32 衆人環視の中
「賑やかなことで。外つ国の使者ですかね、へえ」
「その通りだ。静かに」
父は咳払いをした。そして、指定された大納言用の席に戻ってゆく。
入れ代わりに、文官のひとりが菜月たちの前に出てきた。知っている顔だ。頭中将。帝の側近・蔵人の長官であり、近衛府の中将を兼任している若き公達だ。
「帝からの下命です。『姫の風を、見せるように』」
菜月は息を飲んだ。
皆が見ている前で、菜月の風を起こさなければならないらしい。もっと早くに教えてくれればよかったのに。今日は、宮中にただ顔を出すだけだと思っていた。せいぜい、今後の仕事について説明があるぐらいだと。
なんの心構えもできていない。
いや、早めに言ってくれたとしても、緊張が高まるだけで悪影響だったと思う。逃げ出していたかもしれない。拳をぎゅっと握り締める。
皆が、菜月を見ている。
帝が、公卿が、后妃が、使者が。
目という目が、すべて菜月を射抜いている。
『不思議な風なんて、嘘だったのか』
『大納言殿の庶娘と聞いていたが』
『男をふたりも連れて』
『気でも触れたのか』
『帝の覚えもめでたいという噂も、どうやら今日までですなあ』
『大納言家もこれまでか』
非難めいたひそひそ声が、聞こえてくるようだった。菜月は耳をおさえた。菜月の異様な怯え具合に、リヒトがそっと近づいて声をかける。
「菜月、だいじょうぶか。つらいなら、少し時間をいただいて」
「そうだよ、お姫はまだ風を自在に操れるわけじゃない。こんなの、晒し者みたいでやり方が汚いよ。お姫は剣士だけど女の子なんだ、もっと配慮があってしかるべきだ」
カズヤもリヒトの意見に賛同し、頭中将に視線を移動させた。
「どうした、早く行え。帝がお待ちだ」
菜月の遥か上司でもある頭中将は、無表情のまま菜月を急かした。おそらく、近衛府所属の菜月が失態をおかせば、頭中将も責任を問われるのだろう。声がいっそう厳しいものに変わってゆく。帝を引き合いに出されては反論できない。菜月は憤慨するリヒトとカズヤをなだめ、もう一歩前に出た。
「かしこまりました」
成功すれば、菜月の望みは思うまま。だが、失敗しても人の噂は七十五日。ほとぼりが覚めたころに、菜月は父の命じるままに剣を捨て、婿を取らされる穏やかな未来が待っているのだろう。父としては、いっときの恥を耐えれば、菜月を監視下に置いておけるのだ。父は、菜月が負けることを期待しているかもしれない。
ならば、やるしかない。
菜月は、剣士として生きたいと思っている。むしろ、これだけの舞台を用意してくれたこと、父に感謝するべきだ。菜月は父に目配せを送った。
「リヒトさん、カズヤさん。少しだけ、力を分けてくれませんか……手を」
菜月はふたりの前に、手のひらを差し出した。
両の手に、あたたかい手が重なった。菜月を気遣うリヒトの気持ち。菜月を励ますカズヤの気持ち。それぞれが菜月の身体の中に、どんどん流れ込んでくる。心地よい。
「ありがとうございます」
そう言って、紫宸殿のほうに向き直る。帝から、もっともよく見える位置に立つ。深く、礼。よく御覧になってください、帝。菜月は心の中で唱えた。
いよいよ剣の柄に手を当てると、『おう』『ほう』という声が格子から漏れた。期待されているのか、されていないのか。菜月はほんの少し、苦笑いした。
すらりと剣を引き抜く。
南の風を呼べたら、どうしようか。あたたかい風がほんのわずかな時間だけ頬を伝うのでは、ただの偶然と思われるかもしれない。居合わせている皆を、納得させなければならない。反論できないほどに。
残念なことに、南庭には積雪がない。紫宸殿の屋根にもない。ここ数日のあたたかさで一気に融けてしまったのか、それとも融けはじめた雪の姿は無粋だから片づけてしまったのかもしれない。
扱いこなせるかどうかも分からないのに、春の合図を探さなければならない。
春、春、春……。
赤い刃を上にして、菜月は舞った。
剣よ、南の風を、とらえよ。
もっともっと、とらえよ。連れて来い。
春を。
皆が待つ、明るい春を。
舞など、習ったこともない。いつか見た記憶を頼りに踊り狂う。本業の舞師などにしてみたら、さぞかし滑稽なはずだ。けれど、菜月は剣舞をやめなかった。
母さま、力を貸してください。剣に封印した、母の心に訴えた。
「おい、左近の桜が!」
「桜が……芽吹いてきた?」
まさか、と居並んでいる人々の間には動揺が走った。しかし現実に、桜の蕾は菜月の風を受けてどんどん大きくなり、次第に芽を破ると淡い色をつけはじめた。
「橘のほうも、新芽が伸びている! あれは、花が咲きそうだぞ」
桜のとなりに植えてある右近の橘も、緑の勢いをぐんぐん増している。もともと常緑樹のため、葉はついていたのだが、新しい葉の間からかわいらしい花が見え隠れしはじめた。
そうこうしている間に、桜花が一気に開花を迎えた。可憐な花が咲き揃う。白に、一滴だけ紅を垂らしたような繊細な花色は見る者を惹きつけてやまない。
満開になった桜は、自身を誇るかのように佇んでいる。
「なんと、なんと!」
「あの女剣士の技なのか?」
「いや、なにかの術に違いない。寒波が来てからはここ数年、一度も咲かなかった桜が」
「いや、しかし、このあたたかさと陽だまりのぬくもりは、まさしく春そのもの」
「いいや、あの者。賤しい女の腹から生まれたと聞く。おかしな咒を操る似非陰陽師だろう」
「そうだ。しかけやからくりを探せ」
「あの桜花、よくよく見たら紙でできている作りものの花かもしれぬ」
「誰ぞ、近くで確認せよ」
こんな奇異を目の当たりにしても、信じられない人はたくさんいるらしい。菜月は、剣を大きく翻した。風に舞った桜の花びらが、簀子に降り注ぐ。季節外れな花と花弁に触れた公卿たちから、それ以上の注文は、もう出なかった。
外つ国の使者たちも、大きな目を丸くして菜月と桜を交互に確認している。
帝は……どうだろうか。菜月は花吹雪に視界を邪魔されつつも、玉座を仰ぎ見た。
ほほ笑んでいる。菜月と視線が合うと、それでよいとでも告げるかのようにゆっくりと頷いた。帝の手のひらから、あたたかい賞賛の拍手が生まれると、拍手はこだまのように呼応しはじめた。居合わせる人々が皆、手を叩く。拍手は紫宸殿全体に響いた。
菜月は、両脇に並んだリヒトとカズヤとともに、深く深く、一礼をして鳴り渡る拍手に応えた。
褒美にと、帝からは御衣を賜った。帝のお召し物を下げ渡されることは極めて稀であり、とても光栄なことである。菜月はもう一度、丁寧に礼をした