第百十一夜 おっちゃんと教皇(前編)
夏の暑さがピークを過ぎても『デドラ湿原』は暑かった。背の低いイネ科植物が伸びる湿原の叢を歩く中年男性が一人いた。
男性の身長は百七十㎝バック・パックと軽装の皮鎧を着て、腰には細身の剣を佩いている。
歳は四十一といっており、丸顔で無精髭を生やしている。頭頂部が少し薄い。おっちゃんと名乗る冒険者だった。
おっちゃんは足場の悪い湿原を進みながら、独りごちる。
「本当に、こんな場所に、教皇おるんやろうか。おっちゃん、教皇庁の人間に騙されたんやろうか。本当に教皇が旅に出とるんなら、もっと人のいそうところに行け、いうんや。こんな場所に用なんか、ないやろう」
おっちゃんは蟲に悩まされつつ、どんどんと湿原を進んで大きな沼に出た。
沼の周りには草木が生えていなかった。わずかに緑がかった水は澄んでいた。
おっちゃんは異変に気が付いた
「おかしい。虫も鳥の鳴き声もせえへん」
そっと水面を見た。水面にはボウフラもアメンボウも沼にいなかった。
「これは毒の沼か。落ちたら危険や。少し離れとこ」
おっちゃんは沼から距離を取り、沼に沿って歩いた。
どこからか、肉の焼ける良い匂いがしてきた。
「なんや。誰ぞ、毒の沼地で焼き肉でもやっとるんか。まさか、そんな奇人はおらんやろう。でも、この匂いは焼き肉やで」
おっちゃんは匂いの先に足を向けた。十二分か三分ほど歩いた。
煙が立っている光景が見えた。近づいていく。肉を回転させるタイプの肉焼き機で誰かが肉を焼いていた。肉焼機の傍には、二人の人間がいた。
一人は銀色の鎖鎧を着て兜を被った老騎士だった。顔つきは優しく、人の良さそうな顔をしている。腰には左右に一本ずつ剣を佩いている。体型は中肉中背で、大きくもなく小さくもなかった。老騎士は肉を焼いていた。
もう一人は大柄な男。年齢は二十代後半。身長は一m九十㎝、真っ赤な髪と眉をして四角い顔をしている。目鼻立ちはハッキリしており凛々しい。目はぎょろりと大きく獣のように鋭い。
顔から首に掛けて筋肉が付いている。服装は簡素な革鎧だが、盛り上がった筋肉によりはちきれそうだった。
(なんや。鬼と退治しに来た騎士が一緒に焼き肉しているような組み合わせやな)
『デドラ湿原』に入って初めて会った人間だった。おっちゃんは声を掛けようとした。
大柄な男が地面に置いてあった長剣を拾った。大柄な男は剣を抜いて沼と向き合い、愉快そうに声を上げる
「来たぞ、バルタ。獲物がエサに喰いついた」
バルタと呼ばれた老騎士は、ゆっくりと後ろに下がる。
「では、充分にご堪能ください。マキシマム様」
(なんや、マキシマムやと? 教皇と同じ名前やな。釣れた? 獲物なんやろう。まさか、おっちゃんのことやないやろうな)
おっちゃんも沼に視線を向ける。突如として水柱が上がり、水の下から巨大な緑色の塊が浮上した。
おっちゃんをひと飲みにできそうなくらい大きな蛇の顔が五つ出現した。蛇の顔は巨大な鰐を連想させる胴体と繋がっていた。全長十mの化け物は『沼ヒドラ』と呼ばれる化け物だった。
『沼ヒドラ』の知能は低い。だが、強い再生能力と猛毒を持つ、危険なモンスターだった。
(『沼ヒドラ』やん。ここは、こいつの縄張りか、はよ逃げな危険や。でも、おっちゃんが逃げたら二人では凌ぎ切れん。あわわわ、どうしよう)
『沼ヒドラ』の顔の一つが、おっちゃんに跳び懸かった。おっちゃんは横に飛びのいて躱した。
おっちゃんがいた場所に大きな蛇の顔が刺さる。
マキシマムが剣を手に、何かの魔法を唱えた。剣が白く光ると剣は砕け散った。
砕けた剣を見つめ、マキシマムが憎しみを込めて「糞が」と大声で叫ぶ。声で大気が震えた。
マキシマムは柄だけになった剣をヒドラの顔に投げつけた。柄は弾丸のように飛んでいく。
剣の柄はヒドラの顔に穴を空けた。
(なんちゅう馬鹿力や。人間の力やないで)
マキシマムは、おっちゃんとマキシマムを隔てる蛇の首を蹴り上げた。
蹴り上げられた沼ヒドラの首が堪らず、天を向いた。
マキシマムは乱暴におっちゃんに頼んだ。
「おい、そこの男、剣を貸してくれ」
おっちゃんは本能的に『沼ヒドラ』よりマキシマムに危険なものを感じた。
「どうぞ」と、おっちゃんはすぐに剣を渡した。剣を渡すと、おっちゃんはゆっくり後ずさりした。
マキシマムは剣を受け取ると、再び魔法を唱えた。
剣が強く光った。おっちゃんの剣はぶるぶると震えるが、砕けることはなかった。
マキシマムが軽く感嘆の声を上げる。
「ほう、こいつはいい剣だな。これなら保ちそうだ」
沼ヒドラが怒りの声を上げた。ヒドラの二つの顔がマキシマム目掛けて襲い掛かる。
マキシマムは攻撃をひょいと躱し、軽く剣を振った。
沼ヒドラの首が、試し切りの林檎のように切断される。
おっちゃんの剣はエストック。突きの時に威力を発揮する剣。だが、マキシマムは斬る攻撃でも恐ろしい威力を発揮した。
(なんや、エストックを使って沼ヒドラの首を切り落としたで。腕力とか技術とかやない。あれは何か恐ろしい力や。化け物や)
おっちゃんは後ろから『火球』の魔法で援護しようとした。背後からバルタに肩を叩かれた。
バルタは全く心配した様子はなかった。
「おやめなさい。援護は不要です。下手な援護はマキシマム様を怒らせて危険です」
「そやかて、『沼ヒドラ』は傷を焼かんと再生する。マキシマムはんがいくら強くても、『沼ヒドラ』の再生を止めないことにはいずれ餌食やで」
バルタがどんよりとした顔をして首を振った。
「『沼ヒドラ』をごらんなさい」
おっちゃんが『沼ヒドラ』を見る。切断された『沼ヒドラ』の首からは白い煙が立ち上っていた。
「あれ、炎で焼いとらんのに再生してへん、どうしてや」
「聖剣で受けた傷は普通の手段では再生できないのです。本当にもう、猊下の強さは規格外です。護衛の役目なんて、ないも同然ですよ」
言っている意味がわからなかった。
そうしている間に、マキシマムは、もう二つの『沼ヒドラ』の首を切り落とした。
首一つとなった『沼ヒドラ』はマキシマムに背を向けた。
マキシマムが片手を『沼ヒドラ』に向けて何かの魔法を唱えた。真っ白な強大な手が、出現したヒドラの体を掴んだ。
「成敗」とマキシマムが口にする。巨大な手が握られ、『沼ヒドラ』が白い光り柱に飲み込まれて消えた。
(なんや、この男? 『沼ヒドラ』を赤子扱いやで)