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21 はじめての海

 太陽に照らされ、街道に積もった雪が融けはじめている。しかし、融けるのはほんの表面のみ。積雪の上部に水がたまり、下部には氷のように固まった雪が深く深く根づいている。

 足を前に出し、一歩一歩雪を踏みしめるたびに四方へ雪融け水が飛ぶ。菜月の革靴は、すでにぐっしょりと濡れて重くなっていた。海に向かってゆるやかな下り道とはいえ、厳しい道のりである。

 それに、雪に乱反射している陽差しが目を開けていられないぐらいにまぶしい。思わず、目を細めてしまう。頭から日除けの被布をしているが、あまり役に立たないほどだ。街道沿いに、リヒトたちがつくった寒波到来を知らせる手製のしかけがあるから海までの道は迷わないけれど、果たして往復できるかどうか。もっとも心配なのは、菜月の体力だった。

 けれど、海が見たい。

 リヒトの期待に応えたい。

 菜月は必死に歯を食いしばり、足を前へ前へと運ぶ。額に浮かぶ汗と荒い息は隠しようがないけれど、歩くことだけはやめたくない。

「思っていたよりも、融けはじめるのが早いな」

「ですねー。万事、せっかちなリヒトさんのせいじゃないですか」

「なんでもかんでも、俺のせいにするな」

「とにかくこうやって楽しく会話していったほうが、盛り上がるでしょ。黙って無言でいたら、よけいにくたびれますよ。ねえお姫?」

「はい。そうですね」

「ほら、お姫は俺の味方だ。勝った」

「砦の俺たちに、味方も敵もねえよ。ただの偵察部隊。だろ、菜月?」

「ええ。リヒトさんもカズヤさんも、大切な仲間です」

「ふん。お姫は貴族の姫君のくせに、むさ苦しいところにいてもいいのかい。都でおとなしく姫君をやっていれば、入内だってできるご身分だろうに」

「姉が女御ですから、私の入内はありません」

「姉妹で寵愛を受けることなんて別に、珍しくないよ。確か、先代にもあったんじゃないかなあ、そういう例。お姫の姉君が子をまだ授かっていないなら、大納言さまもゆくゆくはそのおつもりになるかもねえ。男だらけの北の砦なんかにいたら、いずれお姫の瑕になってしまうかもよ」

「カズヤ、菜月を脅すな。お前がいちばんの危険人物だ」

「もしも、の話だよ。もしも、の。そんなに目くじら立てないで」

「私に、入内はありえません。姉の女御は、母上さまが皇女でいらっしゃいますし、蝦夷地生まれの私とは比べようがありません」

「でも、帝のお気に入りなんでしょ、お姫は。いいねー」

「カズヤ、菜月に帝の話をするな」

「いいじゃないですか。たまには、宮中の噂話でも聞きたいなあ、俺も。なにせ、北の砦に来て半年。都からの便りと言えば、月一度の定期便のみ。身も心もすっかり鄙びてしまいましたからね。せめて、錆びないようにいたいです」

「私は、帝のお気に入りではありません。ただ、帝にお仕えしている。それだけです」

「せっかく射止めた大納言の姫の座。使わないなんて、もったいないなあ」

「穏やかに暮らせれば、私は本望です。剣が少しでもお役に立てれば、こんなに嬉しいことはありません」

「あきれるほど慎ましいなあ」

 やれやれ、カズヤはつまらなさそうに肩をすくめた。

「お姫の望みは低いよ。野心がないっていうか。もっとぎらぎらしてもいいのに。きれいごとばっかりじゃ、世の中生きていけないよ。もっとズルくならないと、横から急に奪われるかもしれないよ」

 カズヤに言われると、説得力があり過ぎる。菜月は黙りこくった。

「おい、菜月が困っているだろ。そのへんにしておけ、ほら。海が見えてきた」

 白い丘の向こうに、深い青が横に長く広がっている。視界の端から端まで、見渡す限りずっとずっと一直線につながっていた。

「これが、海ですか」

 菜月は思わず、丘を駆け上っていた。重い足取りのことも忘れ、目の前の光景に陶然とした。海だ。初めて目にする、海だ。菜月は浜を目がけて駆け出している。

「おっと、俺も」

 カズヤが続いた。

 砂浜には雪がない。五十歩ほど離れた場所に、ささやかな小屋がある。あれがおそらく漁師小屋……風異の観測地点なのだろう。

「すごい! すごいすごい、すごい。広い。それに、大きい。これが、波? 水が、ゆらゆらと動いていますよ」

 菜月は子どものように浮かれてはしゃいだ。

「蝦夷地では、海の近く住んでいなかったのか」

「ええ。内陸でした。都への移動のときに、海を渡ったはずなのですが、なにも覚えていなくて。これが、海なんですね。都に帰ったら、父上や女御さまにお伝えしなければ」

「よくよく観察する前に、調査を手伝ってくれ。俺が以前に来たときと、様子が激変している」

「え……、海の様子が、ですか」

「これは違いますね。俺の記憶の中にある海とも、全然違うなあ。流氷があんなに沖合にある」

「りゅう、ひょう?」

「真砂国より、さらに北の大陸から流れてくる氷……海水が凍った塊だ。海を漂っているだろう、白いあれだ」

 指で示された先に、流氷がぷかぷかと浮いている。

「あれが流氷」

「前回、俺が海まで偵察に来たときは、流氷が北の浜にびっしりと着岸していた。分かるか? 氷の塊が浜に打ち上げられていたということだ」

「はい」

「そいつが今は、あんなに遠くに浮いている。氷が北上した。そして、海水は」

 そう言いながら、リヒトはちょうど打ち寄せてきた波の中に手を突っ込んだ。ばしゃり、と周囲に水が跳ねる。カズヤがあからさまに嫌な顔をした。

「冷たいじゃないですか、リヒトさん! 水がかかりましたよ。わざとですか、報復ですか。意地が悪いですね」

「……明らかに上昇しているぞ。海温が」

 リヒトの驚きに半信半疑だったカズヤも反応する。

「お。ほんとうだ。なんだか、違います。海の水は、手が切れるほどに冷たかったのに。どうして」

 流氷の後退。海水温の上昇。明らかに、海は変化を迎えている。

「穏やかな晴天。やさしい南風。流れが、変わったのかもしれない」

「つまり、菜月の剣が、風異を北に押し返したと」

「私が?」

 リヒトも頷いた。

「ああ。昨日から、明らかに流れる風が違う。海も、きっとそうなのだろう」

 ……信じられない。自分の振るった剣が、荒れて狂っていた自然を変えているのだ。菜月は剣を見た。いつもの剣だ。菜月とともにある、変わらない腰の剣だ。

「お姫が、南の風を呼んだ」

「ということになる。俺たちにはできない、技があるとは」

「偶然です! 私は、高度な術など全然使えませんし、施すこともできません。ただ、剣を振るだけです」

「でも、この結果。お姫は、現実をしっかりと見てよ」

 できれば見たくない。むしろ、空恐ろしい。菜月は肩を震わせた。闇雲に動いた結果、菜月は寒波を打ち破るどころか、北に北に追いやってしまっているらしい。

「寒波を打破する『巫女姫』の誕生だな。夷狄に対抗できる、貴重かつ絶大な戦力だ。このことは、さっそく都に注進しなければ」

 リヒトとカズヤが顔を見合わせて頷いている。

「待ってください、巫女姫っていったい、なんのことですか? 話の本題がまったく見えませんが?」

「あとは俺たちに任せて、お姫。きみは真砂国の救世主だよ」

 そんな大層なものではないのに。自分なんて、ちっぽけな存在でしかないのに。姉とは勝負にもならず、思いは届けられなくて、都にいたくなくて。心を押し殺して砦まで流れ着いた。男子だらけの砦で、うまくやっていけるかどうか不安にかられていたけれど、なんとかやっていけそうな気がしてきたばかりなのに。

 戸惑う菜月の肩を、リヒトがやさしくたたいた。

「菜月は菜月だ。ふだん通り、いつものままでいい」

「そうそう。妙に気張っても、お姫は失敗するだろ。さ、海の確認も終えたし、小屋でひと休みして帰り道に備えましょうよ。あーあ。ハラ、減ったなー」

「干飯の持ち合わせしかないぞ。あと、塩」

「ちぇっ。食料は俺が準備すべきだったなあ。つまんないの。足りませんよ、全然。そうだ、食後にお姫をいただこうかな」

 カズヤが菜月を背後から抱き締める。

「ええっ、カズヤさん?」

「ああ。やっぱりいいなあ、女の子は。いくら強くても、お姫は女の子。やさしい髪の香り。やわらかな肌。うーん、あたたかい」

「こら、カズヤ! 菜月に手を出すな」

「減るもんじゃないし、これぐらいいいでしょ。お姫もまんざらじゃない顔」

「いいえ、困っていますってば」

「それは、リヒトさんが近くで見ているからだよ。リヒトさん、先に帰っていてください。俺たち、ちょっと取り込み中ですので」

「冗談はそのへんにしておけ」

「っが!」

 リヒトがカズヤの頭をはたいた。カズヤはかなり痛かったらしく、本気で頭をおさえている。

「行くぞ、菜月」

「は、はい。……カズヤさん、だいじょうぶですか」

「だいじょうぶじゃないよ。この、暴力上司! 藤原さんに言いつけてやるから」

「勝手にしろ。だがそろそろ、お前は藤原さんから卒業しろよ。ふたこと目には藤原さん、藤原さん。悪い癖を抜かないと、心底好いた女がカズヤにはついてこないぞ」

「うるさい! 見かけだけで、まったくモテないリヒトさんの意見なんか、参考になるかっての」

「あの、ふたりとも」

「……菜月は黙っていろ。カズヤ、お前」

「ふーんだ。リヒトさんが恋に不器用なこと、俺はぜーんぶ知っていますから。お付き合いしても誰ひとりとして、長続きしなかったじゃないですか。長くて十日、短いときは半刻でふられましたよね」

「こいつ!」

 カズヤは、リヒトをからかいながら浜辺を逃げ回る。リヒトが追いかける。子ども子ども言われる毎日だが、リヒトとカズヤは菜月よりももっと子どもではないか。楽しそうな笑顔のカズヤ。むきになって怒るリヒト。あっけにとられていた菜月も、次第におかしさが込み上げてくる。

「菜月まで、笑うな!」

 叱られても、笑いがおさえられない。

「すみません、でもおかしくて。失礼ですよね、でも止まらな……」

 笑みをこらえていた無防備な菜月の後ろで突然、海水面が轟々と不快な音を立てて異様に盛り上がった。妙な気配がして振り返ったけれど、もう遅い。氷の塊を含んだ海水の壁が接近している。菜月をめがけ、海から這い出てきた氷獣が襲った。

「菜月!」

「お姫ーっ」

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