23 氷で見たもの
……気がついたら、あたりは暗かった。
とても静かだ。どこかの室内らしい。風がない。ぱちぱちと、火が音を立てている。あたたかい。動こうと思ったが、身体がだるくて動かない。泥の中に沈んでいるようだった。
「菜月、目が覚めたか。どうだ、気分は」
菜月の顔を心配そうに覗き込んでいるのは、リヒトだった。
「起きたの、お姫? よかった」
這いながら、カズヤもそっと寄ってきた。目には安堵を浮かべている。
「あの、どうしたのですか。私の身体、だるいことはだるいですけれど、悪いところはなさそうです」
菜月が動けなかったのは、疲労だけが理由ではない。身体の上に、何枚もの夜具や着物が重ねられていたせいだ。
「寝ていて構わないのに」
起き上がろうとする菜月を、リヒトが支えた。カズヤは、菜月の背中に袿を三枚も、かけ直してくれる。まるでお姫さま扱いではないか。渡された水筒をひとくち、飲んだ。潤いが喉を通り抜ける。
「相当、眠りこけていた気がします。確か」
北の浜に来て、ふざけていたら氷獣に襲われて……どこからともなく母の声が聞こえて、でも脱出を手伝ってくれて……そのあとのことは、覚えていない。きっと、意識を失っていたのだと思う。手のひらを見れば、指の爪ほどの大きさをしている見覚えのない赤い珠が握られていた。氷獣を倒したときに出て来たものらしい。
「また出たのか、珠が」
「どうやら、そのようです。私……」
菜月は光る珠を、柄の中にしまった。からん、と音がした。
「無理してしゃべらなくていい」
報告を続けようとする菜月をリヒトは制したが、頑として頷かない。
「いいえ。今、話しておきたいの。聞いてください」
「相変わらずの強情。氷から出て来たときのお姫は虫の息で、顔色も悪いし、死んでいるのかと思ったけど」
「死ぬなんて言うな、縁起が悪い。氷の中にいたのに、身体は冷たいだけで全然濡れていないし、不可解なことがあるものだな。だが、こんな不思議があるなら、助かってもいいだろうと思っていた。お帰り、菜月」
握られたリヒトの手があたたかい。嬉しい。生きている。
「こっちも見て、お姫。戻ってきてくれて、よかった」
反対側からは、カズヤの声がしたと思ったら、身体を抱き締められていた。力が出ないせいもあってか、振り払えなかったけれど、いやではなかった。今のカズヤのあたたかい身体から、いやらしさは欠片もなかった。菜月も、生きているという実感が湧いた。
「おい、慣れ慣れしいぞ。離れろ」
しかし、リヒトには違ったらしい。あわててカズヤを引き離す。
「熱でも出ていやしないか、確かめただけですよ」
「私、さっき氷の中で……」
「だから、無理に話さなくていいって。ゆっくりしてからで構わない。どうせ、今夜はもう暗いから、ここに泊まり決定だ。砦に、その旨の合図は送ってある」
「雑魚寝になるけど、許してよ。夜中に、寝ぼけてお姫の夜具の中に潜り込んじゃうかもしれないけどね、俺。なにせ狭くて隙間だらけの漁師小屋だし、抱き合って寝たほうがよりあたたかいでしょ」
「部屋の隅に、几帳ぐらい立てかけてあるだろうが。カズヤの確信犯的寝相の悪さは俺が防ぐ。お前が心配することは、なにもない。ゆっくり休め」
ちぇっ、とカズヤが舌打ちをする。実に残念そうだ。こんな非常時にも変わらないカズヤの態度に、菜月は小さく笑って話を続けた。
「氷の中で、母に会ったというか、声が、聞こえたんです。氷にとらわれて、風異の中をさまよっている様子でした」
「お姫の母って、蝦夷地の巫女さん?」
「はい。確かに母の声でした。間違いありません。私の話、聞いてもらえますか。お願いします」
ぽつりぽつり、菜月は氷の中で聞いた話を披露した。菜月も頭の中を整理しながらなので、たどたどしい。話は前後しつつ、ときに沈黙を挟みながら続く。それでもふたりは辛抱強く、たまに頷きながら静かに聞いてくれた。
「……贄か」
「それって、母さんの罪っていうより、村の巫女に手を出した大納言さまの罪じゃない?」
「カズヤお前、あからさまに言うなよ」
「ほんとうのことでしょ。この風異、大納言さまが贄になるしかないんじゃない? そうしたら、大納言さまはお姫の母さんとも会える」
「あのな、昔と今とでは、大納言さまはご身分もお立場も、なにもかも異なっている。大納言さまに、万が一のことがあったら……」
リヒトはカズヤの意見を否定しようとした。だが、なにか思いついたように手を打った。
「そうだ! それがいい。大納言さまには、贄になっていただこう。風異はまだ来る。菜月の母の心を利用している夷狄どもによって、風はもっとたくさん送り込まれるはずだ。夜明けとともに砦に戻る。菜月、早く寝ろ。カズヤも。今夜は、俺が夜番を引き受ける」
「リヒトさんばかり、かっこつけないでくださいよ。昨日も、夜番をやったくせに。今晩は俺が務めるって。はいはい、ふたりはさあ寝た。でも、じゅうぶんに距離を確保して、間違いが起こらないようにね」
「カズヤをひとり起こしておくのは、不安なんだが」
「俺が姫に夜這いをかけるとでも? いくら俺でも、身体が弱っている女に、夜伽を強要はしませんよ。元気になったらいくらでもできますし。今夜は、せいぜいぎゅっと添い寝で……いてっ!」
大きく振り上げたグーで、リヒトはカズヤを殴りつけた。
カズヤのことばに甘え、リヒトと菜月は几帳を挟んで、床に就いた。眠れるのかと不安になったけれど、身体はとても疲れていたようで、すぐさま眠りに落ちてしまった。