25 父、決意する
カズヤの大声に、皆がいっせい菜月のほうを振り返る。目立ちたくないのに、目立ちまくっている。
「カズヤさん、やめてください。気がつかれてしまいます」
「いいから、いいから」
菜月はカズヤを制止しようとしたものの、すでに遅かった。
「な、菜月? 菜月、なのか」
直衣姿の父は菜月を認めるなり、ふだんではありえないほどの大音声で何度も繰り返し、娘の名を呼んだ。
「菜月、菜月。おお、わしの菜月よ」
そして、強く抱き締められる。子どものころ以来の抱擁に、菜月は居心地の悪さを感じた。しかも、砦の隊員たちが監視している。恥ずかしい。
「無事でよかった。ほんとうによかった」
父は菜月の身だけを案じていた。邸を黙って出て行ったのに、責めてこなかった。真摯な父に触れ、菜月も恥ずかしさより、申し訳ない気持ちで心がいっぱいになり、素直になれた。
「父上、ごめんなさい。勝手に邸を出たこと」
「よい、もうよいのだ。そなたを、無理に結婚させようと企んだわしが悪かった。北の方にもこってりと叱られたぞ。菜月は縛れば縛るほど、どこかへ行ってしまう子だ、と」
「母上が、そんなことを」
血はつながっていなくても、北の方を母と仰ぎ見たこの六年。母上は、菜月の本質を見ていてくれたようだ。
「早く迎えに来たかったのだが、ここ数日は特に風異が厳しくてな。ようやく晴れとなり、しかし道中の安全のために、定期便なるものと行動をともにせよと、帝のご指図を受け、今日になってしまった。婿取りの件は、白紙に戻した。心配することはなにもない。ともに邸へ戻ろう、菜月?」
迎えに来てくれたのだ、父は。晴れて少し融けたとはいえ、深い雪道に難儀したと思う。父は生粋の都人なのだ。雪や氷など、無縁の暮らしをしているのに。
父の心意気は嬉しいけれど、思い違いをしている。意に沿わない結婚がいやで、砦に逃げたと。結婚が破談になれば、戻るだろうと。顔を見れば分かる。促せば、菜月が大好きな邸に帰るという絶対の自信を持っている。
言い出すのが、つらい。娘の自分を信じきっている父を裏切るようで。
「菜月や、どうした? この晴れ間、いつまで続くか分からないぞ。ここを早く出よう。聞けば、北の砦は、むくつけき男子しかいないというではないか。都を堂々と歩けないようなわけありの、島流し同様となった男子ばかりだと。ああ、怖ろしい。このようなところに、大納言家の姫がひとりでいていいわけがない。無体はされなかったか、菜月?」
父の手は、菜月の頬をやさしく包む。慈愛に満ちていて、心の隅々にまで沁み渡るのが分かる。はいと頷けば今まで通り、邸での穏やかな暮らしが待っている。風が吹いても、雪が降っても、菜月は風異のほんの一端を切るだけで、大きな流れに出遭うことはもうないだろう。風獣、雪獣、氷獣などといったものとも無縁の日々になる。
「……帰れ、ません。私」
菜月は父の両手を払った。大きく目を見開いて、父は娘の反応に驚く。
「帰れません、私。北の砦で、風異と戦います」
予想もしていなかったらしい菜月の宣言に、父はうろたえた。
「な、なんと。どうしたのだ、菜月。近衛府への出仕は許したが、このような僻地で働いてもよいと言ったことはない」
「帝の、勅命です。そして、私もここにいたい」
「お姫、よく言った!」
それまで見守っていたカズヤが歓声を挙げた。即座に父に睨まれる。それでも、知らん顔を続けている。
「菜月は妙な咒でもかけられてしまったのかな。北の砦には、心を操る、もぐりの陰陽師でもいたのかな。今後、北の砦はわしが責任を持って援助すると約束しよう。隊長の話を聞き、僻地ではあるが風異を防ぐために、重要な地であることは理解したのでね」
「大納言家の娘が、男子ばかりの中に紛れ込むなんて、あれこれ邪推する人もいると思いますけれど、皆……とてもいい方たちばかりです。たまには衝突しますが、風異を鎮めようと必死になって働いています。私は、長い冬を終わらせたいのです。春を、待ち焦がれています。お願いします、父上。私と、母の形見の剣には、あたたかい風を呼び起こす力があるらしいんです。北の砦には、私が必要されています。応えたいの」
菜月は砦残留の姿勢を崩さない。また逃げたり、隠れたりはしたくない。父から、快諾を得たい。菜月は縋るような目で、父を見上げた。
けれど、父の目に映っているものは、『否』だ。首を小さく横に振る。
「どうしても都に戻るのがいやなら、強引に連れて帰る。その代わりに、菜月の望みをひとつ叶えてやる。帝を慕っているのだろう、菜月。入内させてやるぞ」
「入内……、まさか」
思いもよらなかった父の発言に、菜月は激しく動揺した。
「そなたが、以前よりひそかに帝を恋うていることは知っていた。帝も菜月を憎からず思っている。深く寵愛してくれるはずだ。姉女御の手前、いったんは菜月を僻地へ遠ざけたことを後悔している様子もある。さあ、都に戻ったら入内の準備だ。今まで、菜月の心に気づかないふりをしてしまったことを謝ろう」
懸命に、菜月は首を横に振った。入内など、あっていいわけがない。
「後宮には姉上さまがいるのに、入内なんてできません。私は蝦夷地生まれの鄙つ女。身分違いの私が強引に入内したら、きっと父上も謗りを受けます。父上の評判が落ちるようなことは、したくありません」
「案じることはない。帝が菜月を召した、という流れにする。そうすれば誰も文句は言えない。姉の女御でさえも。さ、菜月。帰り支度を。ひとつ言わせてもらうと、菜月が北の砦に留まっている時点で、わしの評判はとっくに落ちているのだよ。大納言の二の姫君が、近衛府に出仕するだけで笑い草だったのに」
父は菜月の背中を押し、戸の外へ押し出そうとする。
「やめろ、お姫を連れて行くな」
カズヤが菜月を支えようとした。
「気安く姫に触るな! 菜月の身体に触れてよいのは、帝だけだ」
「でも、いやがっているじゃないですか。お姫、逃げよう」
もう、逃げたくはない。けれど、都に戻りたくもない。どうしていいのか分からず、菜月は泣きたい気持ちをおさえ、ぐっと顔をしかめる。涙をこらえることしかできない自分の非力さを知った。情けない。
「再び、梅の花を咲かせたい。そう思いませんか、大納言さま」
父と菜月の間に割って入ったのは、リヒトだった。リヒトの整った容貌に、父は一瞬戸惑った。
「梅? なんのことだ」
「『春を待っている』。菜月は先ほど、そう言いました。梅は春を告げる花。梅の花が咲かなくなってから、五年ほどが経ちました。一輪一輪はとても小さな、けれど匂いやかな花のことを、あなたは覚えておいでですか」
「なにが言いたい、若造。もっと分かりやすくものを言え。梅は、わしの好きな花だ。好きな花を忘れるわけがないだろう。邸にもたくさん植えてある。今は冬の時代だが、いつか咲くかもしれん」
「あなたの梅の花は、ここに咲いています」
リヒトは、菜月の剣を指差した。梅の花の模様細工が光っている剣を。
「大納言さまがお好きな花を、意匠にあしらった剣。この剣を、菜月の母君に贈られたそうですね」
「だから、それがどうした」
「菜月の母君も、梅を好んでいた。おふたりのお気持ちは梅を通じて重なった。けれど、菜月の母君……村の巫女と呼ぶべきでしょうか。おふたりは、愛し合った。やがて、任務を終えた大納言さまは都へ帰り、巫女は村に残った。巫女は村を捨てられず、静かに菜月を生む。都の高貴な公達だったあなたは、村では神同様に崇められたのではありませんか。巫女は神の子を生んだ存在として、巫女の地位にあり続けたが、ヒトの男に恋をした罪の意識にさいなまれた。未曾有の風異が村を襲ったとき、巫女は迷わずその身を捧げた」
「やめろ、昔の話をするのはやめろ! ツキハのことを菜月の前でしゃべるな」
「ツキハ? ツキハという名前なの、私の母は」
記憶の中の母は、『母』でしかない。名前すら、初めて聞いた。
「菜月は、母君に会ったそうですよ。北の浜で」
「なに」
父は菜月に向き直った。菜月は、リヒトのことばを受け、そうだと強く頷く。
「母の声がした。母は、氷の中にとらわれていたの。今でも、さまよっているそうなの。かわいそうで、かわいそうで。なのに、自分より私のことばかり気遣ってくれて」
「ツキハが、氷に。なんと」
父はひどく焦燥した。無理に菜月を連れ帰ることも諦めたらしい。がっくりと肩を落とした父は、小さく見えた。
「巫女を助けられるのは、大納言さまだけだと思います」
リヒトの説得を受けた父はしばらく黙り込んでいたけれど、やがて顔を上げた。
「あれを犠牲にしたのは、わしだ。悔やんでも悔やみきれない。ツキハはどこだ。会わせてくれ」