんに頼まれて、マーカスはんの手伝いに来ました。お宅がマーカスはんでっか?」
若いホイソベルク人がムッとした顔で告げる。
「確かに、俺がマーカスだ。だが、腑に落ちない。なんで今になって、ゲタ様は俺の手伝いをする気になったんだ?」
「ゲタはんとは最近になって知り合ったばかりやから、よくわからん。ただ、おっちゃんが手伝いに来たんは本当や。なにかやって欲しい仕事があったら、遠慮なく言うて」
マーカスはムッとした顔のまま、投げやりな調子で発言した。
「わかった。なら、アーヤ国に行って、アーヤ国の国宝『願いの木』から『願いの雫』を採ってきてくれ。採ってこられたら、あんたを信用するよ」
おっちゃんはベルト・ポーチを探った。すると、『願いの雫』が入った木の実が一つだけ出てきた。
「ちょうど、一個だけ残っとったわ。これ、上げるわ」
マーカスが不審も露に訊いて来た。
「これに、本当に『願いの雫』が入っているのか? 『願いの雫』なんて、簡単には手に入らないものだぞ」
「まあ、色々あって、持っていたんよ。それで足りるか。足りないと文句を言われても、『願いの木』が伐られてしもうたから、もう普通の手段では、手に入らんけど」
マーカスが険しい顔をして唸った。
「やはり、異変はホイソベルクだけでなく、各地で起きているのか」
おっちゃんは黒い卵を見る。
「これ、もしかして、凶獣か凶鳥が入っているんか?」
マーカスが厳しい顔をする。
「この卵は、凶龍の卵だ。孵化すれば、二十と一日の間にホイソベルクを滅ぼすと予言されている」
おっちゃんは辺りを見回すが、マーカス以外に誰も人がいない。
「なんや? 国の危機や言う割には、人がおらんの」
マーカスが顔を顰めて、吐き捨てるように発言する。
「この国を生かそうとしている人間は俺だけさ。他のやつらは諦めて何もしないか、サレンキスト人に協力すると割り切って、出て行った」
マーカスはジロリと、おっちゃんを睨みつける。
「俺はサレンキスト人は嫌いだ」
「なんか勘違いしているけど、おっちゃんは、サレンキスト人ではないよ。海の向こうのガレリア国から船で来たんよ」
マーカスが恐い顔で断じる。
「馬鹿馬鹿しい。この島は、外と繋がってはいない。ユーリア様の意思により、島を去った神以外は入れないように隔離された土地だ」
「なら、ユーリアはんの考え方が変わったんやないの? とにかく、おっちゃんはサレンキスト人やないから、信用してくれてええよ」
マーカスがじっと手の中に『願いの雫』が入った実を見る。
「どの道、もう時間がない。信用するしかないか」
マーカスが厳しい顔をして指示する。
「わかった。俺は凶龍の卵を孵さない準備をする。ご苦労だったな」
マーカスが鍋で何かを煮込む作業に戻った。
おっちゃんは何も命令されなかったが、結末に興味があるので近くで作業を見守った。




