29 菜月無事帰京
菜月は、いったん都へ帰ることになった。
父・大納言の進言で、外交交渉に当たっている外つ国の役人を都に呼び寄せるらしい。
菜月には、リヒトとカズヤが付き添うことになった。今日ばかりは、きちんと冠に袴をつけ、立派に正装している。
「隊長、申し訳ありません。砦の有能なふたりを、大納言家が引き抜いてしまうなんて」
父は菜月の進言を聞き入れ、菜月の供としてリヒトとカズヤの同行を許した。
「なあに、菜月ちゃんと入れ替わりで、大納言さまから新たな守護兵が赴任してくれたことだし、そもそも風異は弱まっている。だけど、収まったわけではない。都での任務を済ませたら、できるだけ早く戻ってきてくれよ、菜月ちゃん。きみは砦に必要な人だからね」
「藤原さん……」
ほんの短い付き合いしかなかったのに、あくまで藤原はやさしい。菜月は涙がこぼれそうになった。しゃくり上げる菜月を前に、藤原はリヒトに助けを求める。
「別れに涙はなしだ、なあリヒト」
「ああ。必ず、北の砦に戻る」
「俺だって。藤原さんのもとに、絶対必ず」
砦に来たときと同様、菜月は相楽の背に跨った。リヒトとカズヤも馬上の人となる。三人が目指す、都までは半日の距離。行きに菜月が難儀した街道は、雪がだいぶ融けたのと同時に、車の往来や馬で踏み固められ、歩きやすい。ほんの先日、菜月は遭難しそうになりながら同じ道を苦しんだのに、えらい違いだった。
「最近、この道を通るのは定期便のみだったはずですが、道がだいぶ開けましたね」
「ただの雪道だったのにな。道とも呼べないような、細い筋。しかも、雪が降ると消えてなくなるような、頼りないものだった」
「あれ。お姫は、都のことで頭がいっぱいか。あーあ、呆け中ね。恋する相手に逢えるかと思うと、さすがにお姫も乙女の姿に戻るんだねえ」
カズヤの厭味も、今の菜月の耳には入らなかった。
三人は都入りを果たしたら、大納言邸に入ることになっている。父はともかく、家出同然で砦勤務をはじめたことを、母上にはなんと言って謝ろう。この身を心配してくれた姉上にも申し訳ない。馬の背中に揺られながら、菜月は都に思いを馳せている。
帝には、自分のことよりも、北の砦のことを売り込みたい。そして、自分が実際に見てきたこと、体験したことを率直に伝えよう。きっと分かってくれるはずだ。
都の、北の門をくぐると、見知った顔が立っていた。
「近衛府がさ、一行を出迎えろってうるさくて。ま、一応ね」
菜月の邸脱出を手伝ってくれた、近衛府の女兵士・沙耶だった。数人の兵を連れている。
「沙耶さん!」
「警護だよ、警護。別に、あんたを歓迎しているわけじゃないから、勘違いしないでね。帝のご指図」
「どちらでもいい。うれしい、あなたが来てくれるなんて。元気そうね」
「あんたの推薦状で、あたしは出世したし。これで、あいこだから」
「私のことに巻き込んでしまったから、その後どうしているのか心配していたんだけど、よかった」
「嘘ばっかり。四六時中、砦では美形の男子に囲まれてちやほや過ごして、私のことなんて思い出す暇もなかったでしょ。ほら、今もふたり持ち帰って、連れて歩くなんて。見せびらかしてんのかって」
「も、持ち……!」
沙耶はずけずけと、リヒトとカズヤを観察した。
「年上のもの静かな美形と、わがままそうな俺さま美形か。使える男子が少ない世の中なのに、菜月にしてはやるじゃない。合格ーっ」
「ごうかく、って」
「飽きたら、どっちか頂戴ね」
「この人たちは、私の仲間! そんないかがわしい関係じゃない」
「誰も、いかがわしいなんて言っていないって。ただ、年頃の男女が砦の中で一緒に暮らすなんてことになったら、そう考えるのが自然でしょ。これで子どもがどんどん増えれば、人口が増えて、真砂国は万歳じゃない」
沙耶の意地悪は健在だった。菜月は口をぱくぱくさせるだけで、反論できない。
「お姫の負け。剣はいいけど、そろそろ話術も磨かなきゃねえ。ま、砦でお姫が毎晩男をとっかえひっかえ寝ていたことは事実だし」
「まあ、発展的。ずいぶん、進歩したわね」
「カズヤさんっ! どうして、誤解を広げるような嘘を! 私が眠りこけたのを帳台まで運んでもらったり、小屋で雑魚寝しただけですよ。リヒトさんもなにか言い返してください」
「……ああ、くだらん。実に、くだらん」
沙耶を加えた一行は、南へ下がる。帝と女御が住んでいる御所の前を過ぎた。御前にお召しがあるのは、明日の予定だ。
懐かしい大納言邸が見えてくる。留守にしたのは、ほんの十日にも満たないのに、はるか遠い場所から帰ってきたような気がする。
「うわー、豪邸だなあ。貴族の邸としてお手本のような、豪華な寝殿造。庭も広いし、池もあるし。極楽だね、これはまぶしい」
「大納言ともなれば、これぐらい当然だろ」
邸の従者が、次々と菜月たちを迎える。
「姫さま、お帰りなさいませ」
「よく御無事で」
「お帰りなさい、姫君!」
知った顔の歓待に、菜月は手を振って笑顔を返す。馬を預け、菜月は己の部屋に戻ろうとしたが、菜月はふと立ち止まった。相楽は自分の馬ではない。明日には、お別れである。
「寒いところを付き合ってくれてありがとう、相楽。とても助けられたよ」
相楽の額から鼻筋をやさしく撫でる。相楽はうれしそうに、菜月の頬へと面をすり寄せた。
対の屋へ向かう菜月の後ろを、リヒト、カズヤ、沙耶が続く。
「やっぱり、お姫さんなんだねえ。蝦夷地生まれの外腹とはいえ、すごい人気」
邸の者が菜月の姿を見ると、次々に頭を下げる。
「本人の性格にもよるだろう。菜月は、外で剣を振り回していたほうが性に合うらしいし」
「邸の奥でおっとり貝合わせや、静かに物語を読むお姫なんて、想像できないや」
「同意」
「あのね、全部聞こえていますよ。黙ってついて来てください……つべこべ言うのは、あっ」
階の上に、こちらを凝視している女性がいた。鮮やかな装束に、不安そうな表情。菜月がもっとも会いたくないと思っていた人が待ち構えている。嫌っているのではない。ただ、なんと言い訳したらいいのか、困っている。
「菜月! 菜月っ」
「……母上さま」
父の正妻・一花だった。一花は菜月の姿を認めるなり、泣き出した。
「心配しましたよ、どれだけ父と母を苦しめたと思っているのですか、菜月」
「申し訳ありませんでした、母上さま」
うつくしいはずの双眸は、赤く腫れていた。菜月を案ずるあまり、眠れない日や不安な時間を過ごしたのだろう。しかもこのような端近で娘を迎えるなど、普通ではありえない。菜月は罪を感じた。
「それとも、成さぬ仲と侮っていましたか」
「まさか。母上さまから受けた恩は、海より深いのに」
それは真実だった。血がつながらないとはいえ、母上は菜月を姉の女御と同じように慈しんでくれた。しかし、父が任地で浮気して作った子だ。憎い存在のはずなのに。母上にいじめられた覚えはまったくない。
「菜月、遠くには行かないで。婚儀を強いて、ごめんなさいね。あれを最初に言い出したのは、私なのよ。菜月を結婚させれば、邸に居座らせることができるもの。姉女御のように、入内したまま戻ってこないなんてこともないでしょう。妙案だと思っていたの。でもあなたは出て行ってしまった。殿と約束をしたそうね……入内の」
「い、いいえ! 私は、入内いたしません。女御さまと寵を競うなど、絶対にできません。このお話は即座に断りました。この邸にずっといます」
帝を巡って姉と争うなど、あってはならない。菜月は己の心を押し殺し、否定した。
「でも、いいじゃなーい? 菜月がほんとうに帝のことを好きならさ。帝の妃なんて、女としては最高の出世だよ」
「さ、沙耶っ?」
腕を組んで柱にもたれかかり、気だるそうに発言したのは沙耶だった。本来ならば、皇女である一花に声をかけてよい身分ではない。あわててリヒトが沙耶の口を塞ぐ。
「むがが、わたひは、ほんとうのことを言っただけにゃのにっ」
「黙れ、黙れ黙れ。出迎えはいいから、お前もう近衛府に帰れ。報告しろ、『菜月無事帰還』とな」
「えー、まだ褒美をもらっていなーい」
「あとで必ず送る。お前がいると、ややこしくなる」
「そんなこと言ったら、あなたたちも私と同類。砦の愛人一号二号、とかささやかれているわよ、きっと。女房たちに」
「俺は別に、愛人でもいいけどね。部屋つき食事つき、労働免除生活。憧れる」
「カズヤ!」
「大納言家の姫の愛人なんて、願ったりかなったりですよ。施薬院の隅っこで息を潜めていたころに比べたら、格段にね」
「お前ら、ごちゃごちゃうるせえぞ。北の方さまの御前で。褒美だの愛人だの、下世話過ぎる」
リヒトの喝で、カズヤと沙耶が黙った。一花が、菜月の手を取る。
「帝を、ほんとうに慕っているの? 菜月」
皆の目が、自分に集まっている。はっきりさせたほうがいい。菜月は母上の手を握り返した。
「ええ、慕っていました。少し、前までは。今では、敬うべきお方、です。私には、剣がある。帝を支えるのは姉の女御です。私は器用ではないので、帝と剣の両方を追いかけることはできません。私にしかできないこと、といえば剣です」
「姫がいなくなってから、殿はあなたの入内を画策して奔走しておいででしたよ。段取りさえ組めば、必ず戻ってくるだろうと、切に祈って。今は、姉妹ともに今上へ上がることを嫌悪する殿上人の説得に忙しくしていらっしゃる」
「私は、入内しません。だから、都にも留まりません。私は、外つ国との交渉が終わったら、北の砦に戻ります」
「なんと……!」
「帝をおなぐさめするのは、女御さまのお役目です。北の砦を守ることが、私の任務です」
決意を語る菜月を見たリヒトは、カズヤを促してその場を離れた。沙耶とカズヤはまだ菜月のことを見守っていたかったようだが、リヒトに引っ立てられてしまった。