1.呪われた姫
姫と騎士の本の入手先が違っていましたので修正しました。
朝を告げる鳥の声でわたしの一日は始まる。
起き上がり、カーテンと窓を開けて、昇りかけた太陽の光を浴びながら朝のお仕事――城の結界の強化作業を始める。
それが済むと湯あみを済ませ、体や髪に残るしずくを風で乾かして、大きな姿見の前で足を止める。
鏡に映るわたしの胴体には、絡みつくような蔦の文様がはっきりと浮かび上がっていた。
生まれた時には小さな文様がおなかにあるだけだったというそれは、年を経るごとに大きくなった。
母様も侍女もこの文様を目にしたとたん、凍り付いてしまった。
だから、わたしの身の回りをする侍女はいない。いるのは、塔に食事を運ぶ年老いた侍従と、教育係。それだけだ。
「また大きくなってる……」
そっと手で触ってみる。
十五歳の誕生日、この文様が左胸――心臓に到達したら、わたしは死ぬ。呪った本人から聞いた、確定した未来。
あれから、わたしはすっかり腫れもの扱いだ。どこへ行っても憐みの視線しか投げかけられない。
みんな、わたしが十五になって死ぬのを運命だとあきらめて待っている。
わたしは嫌。何もせずに諦めるつもりはない。
タイムリミットまであと五年。
同じ死ぬにしたって、最後まであがきたい。わたしはまだ、恋すらしたことがないんだもの。
以前一度だけ読んだ本に呪われたお姫様を騎士が助けに行く話が載っていた。
騎士は――魔女の呪いも解いてくれるのかしら。
ノックの音がして振り向くと、入ってきたのは教育係だった。
窓から差し込む日の光を受けてまるで王冠のように金髪が輝いている。エメラルドの瞳と視線があった。
「おはようございます。姫、お早くお支度を」
恭しく礼を取る教育係をちらりと見やってわたしは脱衣所へ戻った。
彼だけだ。――わたしのこの文様を見て、眉一つ動かさなかったのは。
もっとも、十歳になってずいぶん成長したはずの全裸のわたしを見ても何の反応もしなかったのは許しがたいけど。
今日は公務は予定されていない。魔術の授業と歴史の授業。それから魔女についての研究。
出掛ける予定がないのだからと、比較的動きやすい白いドレスを選んだ。コルセットもパニエもなし。
胸当てもいらない自分の胸を見降ろして、少し落胆のため息をついた。
もし、もう少し大きければ、教育係の表情は少しは変わるのかしら。
あの取り澄ました表情を一度ぐらいは崩させてみたいのに。
「まだですか、姫」
居間からせかすような言葉が飛んできて、手早く支度を済ませた。
◇◇◇◇
自分が魔女に呪われているのだと知ったのは早かった。
物心ついたときには母様も父様も共になく、この塔に閉じ込められていた。
兄や姉がいることも、弟や妹が生まれたことも、塔から騒がしい町を見て知ったぐらい。
公務として国民の前に出るとき以外、わたしは放っておかれた。
勉強や魔法の訓練はみっちりさせられた。おかげでこの文様が何なのかも、四歳になるころには知っていた。
当時の教育係は年老いた宮廷魔術師筆頭だったけれど、ことあるごとにわたしに『王族としての務め』を説いた。
長子でないわたしは、いずれ他家もしくは他国へ嫁ぎ、子を産むことが義務。
魔術の始祖ミストルティの再来と言われたわたしの魔力量は偽りなく今生きている魔術師の中では抜きんでている。
わたしに望まれているのはわたしに似た魔力量の高い子を産むことだということ。
だけど、この文様がある限り、どこかへ嫁ぐことなんてないのではないかとも思っていた。
母様や父様でさえ見れば顔をしかめ、遠ざけるほどの代物を、他人が見て耐えられるはずがないもの。
そして。
公務として出席した十歳の誕生日の宴で、魔女本人に死の刻限を告げられてから教育係が変わり、『王族としての務め』は一切説かれなくなった。
目の前に座る新しい教育係をちらりと見てから本に視線を戻す。
金髪碧眼、背もすらりと高く声も通りがよく、顔も二枚目。伯爵家の嫡男で宮廷魔術師でしかも次期筆頭と噂まであるという。
これで微笑みの一つでも浮かべれば侍女たちは黄色い声を上げるでしょうに。
事実、この教育係に代わってから、なぜかこの塔に出入りする侍女が増えた。前任者の時にはお茶を入れる侍女なんて一人もいなかったのに。
わたしの世話をするためではなく、わたしを訪れる客人の世話をするための侍女。
授業の合間に、わたしが居間にいないのを見計らって茶や茶菓子のサーブをして出ていく。
「注意が逸れていますよ」
「申し訳ありません」
謝罪を口にしてもう一度教育係を見る。
彼は顔を上げると目を細めた。
「何か」
「……聞きたいことがあるの」
「授業より大切なことですか?」
「ええ。……場合によっては」
本を手にしていた教育係は栞を挟んで閉じると机に置き、わたしの横に立った。
「では、伺いましょうか」
視線の高さを合わせることなく、彼はわたしを見降ろしている。子ども扱いされるのは嫌だけど、この位置からだとほとんど表情を動かさない彼がほんの少しだけ口角を上げているのが見える。
「……あなたはわたしの文様を見ても何も思わないの?」
彼はじっとわたしの目を見たのち、口を開いた。
「憐みの目で見てほしいんですか?」
頬に血が集まるのがわかる。
彼がもし腰をかがめていて近い場所に顔があったら、間違いなく平手打ちしていただろう。
それと同時にものすごくがっかりした。この人も、所詮そうなのだ。
「そういうことを言う人だとは思わなかったわ」
「授業より下らないことを聞くからです」
下らない? わたしの時があと五年しかないことが、下らないことだというの?
嫌悪を露わにして彼をにらみつけると、彼はこともなげに言った。
「命の期限が切られているのに絶望をその眼に湛えない君に、何を言う必要がある?」
はっと目を見張ると、彼はやはりほんの少し口角を上げた。彼はわたしの思いに気がついているというの?
「普通の女の子ならとっくに絶望している」
「わたしは普通の女の子じゃないわ」
「王族だろうと一緒だ。身の不幸を嘆き、何もしない。……そうじゃないか?」
その言葉にわたしはうつむいた。
母様も父様も、何もしようとはしない。
魔女の機嫌を損ねるのが怖いのか、わたしを塔に閉じ込め、その日までそっとしておくつもりなのだ。
「でも君はそうじゃない。……違うか?」
視界に彼の膝が入ってくる。上等な生地の仕立てのいいズボンに包まれた膝の上に置かれた彼の手がすっと動いた。
つられて顔を上げると、ふわりと頭の上に何かが載せられた。伸びてきた手だった。
「……ディリオンは魔女に対抗するすべはないと言ったわ」
夢は見てはいけない。前任者の口癖だった。
そんなものに時間を費やすよりも、わたしの役目を果たすべきだと。
王宮の護りも、諍いの仲裁も、ちょっとしたことから魔獣の異変に至るまで、持ち込まれた問題をこなすのがわたしの役目。
彼はわたしを忙しくさせることで、死の呪いを忘れさせようとしていた。それがわたしがここにいる意義だと言い聞かせて。
「前任者が何を言ったかは知らないが、忘れろ。今は俺が教育係だ」
どきりと胸が高鳴る。
王族に対する物言いとしてはいただけないけど、迂遠でない分だけ心に響く。そういえば、授業中はきちんとした言葉遣いだったのに、今はどうしてこんなに粗野な言い方をするのかしら。
「君が本当にやりたいことは何だ」
「……死の呪いの解除、よ」
声が震えそうになる。
目を伏せてそれだけ口にすると、頭の上に載っていた手がぽんぽんとなだめるように弾んだ。どういう意味だろう、と目を開けると、すぐ近くにエメラルドの瞳が笑っていた。
「いい目だ」
「あなたの目の方がきれいよ」
とっさにそう返すと、教育係はもう一度頭の上で手を弾ませてから立ち上がった。
「五年の間に必ず方法を見つける。そのために俺を使え」
「ええ、ありがとう」
目を伏せて膝の上で拳を握る。心の奥が暖かくなる。
今までわたしのために何かをしてくれると言った人は初めてだった。
クロード。
それが、わたしの新しい教育係の名前だった。