26 北方行嫉妬行
母を呼んだところで、出てきてくれるかどうかは分からない。嵐のように強い風異が来るときでも、獣化するような風と、そうではない風もある。獣になったからといって、その中にいつも母がいるというわけでもないようだ。
しかし、怖ろしいのは夷狄の力だ。風異を操っているのだから。真砂国には、風を自在にできる人物はいない。夷狄はいったいなにを使って風を操作しているのだろうか。術者か、仕掛けか、はたまた道具か装置か、あるいは念か。
菜月は自分の剣を見た。赤い熱の剣と、青い光の剣。敵も、このように不思議な力がある武器を持っているのかもしれない。菜月には、長年愛用してきたこの剣すらうまく使えていないのに、敵は不思議を自在に操っていたらどうする。想像しただけでおそろしい。
「父上、この剣はどこから来たものですか」
砦の一行は、隊列を組んで北の浜を目指している。父娘の問題に、砦の皆を巻き込んでしまったことを申し訳なく思うけれど、菜月の後ろには北の砦仲間の明るい笑顔ばかりが並んでいる。藤原が留守居をすることになった。
「蝦夷地を調査しているときに、とある村で得たものだ。あまりにきれいだから、譲ってもらった。詳しい由来は知らない。実は、どの村だったかも、覚えていなくてね。かの地では、武具が盛んに作られている。それに、鎖国している真砂国の支配が行き届いていないゆえ、夷狄との交易もある。海の向こうのものかもしれない。ツキハが子を宿したと言うから、守り刀にでもなれば、と思っただけだ。だから、この剣はツキハのものではなく、そなたのものだ。ツキハは預かっていただけに過ぎない」
それでは、父も刀の由来を知らないことになる。父娘の会話を隣で聞いていたリヒトは、お手あげだねといったふうに首をすくめた。
高貴な大納言と地下の若者が行動をともにするなど、都では考えられない暴挙だ。けれど、父は特にカズヤと仲良くなったらしく、さかんにふたりでお互いをまくし立てるようにしゃべっている。
父が乗る馬を牽く役は、カズヤが引き受けていた。初対面では思いっきり衝突したものの、都の下町界隈に詳しいカズヤの下世話な情報が、父にはなかなか新鮮だったようだ。カズヤの発言に、父はいちいち相槌を打ったり、驚いたりしている。
緊張なのか、恐怖なのか。海が近づくにつれて、菜月は口数が少なくなった。海で冷えてしまった体調も、すっかりもとに戻っているのに、足取りが重い。
「北の浜にとんぼ返りだな、今日は。体調はだいじょうぶか」
菜月の浮かない様子に気がついたらしいリヒトが、ことばをかけてくれる。それほど暗く沈んでいるつもりはないのだが、他人から見ればつまり励ましたくなる対象らしい。
「はい。一日に、二回も海に行けるなんて思いもしませんでした」
「俺も同感だ。しかも、すでに時刻は昼過ぎ。またあの漁師小屋に、泊まり決定だろうな。俺としてあんな狭くて寒い場所に、貴人をふたりも泊めたくないのだが……お前に不埒なことをしようと狙っているカズヤもいるし。まあ、大納言さまがいれば安心か……あ、となると今夜は俺がまた夜番……まあ仕方がないか、ぶつぶつ」
最後には愚痴というか、ひとりごとになっていた。菜月は笑い出した。
「な、なんだ、急に。おかしなことをしたか、俺」
「いいえ。ひとりで悩んでも、なにもはじまらないなって思っただけです。私のそばに、リヒトさんがいてくれてよかった。ありがとうございます」
思えば、都では『大納言家の菜月さま』と崇められはするものの、近衛府の同僚たちとはなんとなく疎遠だった。リヒトやカズヤのように、正面からぶつかってくる人はほとんどいなかった。
「礼を言われるのはまだ早い。氷獣を、始末してからだ」
「はい。そうでしたね。私、がんばります」
「そうそう。菜月はいつも笑っていろ。それでもだめなときは、遠慮なく俺に言え」
「頼りにしていますよ」
笑顔で見合うふたりに、カズヤの罵声が飛ぶ。
「そこ。ふたりで、なにしているんですか。海、見えて来ましたよーっ」
海は静かだ。風も弱く、荒れそうな気配は微塵もない。流氷は昨日よりもさらに小さくなり、沖へと遠ざかっている。あと数日もすれば、見えなくなるだろう。
「待つしかないか」
「昨日も、はじめはこんな感じでしたからね。氷獣が海から急に出て来るまでは」
ガラナとサハリクが大納言を誘導し、小屋に一時退避した。
「リヒトさんも休んでいていいですよ。最近、働きづめでしょ」
「お前こそ。夜番明けのくせに意地張るな」
「お姫と一緒にいたいって、言えばいいのに。素直じゃないなあ」
「なに! 俺がいつ、そんなことを口にしたか」
「口にしなくても、態度で分かりますよ。都には帰るな、砦にいてくれ。お前が必要だ……ってね」
リヒトは顔を真っ赤にした。
「菜月の力は必要だ。菜月の代わりはいない。カズヤだって、そう思うだろ」
「はあ、今度は責任転嫁ですか。ええ、いいですよ。俺はお姫のことが気に入っていますから、ずっといてほしいと思っています。最初は生意気なやつだと思いましたが、身体は健康そのもの、よく見ればかわいいし、剣の腕も相当いい。おまけに大納言家のお姫さん。財産家ですよ、ふっふっふ」
「下心満載だな、お前」
「明るく開放的に構えていれば、下心だって爽快なものに変わります。お姫と結婚できれば、仕事が一緒、家でも一緒、いつでもいちゃいちゃしほうだいで子孫繁栄万歳、おまけに出世間違いなし。こんなお得な物件、ほかにはありません。よくよく話してみれば、大納言さまも話せるお方でしたし」
菜月はことばが出なかった。カズヤの損得勘定は的確だ。遥かに上を仰ぎ見れば身分違いだけれど、カズヤにすればじゅうぶん高貴な存在なのだ、自分は。
「と、いろいろ並べ立ててみたけどね、俺はお姫を気に入った。これが真実。ほかの理由は後付けだから」
耳もとでささやかれる、とろけるような告白に、菜月は震えた。カズヤはリヒトのことなどお構いなしで菜月に迫る。
「俺のことをどう思っているか、聞かせて。どう、好き?」
「えっ、好……」
菜月はカズヤの身体をかわそうとしたけれど、逆に追いつめられてしまう。
「カズヤ。任務中だ。しかも菜月が困っている。そのぐらいにしておけ」
「邪魔しないでくださいよ、無粋だな。お姫からの返事を聞きたい。さあ、答えるまでこの手は離さないよ」
どうしよう。どう答えればいいのだろうか。不用意なことばで、カズヤを傷つけたくない。
「カズヤさんの気持ちは、すごくうれしいです。カズヤさん、強いし、いつも真っ直ぐだし、堂々としていて羨ましいですよ」
「俺、剣の勝負で女の子に負けたのは、きみが初めてだったんだ。ま、男相手にも負けた記憶はほとんどないけど。リヒトさんにだって、最近では俺の一方的勝利が続いているし。俺と張り合えるのは、藤原さんぐらいなものだね」
「カズヤが持っているのは、技量だけだ。根本的な体力、精神力、忍耐力がまるで足りないし、なまじ剣の才能があるから、鍛練を怠っている」
「リヒトさんは黙っていてって。今、お姫と話しているんだから」
「会話じゃねえよ、そんなの。一方的誘惑だろうが」
「もう、うるさいなあ。悔しかったら、リヒトさんもお姫に告白したらどうなの。そうだ、お姫自身にどっちがより好きか、選んでもらおう。それがいい」
「選ぶ……?」
母を包みこんでいる氷獣のことで頭がいっぱいなのに、カズヤは菜月の心を確かめようとしている。はっきり言ってしまったほうがいいのだろうか。うれしいけれど、困ると。今は、目の前にある氷雪のことだけを考えたいのに。
「カズヤ。菜月は、帝を慕っているんだ。切に入内を願うほどに。大納言さまのお話を聞かなかったのか。なあ、菜月?」
「え、ええ……はい」
不意を突かれた。帝を慕っている。確かにそうだった。北の砦に来るまでは。身を裂かれるほどに、痛いほどに帝を恋うていた。けれど、目まぐるしい毎日だったせいか、帝のことを思い出すことは、最近ほとんどなかった。
「ほら。カズヤか俺か、どちらかを選ぶなんて、菜月には酷だ。ほかに思う相手がいるんだから。帝じゃ、お互い勝ち目はない。不敬だぞ」
「帝、か。いいじゃん。俺は相手が強ければ強いほど、燃える性質なんでね。相手に悔いなし! リヒトさんは諦めますか」
「諦めるもなにも、最初から勝負にならないって。下手したら不敬罪で遠流、死罪もありうる……」
話に夢中になっているあまり、三人とも周囲への配慮を怠ってしまっていた。足を掬われた、溺れる、と思ったら、すでに三人とも、氷の中に取り込まれそうになっていた。足もとがせり上がり、ぐらりと不安定に揺らぐ。砂がこぼれ、見る見るうちに氷の塊があらわれる。
「来たな」
空はよく晴れている。寒波の訪れはまるでなさそうなのに、氷獣だけが三人を襲った。これは賭けだ。菜月はみずから氷の中へ飛び込んだ。