28 父決意母祈念
「ツキハ。お前は、ツキハなのか。そんなところにとわられてしまって、なんともいたわしいことだ。わしのせいだな、わしの。すまん。そなたを愛したばかりに、無垢なツキハに罪を負わせてしまった」
氷獣に向かって、父は頭を下げた。無防備だ。尖った氷の塊の先端を、いつ振り下ろしてくるか分からないのに、父は氷獣をまるで怖れなかった。
「父上……?」
氷獣に差し伸べられた父の手が、届きそうになったとき、一瞬で氷獣は融け、海に戻った。ざばんと上がる水しぶき、そして引いてゆくさざ波。目を閉じてしまいそうになるけれど、必死にこらえる。
「大納言さま」
リヒトが合図を出した。菜月とカズヤも、いっせいに砂浜を走る。途中で、履いていた革沓が砂にとられて脱げたけれど、構わず進んだ。そして、父に駆け寄る。
「父上、おケガは」
見た目には別状はないものの、異変が起きているかもしれない。菜月は烏帽子から沓まで、なにもかもずぶ濡れの父を支えるように寄り添った。父は大切そうに菜月の剣を抱きかかえていた。氷獣が水に返ったとき、はじかれたのだろう。
そこに、朝廷の要人である大納言はいなかった。父は、ただのひとりの男に戻っていた。
「大事ない。そなたはどうだ、菜月」
「ええ。私もだいじょうぶです。皆さんが助けてくれましたし。剣を、私に返してくれませんか」
「ああ。氷が崩れるとき、この中にツキハが入っていった。わしは見た。この剣にはツキハの心が宿っている。これを見てくれ、菜月」
珠だった。
氷獣は消えたけれど、まだすべてが終わっているわけではない。きれいな宝玉だから、自分のものにしたい気持ちも湧くものの、それは押し留める。
菜月は頷き、三歩ほど後ろに下がった。鞘から剣を抜き、赤いほうの刃を下に向けて振る。父は菜月の行動に戸惑っていたが、やがてあたたかい風が吹いてきたことに気がつき、改めて驚いている。
「業深い身ゆえ、わしは切られるのかと思ったが、そなたは不思議な技を身につけていたのだな」
「私、南のあたたかい風を呼べるようになったの。多少なら、風異を撥ね返せるわ。こうやって、冷え切った父上の身体を扇ぐのは、使い方が少し違うかもしれないけど」
菜月は努めて笑って見せた。萎れている父をなぐさめたかった。菜月は剣を振り、風を送り続ける。次第に風は強くなって上昇し、暗い雲を北へ北へ押し流すほどにまで成長している。
リヒトとカズヤが父の肩を両脇からかかえた。小屋に避難するつもりだろう。
「……ツキハがいた。氷の中にツキハの心が、残っていた。氷にとらわれてしまうほど、深い恨みを残していたとは。わしのせいだ、わしが」
頭をかかえてしおれてしまうほど、父は悩んでいる。
「恨みではないわ、きっと。父上や私を案じるあまり、少しさまよってしまっただけだと思うの。母さまを利用したのは、外つ国の……」
「そうだ、帝に申し上げねばならぬ。菜月が、南の風を操れるまでになったこと。これは外交の切り札になる。我が国にとって、とても有利なことだ」
父は、リヒトと同じことを言った。自分が、カギになるということを。しかも、朝廷で重きをなす大納言のことばとあっては、菜月も従うしかないだろう。
一緒に水をかぶってしまったガラナとサハリクも含め、父たちの着替えが終わるまで、菜月は小屋の外で待った。
雲が、北の空に吸い込まれるように流れている。海の波も穏やかだ。傾きはじめた太陽が、菜月の全身を赤く赤く染め上げている。菜月の髪も、遊ぶように風になびいた。
もし、自分が、国のために役に立つならば、外交の道具として取引に応じてもいい。帝のためにもなるのだ。風異が止めば、真砂国は春を取り戻せる。再び、うつろう季節が見られる。自分がもっと、しっかりすれば。もっと、剣を使いこなせるようになれば。
「菜月、もういいぞ。中に入れ。待たせたな」
リヒトが菜月を呼んだ。
「はい。でも、もう少し、外にいたいので」
「……気にしているのか。『切り札』のこと」
「新しい春が来るなら、私はなんでもやります」
「恋する帝のために、か」
「それだけではありません」
菜月は砂浜に足を向けると、波打ち際に沿って歩きはじめた。リヒトも続く。
「応えたい、と思います。期待に。自分が、どこまで試せるのか、知りたいですし。父上が、母さまの心を剣の中に留めてくれました。外つ国なんて、怖いけれど、私はひとりではありません。がんばれると思います」
「俺も行く」
即答だった。菜月は聞き直そうとしたけれど、リヒトのほうが早かった。
「俺が、お前を守る。『がんばる』なんて、片意地を張っても、俺から見たら、お前はただのひとりの、ちょっと剣が立つだけの不器用な少女だ」
「リヒトさん」
「……放っておけないだろ。目の前で、苦しんでいるやつがいるのに」
「はい」
今の菜月には、リヒトが紡いでくれることばのひとつひとつが、どんな恋の吐露よりもうれしい。菜月はリヒトの袖を握った。
「ずっと、私のそばにいてください」
菜月にしては、大胆な告白だった。見上げれば、リヒトの顔は夕陽に照らされているせいもあって、真っ赤だった。リヒトは菜月から視線を逸らし続ける。さすがに、直視できないらしい。
「ちょ、そこ! なに、いい雰囲気になっているんですかーーーっ!」
そこへ、横槍が入った。飛び蹴りの応酬。リヒトが華麗に躱す。菜月は茫然と見守るしかなかった。
「あのね、この非常時に、なに本気で口説いてんの。今日も小屋泊まりなんだよ。しかも、大納言さま込みで。なんなの? 常識人の常識では、理解に苦しむんだけど」
突然の登場は、カズヤだった。
「どこの誰が、常識人だって? 人が聞いたら、あきれて倒れる」
「いや、明らかにリヒトさんのほうがおかしいから。ありえないから! 真顔で、『俺がお前を守る』だって。恥ずかしいなあ、まったく」
「お、おい! 聞いていたのか」
「聞いたんじゃありませんよ、不本意ながら、聞こえただけですよ! ええそうです、リヒトさんの吐く甘いことばなんて、できれば一生聞きたくありませんでしたよ」
「……カズヤ、お前ーーーっ!」
なんだかんだ言って、このふたりは結構仲がいい。波にさらわれそうになりながら、じゃれあっている。