2.捨てられた子供
魔法は好きではなかった。
幼くして僕は魔術師の弟子となった。
大魔術師と触れ込みの老人は、自分にとってはただの生活能力のない老人にしか見えなかった。
老人は何も教えてくれなかった。
それどころか、僕が魔法を使うことを禁じた。
北の果て、山奥の庵に一人住む老人に、最初に教えられたのは掃除の仕方。次いで洗濯の仕方。そして料理の仕方だった。
当時五歳の僕に何ができただろう。
立派な両親の元、何不自由ない生活に慣れ切っていた僕にとっては何もかもが苦痛だった。身を切るように冷たい水で雑巾を絞り、震えるように寒い風でシーツを干した。
だが、老人は一向に何かを教えようとはしなかった。
いつになれば魔法を教えてくれるのか。そう問うたことがあった。
とぼけたようなこの老人は、髭の生えた顎を撫でながら、こう言ったのを覚えている。
『はて、お前さんは魔法は嫌いじゃったろう?』
ああ、嫌いだった。
この魔力がなければ、今も両親とともにいられたはずなのだ。自分がいた場所を弟に奪われることもなかった。
それでも、魔法を修めなければ家には帰れない。だから魔法を習得したいのだと。
だが、老人は首を横に振った。
『魔法を嫌う者には精霊は力を貸さん。義務で学ぼうと思うなら山を下りるがよい』
その言葉に返せるだけのものが当時の自分の中にはなかった。
お茶をすする老人は、やはり顎を撫でながらソファに座ったまま僕を見上げてきた。
『そもそも、魔法は教わらずとも身につくものじゃ。……なぜかわかるか?』
わからない、と首を振ると、老人はうんうん、とうなずく。
『魔法が何であるか、なぜ魔法が使えるのか。考えてみなさい』
夕食もそこそこに部屋に戻された。
この世界で生まれた人間なら、魔力は誰でも少しぐらいは持っている。だがそれを術という形で使いこなせる者となると割合は下がり、それを職業とできる人間は、ほんの一握りだ。
僕がこれほどの魔力を持って生まれてきたことは偶然だった。両親は普通の人で、先祖をたどっても僕ほどの力を持つものはいない。
おかげで拾われ子だとか不貞の子だとか散々なことをいとこ連中から言われていた……らしい。
当時の僕はほんの幼い子供であって、言われた言葉の内容はわからなかった。ただ、その言葉に含まれているとげのような悪意は認識していた。
魔力さえなければ、こんなことにはならなかった。
自分が老人の元に修行に出される日、見送りに来た両親の目には安堵の色があった。五歳の長男を遠い北の地に送り出すことに安堵していたのだ。……不安や心配ではなく。
だから、僕は魔法も、魔力も嫌いだった。
部屋の窓を開けると、夜空に冴え冴えと満月が輝いている。その前を黒い影が飛び交っているのが見える。
初めて見たときには驚いて老人をたたき起こしたものだが、今ではすっかり慣れた。今日もどこかの魔女が夜空の散歩に出ているのだ。
空を飛べるのはうらやましいことだ。自分の思う場所に思うように飛んでいける。それはなんと自由なことだろうか。
家もしがらみもすべて置いていけるのなら、飛んでいきたい。
『飛びたいの?』
その声が頭の中に聞こえたときも驚きはあったものの恐怖は不思議と沸かなかった。
飛びたい。そう思い描くと、窓から忍び込む夜気で冷えたはずの体が少しだけ暖かく感じた。
窓枠のところに掌に乗れそうな小さな緑の人のかたちをしたものが座っている。
『手伝ってあげてもいいよ。どんなふうに飛びたい?』
どんなふうに。
考えたこともなかった。鳥のように両手を広げて空を滑っていけたら気持ちがいいに違いない。
『その代わり、あなたの魔力、わたしにくれる?』
魔力? どうやったら分けられるのだろう。その疑問に緑の小人は答えをくれた。
『そのまま掌を開いていてね』
聞き慣れない言葉が小人の口から紡がれていく。
掌には何も変化はないが、紡いだ言葉が途切れ、小人が僕の右の手のひらに乗ると、何かがはじけたような感覚が僕を襲った。
何かが全身をゆっくり浸していく。体の隅々まで涼やかなものになった感覚に驚いて掌を見つめると、緑の小人が座って笑顔で手を振っていた。
『契約終了よ。わたしの名は――』
ここで記憶は途切れている。精霊は契約した相手にしか名前を明かさない。それは、他の人によって記憶を暴かれても困らないように、契約者本人の中からも消してしまう。
彼女――精霊に性別はないが、女性的なそれを呼ぶなら彼女、と呼ぶのが正しいだろう――は、僕のつけたムームーという名を喜んでくれた。
このあと、彼女の導きで空を飛ぶことには成功したのだが、風を切って空を飛ぶということがどういうことか、まだ幼かった僕には予想もできていなかった。
冷え切った体で意識を失うまで飛び、次にベッドで目が覚めた時には高熱を出していた。当然ながら師匠である老人から拳骨を食らった。
『いきなり何の準備もせずに空を飛ぶ奴があるか! しかも意識が途切れるまで飛ぶなど正気の沙汰ではないわ。気持ちよく寝ておれば隣の部屋から見知った魔力が飛んでいくわ、様子を見ていれば失速して真っ逆さまに落っこちるわ……よう間に合うたもんじゃと自分でも思うたわ。あんなに焦ったのは数百年ぶりじゃ。まったく……わしを殺すつもりか』
ごめんなさい、と口を開いたが、老人は怒りが収まらないらしい。
『それにムームーが善良な精霊であったから無事だったものの、もしこれが魔女の傀儡であったら、お前の魔力どころか体も命も魂もすべてからめとられておったであろうよ』
『わたしのどこが善良でないっていうのよ』
『だれも言うておらんわ! ……まったく、もう少し様子を見て、兆しがなければ送り返すつもりであったものを』
送り返す?
老人の言葉にベッドの中で僕が目を丸くしたのは当然だろう。
ここに来て半年。老人の身の回りの世話以外、何もさせてもらえなかった。何も教えない、と言ったのは老人のほうではないか。
兆しとは何のこと? 見込みがないから送り返す?
どこに?
山を下りろと言われたことも腹が立っていた。下りたところで僕の居場所はもうないのに。
ぐるぐると老人の言葉が回っていた。そのあとで何か言っていたように思うけれども、僕の耳には入っていなかった。
僕はまた捨てられるところだったのだ。
それだけが鋭い釘のように僕の心に刺さった。
◇◇◇◇
熱が下がるまでの一週間、ムームーも現れることはなく、一人で熱に浮かされた。
ようやく熱が下がって起き上がった時には、ずいぶん痩せてしまっていた。ベッドの上で起き上がることはできたが、ベッドから降りることはできなかった。
『目が覚めたか』
老人が入ってきて、僕の手を握ると正面から僕の目を覗き込んだ。
不思議な色の老人の瞳は、なんだかガラス玉のようにも見えた。
『ふむ……無事終わったようじゃな。熱も下がっておるし』
老人の話によれば、初めて精霊と契約をしたあとは一週間ほど寝込むのだそうだ。
『ふつうは十歳になってからやるんじゃがの。魔力量は体の成長に合わせて変化する。子供の間はどんどん変化するから、計っても意味がないんじゃ。魔力量が安定してようやく精霊との契約となるんじゃが……この体格、この年齢でこの魔力量なら、一刻も早いほうがよい』
『そーねぇ。最初の契約がわたしだったからよかったものの、誰に攫われるか分かったもんじゃないものね』
『うむ。だからずっと囲って守っておったであろう?』
ムームーがこともなげに言い、老人は同意して見せる。
それほど僕は危うい状態であったのだと初めて知らされた。そして、決して意味なく放っておかれたわけではなかった、ということもすこしだけ理解する。
『この地には魔女も多いし、お前さんのように見目の良い少年を侍らせたがる者もおるでの。……まあ、結果オーライというべきか』
老人は僕の右手を開放すると、短い杖を出してきて僕の額に当てた。
『師弟の契りもまだであったな。……わしのあとに続いて唱えよ』
この後の契りの詠唱で、初めて師匠が『老人』ではなく『老女』、『魔法使い』ではなく『魔女』であることを知ることになる。
驚いて見つめた師匠の顔は、幾度となく見てきた老人の髭のあるそれではなく、ふっくらとやわらかな面持ちの老婆のそれに変わっていた。