9 翌日の朝餉を
「いつまで寝てんだ、お姫さんよ!」
がたんばたん、と大きな音。几帳が蹴破られた。
「さっさと起きて支度しないと、着衣を全部剥いで襲う。いいか、五つ数えるまでに起き上がれ。一、二、三、四……」
カズヤだった。
昨日と、がらりと性格が変わっているような気がする。猫をかぶっていたのか。勝負に負けて開き直ったのか。とにかく、黒い。薄笑いまで寒い。
「俺に一度ぐらい勝ったからって、いい気になるなよ。背丈と力は、俺のほうが上なんだ。砦で俺と張り合いたいならそこんとこ、しっかり認識してもらわないと」
菜月は耳をおさえた。至近距離で怒鳴らなくても、ちゃんと聞こえている。というか、カズヤの息が耳朶に触れてくすぐったい。
「おはようございます、カズヤさん。あなたと、張り合うつもりは一切ありません。互いに研鑽したいとは思いますが」
「そっちにはなくても、俺にはあるんだ。さ、朝餉をとったら、見回りに出るよ。俺の、華麗なる美技をお姫さんに見せつけてやる」
けっこう面倒な性格ですね、と喉から出かかったけれど、やめた。これ以上、騒ぎを大きくしたくない。確か、勝負がついたら名前で呼んでくれると言っていたのに、呼び名が『お姫さん』のままなのも、少々気にかかる。
「分かりました。楽しみにしています」
菜月は着替え、カズヤが指定した居間と呼ばれる部屋に向かった。すでに全員、揃っている。
「遅いぞ、菜月」
リヒトが声をかけた。
「は、はい。すみません」
リヒトが『菜月』と言った。初めて名前を呼ばれた。思わずどきりとする。
「まあまあ。菜月ちゃんは昨日ここへ来たばかりで、緊張とか慣れないこともあったんだろう。カズヤが乱暴に起こさなかったかい?」
鷹揚な藤原は菜月を助けた。カズヤは極めて乱暴な手口だったけれど、お日さまのように穏やかな藤原の笑顔の前では言い出せなかった。
「食事は全員でとることになっている。さっさと席に着け」
昨夜とは打って変わって、リヒトの口調は厳しい。昨夜は夜番について教えてくれたり、菜月の軽率な行動をやさしく諭してくれたのに。
「昨日の夜?」
確かに部屋で寝ていたけれど、自分の足で歩いて戻った記憶がない。夜番の宿直の様子を見届け、そのままリヒトの、と、隣で……!
運んでくれた、のだろうか。
リヒトの顔が見られない。
寝てしまうつもりなかったのに。叱られて当然だ。リヒトは家族でも、恋人でも、もちろん夫でもない。昨日初めて逢った人なのに、さっそく醜態をさらしてしまうなんて。どうしよう。
「食べないの? 藤原さんお手製の朝餉だよ」
睨みながら、カズヤが問うた。
「た、食べる。食べます。全力でいただきます」
目の前のリヒトは、黙々と食事をしている。会話の中心はカズヤ……というより、カズヤが際限なくひとりでべらべらと喋り、藤原が笑顔で朗らかに相槌を打っている。菜月以外、食べ進む速さがまるで違う。遅れないように、菜月は無言でとにかく食べた。
いち早く、リヒトは食事を終えると立ち上がった。
「あの、私が片づけます。お膳、そのままにしていてください」
「お前が?」
リヒトは怪訝そうに菜月の目を見た。
「お姫さま育ちで、家事や雑用ができるのか。あとで、菜月には剣術以外に、なにができるのか聞かねばと思っていたんだが」
「十歳までは、蝦夷地で庶民暮らしをしていました。掃除、炊事、水汲みも。薪割りだってしていました。都の大納言家に引き取られてからは、縁遠くなってしまいましたが」
「蝦夷ではただの小娘で、ほんとうに姫ではなかったのか」
「へえ。きみ、思ったより使えそうだね」
「ちょっとはねっかえりのお姫さまだとばかり。今のは褒め言葉だよ、うん。都を守護する近衛府の一員なのだから」
「昔の感覚が取り戻せるまで、皆さまにはご迷惑をかけるかもしれませんが、なるべく早く力を出せるように尽力します。おいしかったです、ごちそうさまでした」
「砦の生活は全部、当番制だからね。お姫さんがやって来て正直困ったけど、なんとかしてよ。できなかったら、即追放。もちろんおまけに、きみの全部も奪うから」
「は、はい!」
カズヤの投げかけることばは厳しいけれど、もっともだ。半端な戦力は、かえって足手まといになる。北の砦は少数精鋭。菜月は心に銘じた。
食後の器を洗って片づけ終わると、厨にリヒトが顔を出した。
「これから二組に分かれ、外の見回りに出る」
菜月は袖をからげていた紐を外し、外を眺めた。
「風はあまり強くありませんが、雪が降っていますね」
「このあたりの天気は変わりやすい。吹雪に襲われることもある。油断大敵。防寒、防風は基本だ」
しっかりと頷き返しながらも、菜月はおそるおそる尋ねてみる。
「あの、リヒトさん。私、昨日の夜……あのまま寝てしまいましたよね。でも、今朝はしっかりと部屋の夜具にくるまれていて。でも、部屋に戻った覚えはないんです。もしかして、運んでくださったのですか」
「もしかしなくても、俺が運んだ」
やっぱり。菜月は苦笑した。
「重かったですよね、すみません」
「何度も謝るな。気が立っていたんだろう、昨日は。俺と話をしたことでお前が落ち着けたのなら、よしとする。だが、あまり無防備な姿をさらすなよ。俺もカズヤも、お前をまだ小娘、つまり一応女だと思っている」
「は、はい。すみませ……じゃない、分かりました」
早く、性別を超えた『仲間』になりたい。相当な努力が必要だろう。
「俺は、藤原さんと組になるからね!」
己を拾ってくれた藤原をこの上なく慕っているというか、懐きまくっているカズヤは藤原の腕をがっちりとつかんでいる。藤原のほうも、弟というか子どものようにカズヤをかわいがっているらしく、口では甘えるなと注意しつつも相好を崩しまくっている。
「仕方ないな。今日のところはリヒト、菜月ちゃんをお願いする」
「了解した」
雪の中で埋もれないように、三人の仕事着は目立つ色だった。藤原は鮮やかな赤。リヒトは目の醒めるような黒、カズヤは目にまぶしい黄。
「お姫さんは近衛府の制服? 浅い桜色と萌黄色が基調なんて、地味じゃない? 雛人形に飾る菱餅なの? 新しいの、仕立ててあげようか?」
カズヤがからかった。
「私はこれが気に入っているので」
「藤原さんは裁縫も得意なんだ。もし、きみが今後も砦に留まるのなら、作ってもらうといいよ」
見かけは無骨ながら、砦の頭領は家庭的な繊細さも兼ね備えているらしい。自慢されて、藤原は照れている。
「よせカズヤ。大の男が、裁縫などと」
「いいじゃないか。北の砦の隊長にして、主夫! 実際、すごく助かっているし、ねえリヒトさん」
「そろそろ行くぞ。無駄話はそのへんにしておけ」
リヒト隊が砦の東側を、藤原隊が西側を見回ることになった。西のほうが地形も険しく、難しいという。
街道など、とうの昔に雪と氷に埋めつくされ、なきに等しい。藤原たちと別れた菜月は道なき道、というか雪の上を進む。おそらく街道沿いに植えられていたと思われる立ち木の頭のほうだけが、どうにか見え隠れしている。あとは、昨夜リヒトが教えてくれた風を伝える仕掛けの一部……強い雪風にも切れない強い糸がずっと北に続いている。
風異には慣れているものの、深い雪に足を取られてしまい、思うように進めない。慣れているリヒトはどんどん先に行ってしまう。黒い背中がどんどん遠ざかる。さすがに除雪がされている都大路とは、訳が違った。
「リヒトさん、あのっ。待って。お願いします、もう少しゆっくり、お願いします」
恥ずかしいことに、すでに息が上がっている。寒さには強い身体を持っているのに、これぐらいのことで悲鳴を上げてしまうなんて、なんとも情けない。
リヒトはゆっくりと振り返った。
「遅い」
ただひとこと、冷たく浴びせかける。
「すみません」
「謝る暇があるなら早く追いつけ。この先に、風のたまりやすい場所がある。そこの風異を切っておかないと、都に届いてしまう」
「は、はいっ……っ、こほっ?」
菜月は背筋を伸ばして返答した。あまりに大きな口を開いたので、降っている雪を飲み込んでしまい、思わずむせ返る。リヒトが笑った。きっと、菜月の迂闊さにあきれているのだろう。菜月が神妙に口を閉じると、リヒトは遠慮がちに告げる。
「つい、都に置いてきた妹のことを思い出してな」
リヒトは丁寧に、菜月の顔についた雪を手で払ってくれた。
「妹さん、ですか」
「別れたときは、八つだった。貧しい暮らしながら、よく笑い、よく泣く子どもだった。少しは成長しているといいが」
「リヒトさんの妹さんなら、きっとうつくしい娘さんでしょうね。会ってみたいです。しばらく、お会いしていないのですか」
「藤原さんに従うようになってからは、実家には仕送りするだけで戻っていない。向こうからも返事はない」
「淡白なおうちですね」
大納言家では、父と義母がひっきりなしに菜月の部屋を訪れる。入内したとはいえ、姉との交流も盛んだし、そのほか邸には来客も多く、いつも人であふれ返っている。邸の文使いも、忙しく都を立ち回っている賑やかな家。
「自分が生きることに皆、必死なんだ。寒さに耐えかねるか。飢えで斃れるか。病で苦しむか。風異が、海の向こうの大陸から吹いてくることは知っているか」
「はい」
「開国を断ったところへ、寒波が訪れた。風の先には大陸がある。外つ国が、人為的に風を吹かせているとは考えられないだろうか」
人為的に? この風を?
「ほんとうにそんなことが、可能なんですか。風を吹かせるなんて」
「外つ国は、真砂国にはない高度な技術を持っている。風を吹かせることぐらい、たやすくできるかもしれない。昨日、夜には風異が弱くなると言っただろう。あれはきっと、風異の番が眠りこけるからだぜ」
とんでもない推論だと笑いつつも、もしかしたらそういうこともあるかもしれない、菜月はリヒトの考えに頷いた。