5 艱難の旅立ち
……翌朝。
邸からの追っ手は来なかった。菜月は寺の僧侶にお礼を述べ、北に進む。少しでも雪風が凌げるようにと、僧侶は袈裟と莚をくれた。菜月は袈裟を被り、莚で自分と相楽の身体を包む。
やがて、菜月の前に長い壁と大きな門が姿を現した。寒気避けのために、帝は壁を築いた。通る者は誰もいない。
凍りついた門を押し開けて都を出る。そこからは、洛外の地となる。菜月は北の砦に通じる北街道を進むけれど、道らしい道はなく、ほとんどただの雪原だった。道の両脇に立っている枯れ木には、街道を示す赤い目印がついている。かすれた文字で『北街道』と書いてあった。道標だけを頼りにゆっくりと進む。雪が深くて、相楽を走らせることもできないが、北街道は本来、北の海に続くなだらかな道だったと聞いている。
砦までは、たったの三里しかない。もし、馬が手に入らなければ、徒歩で行こうと思っていたことが無謀に思えた。この街道を、定期便が月に一度だけ出ていることさえ、奇跡のようだ。今まで、どれだけ自分が都の邸でぬくぬくと育っていたのか、いやというほど思い知らされる。情けない。都を一歩出れば、雪と氷の世界だというのに。
「相楽、ごめんね。砦まで、がんばろう」
なんとしてでも、日没までに到着しなければ。相楽のためにも、こんなところで倒れるわけにはいかない。菜月は手綱をぎゅっと握り締めた。休める場所もない。吹雪いていないだけ、運がよかった。
延々と続く雪景色。白一面の視界。薄暗い空。ときおり遭遇する赤い目印だけを頼りに、菜月は積もった雪をかき分けるように進んだ。
北国育ちの菜月さえ根を上げる寒さの中、手と足の感覚を失ってから、どれぐらいの時間が経っただろうか。北の砦は突然姿を見せた。
城とは呼べない、小さな要塞。
雪の白さにも目立つためか、壁は青く塗られている。おとぎ話の中から飛び出てきたようなかわいらしい外観に、菜月は笑顔を取り戻した。
重そうな扉を強く叩く。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか」
気が焦る。相楽を早く休ませたい。砦には、馬房もあるはずだ。馬は寒さに強い生きものとはいえ、深い雪道を都から歩き通したのだ、疲労も相当たまっているに違いない。砦に受け入れられなかったら、自分も野垂れ死ぬだろう。
「すみませ……」
いっそう、菜月は声を張り上げた。命の危険を感じながら。
すると、戸が右に動き、がらがらと物々しい音を立てて開いた。
「どうした」
菜月の前に立っていたのは、背が高くて体格の良い若い男性だった。短く切り揃えられた髪からは、さわやかな印象を受ける。頭の上に、烏帽子も冠もなにも被っていないところをみると、身分はあるかないかの地下者らしい。頭頂をさらすなど、貴族にとっては恥でしかない。
「またカズヤのやつ、女の子に無理な文を出したのか? カズヤ、女の子を砦へ呼ぶなとあれほど言っておいただろうが! 途中で遭難したらどうする」
なにか、勘違いされているらしい。菜月は男性を止めた。
「いいえ。私、勅命で。それよりなぜここに男性が」
風異の現場に出るのは、女性と決まっているのに。
「えーっ、俺呼んでないですよ。藤原さん」
長めの茶髪を掻き上げながら出てきたのは、思わず菜月がときめいてしまうほどの美形少年だった。澄んだ双眸に、紅い唇。やさしそうなほほ笑みを浮かべている。
「だが、女の子がこうして訪れてきているじゃないか」
「どこかで、俺の噂でも聞いてきたのかな。こんにちは。こんな僻地までよく来てくれたね。きみ、ひとり?」
「ええ。でも、馬と。あの、都から休まず歩かせてしまったんです。この子を、相楽を、休ませてあげてください」
「休まずに? それは大変だったね。おい、リヒト! 馬を見てやってくれるか」
奥に、まだ人がいるらしい。リヒト、と呼ばれた人が姿を現す、これもまた男性だった。菜月を無視して相楽のそばに寄った。さらさらの黒髪で、少し意地悪そうな目つきをしている。顔立ちは整っているのに、無表情で無愛想で残念この上ない。
「無謀なこと、するなよ。馬がかわいそうだろ。カズヤ目当てだかなんだかしらないが、莫迦女が」
初対面で、いきなり莫迦女扱いされた菜月は、頭に血が上った。
「莫迦とはなによ、莫迦とは! 人の話も聞かないで、私が美少年目当てで砦に来たとでも? 冗談言わないでください。私は、帝の勅命を賜って来たんですからね」
懐から、菜月は勅書を取り出した。『藤原さん』と『カズヤ』は覗き込んでくれたが、『リヒト』は興味なさそうに、さっさと相楽を厩へと連れて行ってしまった。
「きみ、近衛府の剣士なの」
カズヤが訊ねた。
「ええ。近衛府の尉です」
「しかも驚いた。大納言家の藤原氏の姫君じゃないか。大納言家といえば、承香殿の女御さまのご実家。女御さまの、妹君か」
「姉上とは、母親違いなんです。私は、蝦夷地生まれで」
問われるがままに、菜月は己の身の上を語った。藤原はふむふむと頷いて聞いてくれたが、カズヤはあまりおもしろくない顔つきをした。
「勅書には、『副隊長補佐』ってあるじゃん。つまり、俺の上司ってこと? ありえない。受け入れがたいね。どうして俺が女の子の下なのさ」
北の砦では、藤原が隊長、リヒトが副隊長、カズヤは小隊長、となっているらしい。
「都では、近衛府や検非違使など、風異と戦うのは寒さに強い女子と決まっているのに、どうして北の砦には男子がいるのですか。北の砦は、少数精鋭だと聞きましたが」
藤原、リヒト、カズヤはいずれも文官には見えない。皆、腰に剣を差しているし、服の上からも鍛えられた身体をしていることが分かる。
「答えはもう、きみが言った。『少数精鋭』だよ。ここにいる者は全員、風鎮めの剣が使える。ああ、あとふたりいるよ。今は出張させているがね」
「風鎮めの剣を?」
風鎮めの剣は、剣士の中でもごく上位の者にしか扱えない。剣に、鎮めの念を移すのは難しい。風を無にしてしまう力を発揮できるということだ。風を切ったり払ったり、薙いだりするのとは次元が違う。風鎮めの剣を操れるのは、都にも数える程度の剣士しかいない。
「もちろん、きみも使えるよね。なんたって、帝のお墨付きだもんね」
カズヤは自信たっぷりに、厭味っぽく訊ねてきた。
「つ……、使えません。私の剣は母の形見で、風鎮めの剣ではありませんから」
「ねえ、聞いた藤原さん? 風鎮めの剣も使えないくせに、勅命で来たなんて、俺には信じられない。ねーねーこの子、やっぱり遊び女かなにかじゃないかな」
あざ笑いながら、とんでもないことをカズヤは言ってのけた。
「遊び女?」
「そう、遊び女。この砦には男しかいないことをどこからか聞きつけて、荒稼ぎに来たんでしょ。その割には未成熟の、貧相な身体つきっぽいけど。まあこの際、誰でもいいか。藤原さん、俺がいちばんにいただいてもいい?」
「がはっ!」
カズヤは菜月を羽交い絞めにした。そのまま抱き上げてしまうと、菜月を奥の部屋にずるずると連れ込もうとする。
「ま、待て。カズヤ、待て! 早まるな。勅書はほんものだ。帝はすべてご存じの上で、この子を遣わしたのだよ」
「そうかなあ? こんな弱そうな女の子、砦の狼に食べられる運命にしかないと思うよ」
「やめろ、カズヤ。見苦しいぞ」
菜月からカズヤを引き剝がしたのは、リヒトだった。先ほど、相楽を厩に連れて行った男性だ。間近で見ると、いっそう目つきが怖い。菜月は唇を引き締めた。
「馬は少し疲れているが、外傷もなく無事だ。今日はこのまま休ませてやるといい。だが、この砦は雪が深くてろくに運動もできない。早めに都に返してやるべきだな」
口は悪くて態度も尊大だけれども、指摘事項はもっともだった。
「はい。あ、ありがとうございます」
「カズヤ、こいつも都から休まずに来たんだ。押し倒す前に、まずはお茶でも淹れてやれ」
「あー、はいはい。じゃあ座って」
促されて、菜月は円座に腰を下ろした。
「菜月ちゃんだ。大納言家のお姫さまだってさ。私は藤原ジン。この砦に配属された特命隊の隊長で、大導寺派だ。歳は二十六。黒髪無愛想がリヒト、二十一。茶髪の生意気がカズヤだ。二十だったな」
藤原から勅書を渡されたリヒトは、文書にさらりと目を通す。あまり関心がなさそうだ。
「ふうん。帝たっての依頼、か」
「ええ。帝は私を信頼して、派遣なされました」
「けれど、その様子ではなにも知らなかったようだな。北の砦には、俺たち男しかいない」
「あの馬で都に帰るのも、難しいなあ。次の定期便には、まだ十日近くあるし、俺たちは砦を留守にできないし」
「使ってみればいいんじゃないか、藤原さんが」
「この子をか?」
「ああ。見どころがなかったら、さっさと帰ってもらえばいい。試用期間ということで」
「是非、使ってください! 私、そのつもりで都を抜け出してきたんです。今さら帰るわけにもいきません」
菜月は食い下がった。ここで、帰れと言われては困る。邸に戻るようなことになれば、誰かと結婚させられて、二度と剣を持てなくなるだろう。
「俺は反対ですよ。こんな女の子が、副隊長補佐ですよ。俺より上位に立たれるなんて、心外。まあとりあえず、手籠めにしてから考えましょうよ」
カズヤが横槍を入れた。
「うーん。あの思慮深い帝のことだ。きっとなにか深いお考えがあって、この子を派遣されたのだと思いたいが、女の子を使うのか……いや、役職は三等官、副隊長補佐なのだから、リヒトが使えばいいだろう!」
「俺に厄介を押しつけるのか」
「いや、これは隊長命令である。お姫さまを指導するのは、リヒト。副隊長のお前だ!」
この、目つきの悪い人物が自分の上司になると決まり、菜月は今度がいっそう心配になった。