22 氷獣の願いは
剣を構えるどころか、抜く余裕もなかった。あっという間に、菜月の身体はすとんと氷獣に取り込まれる。リヒトとカズヤの名を呼んで助けを求めるが、声にならなかった。
穏やかそうに見えていた海が、豹変した。
そうか、自分はすっかり油断していたのだ。氷に包まれながら、菜月はぼんやりと考えた。巫女姫だとか救世主だとか持ち上げられていい気分になっていた。北の砦の一員になったつもりでいた。
風異は、菜月の隙を狙っていたのだ。
抜刀したふたりが、氷獣に向かって懸命に切りつけている様子が見えた。
『逃げて、ふたりとも』
声にならない思いを、菜月は叫ぼうとする。この氷獣は、北の砦ほどの大きさがある。リヒトとカズヤでかかっても、すぐには倒せそうにない。菜月が体温を奪われてしまうのがきっと先だろう。これ以上の被害が出ないうちに、安全な遠くへ。
『お願い、逃げて』
三人とも取り込まれてしまうという、最悪の事態だけは避けたい。リヒトとカズヤは北の砦の大切な兵だ。犠牲になるならば、自分ひとりだけでじゅうぶんだ。もともと、この身は捨てたようなもの。光輝く姉に、追いつけないと悟ったときに。
菜月は目を閉じた。もう眠い。だるい。身体が、動かない。氷獣の中心にずるずると引き込まれてゆくけれど、抗う力が少しも生まれてこない。このまま、吸い込まれてしまえば楽になれる。なにも考えないで済むかもしれない。
「諦めるな、菜月っ」
「お姫、飲み込まれたらだめだよ! 必ず助けるから」
アキラメルナ。
カナラズタスケル。
その声を、菜月は遠い場所から聞こえるような気がしていた。
今、菜月の目の前に広がっているのは、海でも砦でも、都でもない。蝦夷地の原野だった。菜月が生まれ、育った土地。実の父を知らずに成長したが、村の人は皆親切で、菜月にたくさんのことを教えてくれた。母も、やさしく菜月を包む。その面差しを、菜月はかすかに覚えている。贔屓目なしに、うつくしい人だった。都の貴公子だった父が、鄙で見初めて愛したのも頷ける。
……ソウ、母ガ生キテイタ、アノ冬マデハ。
菜月の中に閉じ込められていた記憶の封印が、ぱちんと音を立てて開いた。必死に抗うけれど、一度放たれた記憶は奔流となってあふれてゆく。思い出したくない、菜月は願うけれど許されない。
母モマタ、氷獣ニ取リ込マレタ。村ヲ守ルタメニ、自ラ志願シタ。
『菜月。私は巫女でありながら、あのお方に惹かれ、あなたを宿した。皆は赦してくれましたが、氷獣を招いたのは私の罪ゆえかもしれません。命をかけて償うべきときは、今なのです』
経験したことないような強い寒さに襲われた冬。巫女だった母は、被害拡大を防ぐためにその身を氷獣に捧げた。あまりの衝撃に、母に関する記憶を自分で鍵をかけて閉じていたのだ。
「母さま……」
菜月は泣いていた。
なぜ、己が寒波を破りたいと思ってきたのか。ひそかに恋い慕う帝のためだと言い聞かせていたけれど、もうひとつ理由があった。
母の、鎮魂のためだったのだ。
「母さま」
村に出たあの氷獣は、本格的に風異が下りてくる以前のものだった。あのときは母を飲み込んで消えたけれど、徐々に頻繁に冷気が強まるようになった。
やがて、風異は蝦夷地だけでなく真砂国すべてを包むようになり、冬が続くようになる。人々から花を、草木を、豊かな実りを奪った。
『泣かないで、菜月』
どこからか、穏やかな声がする。これは。
「どこ、どこなの?」
『そんなに泣かないで。もう子どもではないのに』
声のするほうを、菜月は動かない手で必死に探ろうと、あがいた。
「母さま、私はここです。菜月はここにいます。返事をして、ねえ母さま」
『あなたのことはいつも見ていました。いつもがんばっていますね』
「姿を見せて。私を、連れて行って」
『こちらには、まだ来るべきではないわ。菜月を必要としている人たちが、たくさん待っているもの。帰りなさい、あなたの場所に』
「母さまはどこにいるの? 死んだと聞かされていたけど、まさか嘘だったの? 氷獣の贄になったあと、どうしたの」
『いつでもあなたを見ています。菜月、剣を振るって。そう、青いほうを上に向けて』
「青?」
『さあ、早く。菜月の身体が、芯まで凍えてしまわないうちに』
急かされるまま、菜月は夢中で剣を構えた。つい先ほどまでは動かなかった腕が、軽々と持ち上がるので、驚く。
ぐっと強く力を込めて外界に剣を向けると、青の刃から無数の光が生まれた。あまりのまぶしさに、菜月は目を背けそうになる。
『しっかり見て、あなたの剣を。あなただけのものです』
「でも、母さま。一緒に出ましょう。母さまは、今でも氷獣にとらわれているの? 冷たい地で、さまよっているの?」
『身は滅びましたが、口惜しくも魂だけは外つ国に使われています。さあ、願いなさい。外に出たいと』
毅然とした母のことばに、菜月は言い返せなかった。静かに、けれど大いに願う。外に出たい。帰りたい。皆と一緒にいたい。
光はひと筋の刃になり、氷獣の内側をふたつに切った。半分に割れた氷獣の中から、菜月の身体が放り出されるようにして、飛び出す。氷獣は粉々に崩れて再び海に沈んだ。勢いよく、海水が高く跳ねた。
「待って、母さま。私のところにいて」
必死に手を伸ばしたけれど、声は届かなかった。だが、代わりに小さくてあたたかい光の粒を、菜月は握ったような気がした。大切そうに、菜月は胸に抱き寄せる。
「菜月」
「お姫っ」
リヒトとカズヤが菜月に駆け寄る。幸い、砂の上にやさしく投げられたので、菜月に外傷はない。けれど、しばらくの間氷に閉じ込められたため、すっかり冷え切った肌はぞっとするほど青白く褪めている。
「カズヤ、小屋で火を熾せ! 早く」
リヒトは、菜月の身体を自分の狩衣でくるみながら、思いっきり叫んだ。