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4 脱出は突然に

 菜月は御簾から遠い、もっとも奥の部屋に隠れた。

 いったんは婚儀のために着させられた重い装束を脱ぎ、下に近衛府の制服を着込む。いつでも捨てられるよう、婚儀の装束は肩にかける程度だ。こんな重いものは着て逃げられやしない。最後の着付けは、沙耶が手伝ってくれた。

「これがいいわ。これをちょうだい」

 すべすべの装束をいとおしそうに撫でている沙耶。やはり女の子なのだ。

「持って帰れそうなら、どうぞ」

 装束は袿から上着まで数えると、十枚ほどある。これを全部持って逃げるとなると、かなりつらそうだ。しかし、大納言家の妹姫の初夜装束。相当な価値はあるだろう。

「なんとかする」

 沙耶は菜月の囮となって邸を攪乱することになった。その間に、菜月は邸外に逃げる、という算段だ。ふたりは背格好がよく似ていた。同じ髪型をして、近衛府の制服になれば、暗がりではとっさに判別できない。

「あんたの存在を消せる上、宮に仕返しもできる。こんなに胸が躍るのは久しぶりだよ」

 苦笑しつつ、菜月は荷造りをしている。この邸とも今夜でお別れ。抜け出せたら、近衛府の馬を一頭拝借して、北の砦まで駆ければいい。計画通り、できるだろうか。菜月は緊張してきた。

 やがて、車寄せのほうからざわめきが聞こえてきた。

「有里の宮さま、お越しにございます」

 女房からの報告が入った。菜月と沙耶は顔を見合わせ、頷いた。よし、決行だ。

 沙耶は形見の剣を取り返すため、大納言の部屋へ忍んで行った。菜月はじっと待つ。

 ゆるりとしたみやびな笛の音が響いてくる。これは、宮の笛だろうか。懐かしいような、ぬくもりを感じさせる見事な音だ。聞き入ってしまいそうになる自分を叱咤し、沙耶の帰りを待つ。

 待つこと、しばし。

 見事というか、さすがというか、沙耶はあっさりと菜月の剣を取り戻してくれた。女房に化けた沙耶は堂々と大納言の部屋まで行って帰ってきた。

「皆、寝殿で宮の対応に出払っていて、大納言の部屋はカラよ、カラ。剣は隠してあったわけでもないし、あっけないほど、簡単。もうちょっと警戒したほうがいいのに。ま、そんなことを言う機会ももうないか」

「ありがとう。とても助かった」

 菜月は剣をしっかり抱き締めた。母の形見、風異を切る剣を。

 けれど、感慨にひたる余裕もなく、次の行動に出る。

 まず、近衛府の制服に着替えた沙耶が、菜月の部屋を出る。菜月が逃げたと思わせて、捜索の手を沙耶に集中させる。その間に、菜月は正反対の壁をよじ登り、邸の外に出て近衛府を目指す。首尾よくことが済んだあとには、近衛府で落ち合うことにしたが、どうなるかはやってみなくては分からない。

「ここまでほんとうにありがとう、沙耶さん」

 心からのお礼だったが、沙耶は軽く受け流す。

「あたしは自分のためにしただけ。お姫さんに感謝されるなんて、心外。ねえ、ここの香筥ももらっていい? あんたの装束は、重いからやめる。上着とか唐衣とか、すごくきれいだけど、持ったら走れない。捕まったら、元も子もないし」

「懐に入るものなら、全部譲るわ」

 狙いを手近な小物に移した沙耶は、あれこれと懐につめてゆく。鏡、櫛、絵巻に香木。

「あと、これをぜひ持って行って。うちでよく使っている膏薬なの。私も使っているけど、肌荒れによく効くから」

 菜月の手のひらの中には、漆塗のはこが載っている。沙耶は一瞬目を瞠ったけれど、奪うようにして受け取った。

「ほんとにおせっかいだね、あんた。人の手荒れなんて気にしている場合かっての。長居するのは、よくないね。さ、行くよ」

 ひとつに結った髪をなびかせ、沙耶は階を下りた。婚礼衣装の袿を、被布代わりにして頭からかぶっている。目くらましに使い、邪魔になるようなら、どこかに置き捨てるだろう。急な支度だとはいえ、きちんと新調された装束はもったいないけれど、この際諦めるしかない。あとは、沙耶の無事を祈るばかり。

 菜月自身の仕事も残っている。床に向けて高坏や須恵器などを叩き割り、騒動をでっち上げる。がしゃんがしゃんといい音を立て、器は砕け壊れた。ついおもしろくなって、菜月は思いっ切り暴れる。音を聞きつけた女房たちが部屋に寄ってきても、この惨状では足の踏み場もなく、御簾内には近づけない。

 仕上げに、思いっきり息を吸い込み、沙耶が叫ぶ。

「きゃあああーっ、菜月姫さまがお逃げになったわ! 西門の方角よ」

 沙耶は、地声よりも甲高く作って絶叫感を演出し、邸内に悲鳴を響かせた。前職が前職だけに、さすがにうまい。叫ぶだけ叫ぶと、沙耶の姿は闇に消えてすぐに見えなくなった。

 菜月は、東の壁を乗り越えるつもりでいる。ふだんから警備が薄く、登りやすい木が壁のそばに立っているのを知っていた。

 灯りが、いっせいに西門に向かう。邸で使っている武士たちが移動しはじめた証拠だ。

 月明かりだけを頼りに、菜月は庭に降りた。持ち出せたのは形見の剣と、少しの食糧、簡単な着替えが入った包みがひとつ。ごめんなさい、父上母上。でも、こうするよりほかになかったの。

 六年間、慣れ親しんだ部屋が遠ざかる。森のような庭の木々を縫うように、凍っている土の上を滑るように走る。氷のように固まった雪塊が菜月の歩みを妨げる。頬が切れてしまうような冷気が、菜月を襲う。

 目標としている木が、見つかった。枝に手を伸ばすと、激しい鼓動が口から飛び出てきそうだった。地面を蹴る。

「ごめんなさい、父上母上。姉さまも、心配かけます。今まで、ほんとうにありがとう」

 壁をひらりとかわした菜月は、北へとひた走った。

 これで、勝手に決められた婚約なんて、破棄だ。


 東三条の邸から走り通してきた菜月は、近衛府の厩に飛び込んだ。

 どの馬も寝ている。夜の馬房は静かだった。

「沙耶さん、いる?」

 先に部屋を飛び出した沙耶が、近衛府に先着していてもおかしくない。けれど返事はなかった。残念に思ったけれど、姫はすぐさま気を取り直し、お気に入りの馬・相楽(さがら)を牽き出す。

「ごめんね、眠っているところを邪魔して。でも、大事なときなの。許して。少しだけ、走って」

 焦る手で、菜月は馬に鞍をつけた。汗で手が滑り、うまく進まない。緊張で頭が割れそうなほど、鼓動がわんわんと高鳴っている。眠りを妨げられた相楽も、不機嫌そうだった。

 とりあえず、夜明けまではどこかに潜伏し、明るくなったら馬を一気に走らせる。北の砦に入ってしまえば菜月の勝ちだ。内裏にまでは菜月の起こした騒動の件がまだ届いていない。菜月は相楽に乗り、堂々と内裏の門を出た。見咎める者はいない。

 この夜は、洛北にある寺の納屋に泊めさせてもらった。相楽も一緒に入った。震えるほど寒かったけれど、菜月は期待でいっぱいだった。

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