3 密談は妥協案
人払いをした菜月の部屋に、沙耶が座っている。
「……それで、あたしが呼び出されたわけ」
いかにも迷惑そうな顔で、沙耶は口を曲げた。
近衛府に忘れ物をしたから大納言邸まで届けてほしい、と沙耶を指名した。女房たちの目をかいくぐるために、文使いには謝礼を奮発した。文には、菜月が置かれている状況を簡単に、しかし緊急事態だと書いた。来てくれるかどうかは賭けだったが、沙耶は来てくれた。
よっぽど、菜月に都を出て行ってほしいらしい。そんな沙耶の素直なところが、菜月はわりと好きだ。げんに、菜月を守っていた女房たち数人には素早く沙耶の手刀が数発決まり、すでに眠ってもらっていた。敵にはしたくない、鮮やかな技の持ち主。
「このままでは、結婚させられてしまうの。都を出られなくなる」
「砦行きだろうと結婚だろうと、あんたが近衛府を辞めることになるなら、あたしは別にそれでいいんだけどね。欠員が出ることに変わりない。せいぜいがんばってきて」
「そんなこと言わないで、お願い。あなたにしか頼めないの」
「それ、あたしの前職を知ってのお願い?」
沙耶は近衛府に入る前、貴族の邸に入って盗みを繰り返す生活を送っていた。飢えている幼い弟妹を食べさせるためとはいえ、かなり危険なことをしていたらしい。ある日、とうとう検非違使に捕まったが、その身のこなしを買われて逆に出仕するようになったという。
赤茶けた乾いたくたくたの髪に、つやのない肌。菜月と同じ歳ぐらいだと聞いているが、やつれているせいでもっと年上に見える。もともとの顔立ちはよく整っているほうだから、余計に残念だ。
「お願い。お礼はきちんとするわ」
「おとなしく、ここでお姫さんしていればいいじゃない。ひどい暮らしを強いられている人はたくさんいるのに。広い邸。あたたかい部屋。うつくしい装束。豪華な調度。やさしい父母。うるわしい婿君。おいしい食事。せっかくつかんだ運、手放すなんて。あんた、莫迦?」
あえて厳しい場所に行こうとする菜月を、沙耶は非難した。
「うん。莫迦かも」
「あとで後悔しても、受け付けないからね」
「ええ、もちろん。私からお願いしているのに、卑怯なことはしない」
「ま、口ではなんとでも言える。礼には、なにをくれるのさ」
「沙耶さんの望むもの。あなたを、私の後任に推薦するわ。口は悪いけれど、都の現状を憂いているあなたの気持ちには、私と同じものを感じる」
沙耶は目を逸らした。
「同じもの? あんたみたいなお姫さんと、下卑たあたしが」
「救いたい。助けたい。あなたは全身で訴えている。推薦状を書いて用意しておいたから、明日にでも近衛府に提出してください」
推薦状を奪うようにして、沙耶は受け取った。
「さすがにいい子ちゃんは用意がいいわね。あと、あんたのいちばんお気に入りの装束を、私にちょうだい。うんと豪華なやつよ」
「分かったわ」
菜月の意思は固い。沙耶もようやく諦めたらしく、ふうと大きく息を吐き出した。
「あたしも渡しておく。忘れ物」
沙耶が取り出したのは、帝の勅書だった。菜月を、北の砦の副隊長補佐に任じる、と書いてある辞令……勅命だ。これを持って行けば、北の砦内でも働きやすいだろう。帝の根回しのよさに、菜月は恐れ入った。
「嬉しい忘れ物。ありがとう」
「帝、勘が鋭いよ。証拠として、勅命を『形』にして出しておけば、拘束力は絶大だ。はっきり言って、あんたは結婚引退なんかできないんだよ」
もちろん。菜月は頷いた。
「で、婚儀の相手って誰なのさ。外腹の鄙娘とはいえ、大納言家の係累でしょ」
「有里の宮、というお方らしいわ」
その名を聞いて、沙耶は目を剝いた。
「ありさとのみや?」
「え、ええ。それが、なにか? お知り合い?」
「なにか? じゃないわよ。のんきねえ。北の砦に行こうっていうほどの肝の持ち主なのに、世間知らずにもほどがあるわ。あいつ、遊び人で有名。あたしの友だちも、何人騙されたことか。思い出すだけでも寒気がする」
「そんな。父上は、誠実なお方だと」
「大納言家の財産狙いでしょ、きっと。腹黒。ふうん、許せないわね……大納言の部屋はどこ? 宮が来るのは何時? 計画している逃走経路は? 懲らしめてやる」
菜月と沙耶は、密談をはじめた。菜月を囲んでいた女房は沙耶が倒してしまった。ほかの女房たちは今夜の支度で大急ぎのため、菜月の同僚である沙耶のことに構っている者はいなかった。