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31 久々の出仕は

 いよいよ、その日が来た。

 都では、朝の早起きがわりと得意な菜月は難なく自分で起き出すと、さっさと顔を洗って着替えを済ませた。世話係の女房たちが恐縮するのをなだめる。軽い朝餉を終えると、庭先にリヒトとカズヤが現れたと、女房から知らせが入った。

 菜月は近衛府の戦装束に身を包んでいる。

「おはよう、ふたりとも」

 格子を上げさせると、地面の上に平伏しているふたりがいた。

「おはようございます、菜月さま」

「おはよう……ございます」

 立場上、カズヤは菜月の部下だからともかくとして、リヒトは菜月の上司。リヒトに頭を下げさせるわけにはいかない。驚き、困惑した菜月はとにかく身を翻し、ひらりと廊から庭に飛び降りた。

「だめです。こんな真似したら」

 まるで菜月の配下だ。菜月はリヒトの装束についてしまった砂汚れを、手で丁寧に払う。

「だが、大納言さまのお邸では、こうするのが筋だろう」

「そうそう。なんといっても、ただのお姫じゃなくて、『菜月姫』だもん」

「カズヤ。ことばづかいに気をつかえ」

「へえへえ……じゃなかった、はいはい」

「いやだ。カズヤさんまで。心外」

 菜月は震えた。ひれ伏すふたりとの間には、身分の壁がある。

「今日はいっそうおうつくしいですよ、菜月さま」

「ですねえ、リヒトさん。菜月姫は、宮中の花ですよ」

「お支度が整っておいでならば、そろそろ参りましょうか」

 ふたりの態度は、やけによそよそしい。菜月は胸が痛んだ。いつものように、軽口や冗談をたたいてくれないふたりの存在が、とても遠い。

 なるべく早く出仕するよう、大納言からの指示が出ているらしい。菜月は当然のように相楽に乗ろうとしたが、リヒトが案内したのは貴族が乗る牛車だった。

「どうして、牛車なの」

「相楽はきちんと近衛府に返しておきますので、ご心配なく」

「さあ、乗って。菜月姫」

「いやよ、私は相楽に乗りたい」

「『今日ばかりは、姫君らしく振る舞うように』。大納言さまからのご伝言です」

 近衛府に仕えている剣士に対し、今さら姫君らしくなど笑ってしまう。父もいったい、なにを考えているのだろうか。菜月は唇を噛みながら、少々荒っぽい態度で牛車に乗り込んだ。菜月に驚いた牛が逃げてしまえばいいのに、と思いながら。

 菜月を乗せた枇榔毛びろうげの車は、ゆったりと都大路を進む。馬を走らせればこんな距離、ほんの一瞬以下だと不満を膨らませる。ついいらいらして、爪を噛みそうになってあやうく止める。帝に会う前に爪ががたがたなんて、失礼だ。あり得ない。菜月は常になく、心の内がざらざらと荒れていた。

 だが幸い、牛車の中には監視もなく、ひとりきりだったので、菜月はほんの少しだけ物見窓をそっと開いて周囲を観察してみた。

 先触れの面々のあとに、菜月が乗っている牛車を守るものものしい武官が、前後に十人ほど。警備が固い。リヒトとカズヤ、それに大好きな相楽も含まれていることには安心した。

 日々、近衛府に出仕していたときは、ほとんどひとりでのんびりと通勤していたのに、このものものしさはなんだろう。女物の装束を強要されていないだけ、まだましというものなのだろうが、菜月は戸惑い、いっそうの緊張を募らせた。

 郁芳門で車を降り、大内裏の中に進む。リヒトとカズヤは初めての御所。表情が固くなっている。

「肩の力を抜いてね、ふたりとも。怖いところじゃないよ、ここは」

「……荒廃した豊楽院、物の怪の巣窟宴の松原……ぶつぶつ」

「がっちがち、リヒトさん。この人、風異は平気でも、お化けや幽霊は苦手なんですよ」

 意外だった。獣化した風異にも果敢に立ち向かっていたリヒトが、幽鬼のたぐいを怖がるなんて。ちょっとかわいい。菜月はくすりと笑ってしまった。

「笑ったな? 今、笑っただろ」

「だって、かわいくて」

「か、かわいい……年下の女に、かわいい言われた、俺」

 菜月のあまりにも素直なひとことに、リヒトは絶句した。

「よかったですねえ、リヒトさん。お姫にかわいいなんて言われて。あ、お姫じゃない、菜月姫だ菜月姫。訂正っと」

 他愛もない会話が続き、三人の表情も多少はほぐれてきた。リヒトの顔つきは不機嫌になってしまったけれど、先ほどまでのよそよそしい態度よりずっといい。

「菜月姫さま、どうぞこちらに。三条の大納言さまの命で、お迎えに上がりました」

 そこへ、蔵人のひとりが迎えにきた。三条の大納言……父の命というよりも、蔵人が来たということは帝の意思なのだろう。蔵人は帝に近侍する役人だ。

 連れて行かれた先は、紫宸殿南庭。公的な朝廷行事が執り行われる、極めて神聖な場所だった。近衛府の剣士で女御の異母妹というだけで、ごく軽い存在の菜月ゆえ、晴れやかな舞台の前には思わず目がくらみそうになる。せっかく緊張がほぐれてきたのに、一気に不安が露出する。

「どうしよう。南庭って、朝拝なんかで公卿が揃ってずらーっと並ぶ、あの場所よね」

「ああ。そうだな」

「紫宸殿の前には、左近の桜。右近の橘。初めて見たよ。一面の白砂利かあ、見事だね」

 情けないことに、三人は過度の緊張で一致団結した。おなかが痛くなってきたような気さえする。帰れるものなら、もう帰りたい。帝に会う覚悟は決めていたものの、姉女御の部屋で非公式に面会そして談笑、などと勝手に想像していた。

「あ、父上さま。父上さまっ」

 ようやく、菜月は親しい顔を見つけた。父上だ。

「よく来てくれた。だが、ここでは、大納言さまと役職名で呼びなさい。わしは勤務中だ」

「そうだ、すみません。じゃなく、ではなく申し訳ありませんでした。ちちう……大納言さま」

「すでに帝が菜月の到着をお待ちだ。砦からの供も、ついて来なさい」

 渋い顔の父……大納言みずからの出迎えである。菜月は息をひそめた。

 巨大な紫宸殿を見上げる。帝が日常、使う御殿には迫力があり、圧倒される。果たして、無事に帝に謁見できるのだろうか。失敗をしたら、父の、砦の恥になってしまう。

 そもそも、父のほうから北の砦の現状については帝に報告してある。菜月はなにを語ればいいのだろうか。しかも、南庭に通されたという事実は、正式な面会が行われることを意味している。外つ国との交渉には、どのように参加すればいいのか。

 ばたん。

 ばたん、がたん、ばたん。

 大きな音を立て、次々と紫宸殿の格子が上がる。思わず、菜月たちは足を止めてしまった。

 格子の向こうには、文官武官問わず、公卿たちが居並んでいた。帝も、中央の玉座に座っている。菜月の姿を認め、ほんの少しだけ目を細めてくれた。菜月の位置からは見えないけれど、女御更衣たち、帝の后妃も揃っているらしかった。御簾から見え隠れする色とりどりの出衣が華やぎを添えている。

「おい、あっちの席……!」

 リヒトが驚くのも無理はなかった。

 身にぴたりと沿った装束に身を包んでいる、見慣れない一団がいたからだ。座っているのにおそろしく背が高く、大きな目は海のように青い。髪の色も、茶色や金、銀髪などが見えた。

 外つ国からの使者だった。


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