20 北の浜選抜隊
翌朝。よく晴れている。
砦がまぶしい朝の光に照らされる光景など、めったにないはずだ。屋根の雪が融け、ぽたぽたと雨粒のように軒先を滴っている。風があたたかい。気温もどんどん上がっているようだ。
菜月は早くに目が覚めてしまったので、厨に向かった。夜番明けの者が朝餉の支度をすると知っていたからだ。リヒトの、昨夜のひとことが気になる。自分を誘うとは、なんのことだろう。
昨晩は強い風もなく、穏やかにやり過ごすことができたようだ。夜番のリヒトもほっとしただろう。
宴の余韻を残す居間は、まだ静まり返っている。聞こえてくるのは、複数の規則正しい寝息のみ。居間の前を、菜月は足音を立てないようにさっと素早く通った。
「……おはようございます」
「おはよう。早いな、菜月」
厨には、リヒトがいた。理想とか、尊敬とか、意識していなかった本心全開の告白をしてしまい、顔を合わせるのは多少気恥ずかしかったものの、リヒトの態度はいつもと変わらない。
「お手伝いすることがあればと思って」
「気がきくな。申し出はありがたいが、すでにあらかた終わった」
「終わった?」
膳の上に用意されているものは、粥。海草の汁物。それに、蘇の固まり。夕餉とまではいかなくても、もう少し菜などがあってもよいのではないかと思う。
「お粥、ですか。今朝は」
「飲み過ぎたやつらの腹には、軽いものがいいだろう。おなかにもやさしい」
「はあ。そんなものですか」
「そんなものだ。お前もよく覚えておけ。あいつらは、底なしの呑兵衛集団だ」
菜月はさっそく、昨夜の誘う発言の詳細を聞き出そうとしたが、仮眠明けのリヒトに尋ねるのは気が引けた。何度もあくびをかみ殺し、耐えている。いくら静かな夜だったとはいえ、警戒を怠らずに緊張しながらずっと戦っていたのだ。
「えー。粥かよ、粥。味うすーい」
危惧した通り、リヒトの朝餉は不評だった。少ない、味が薄い、不平不満が口々に並んだ。それでもリヒトは黙々と食べ続けた。慣れているのだろう。
食事を終えたところで、任務の割り当てがある。希望なども含め、基本的には皆で決めることになっている。
「では、うぉっほん。本日の任務、行ってみよう。ご、ごほんっ」
何度も咳払いをする二日酔いの藤原、さすがに声に張りがない。カズヤも目が死んでいるし、ガラナやサハリクもげっそりしている。
「そこまで体調を崩すなら、飲まなけりゃいいのに。毎度のことなんだし、少しは学べよ」
リヒトが皮肉った。
「酒は楽しいんですよ。飲めない人こそ、実にかわいそうですね」
言い返したのはカズヤだ。
「まあまあ、落ち着いてください。それで、今日はどこを見回りましょうか」
「見よ、目にまぶしいほどの、この晴天! 今日は久々にいい天気だ。総出で雪かきだな、ゆ・き・か・き!」
意外な指示に、全員が驚いた。
「雪かきって、藤原さん」
「雪かきを莫迦にしたらいかんぞ。今日はこんな気候、だいぶ融けるはずだ。雪塊が下手に融け出したら、なだれの恐れがあるし、屋根の雪下ろしもしなければ、砦が潰れてしまう。いいな、今日は全員で砦及び周辺街道の雪整備!」
「藤原さん、俺。行きたいところがあるんだが」
リヒトが手を挙げた。
「おう、言ってみろ」
「北の海の様子を探りたい。晴天と、この気温のゆるみが一過性のものなのか、しばらく続きそうなのか」
「おう。海、か。なるほどそれは重要だな。いつも、風異は海の向こうからやってくるし」
さすがはリヒト、と藤原はしきりに頷いている。
「今から出発すれば、日暮れまでには戻れると思う」
「分かった。頼めるか」
「ああ。任せてくれ。あとひとり、同行者を選びたいが、いいか」
「構わないさ。ひとりでは危険だ。誰か連れて行け」
北の海までは、都以上に遠い。それを日暮れまでに往復となるとかなりの仕事である。雪かきか、強行軍か。どちらもつらい。リヒト以外の面々は黙り、静まり返った。皆、リヒトと目を合わせないよう、あからさまに視線を虚空に漂わせている。
行きたい。菜月は直感的に思った。リヒトと、行きたい。
砦の隊長である、総指揮者の藤原への指名はないとして。いつも口論ばかりしているカズヤも、ないだろう。ガラナやサハリクは北の海から帰ってきたばかり、となると。
「私、行きます。お願いします!」
視線がいっせいに菜月へと注がれた。
「ああ。もちろん行くぞ、菜月。俺が指名したかったのは、お前だ」
苦笑まじりで、リヒトは菜月を受け入れてくれた。
ひとりの剣士として扱ってくれるのはうれしいけれど、これは過酷な任務の予感。
「お前しかいない。昨夜から決めていた。まさか、手を挙げてくれるなんて、光栄だな」
ああ、『誘う』というのは、海行きのことだったのか。菜月はようやく納得した。勢いあまって立候補してしまったけれど、リヒトの次のことばを待っていればよかった。まるで、功名にがっついているようではないか。思わず、両手で頬をおさえた。いつになく、ほてっている。
「はいはい、異議あり! リヒトさんとお姫の組み合わせ、反対。危険だよ。『お前しかいない』って、なにその言い方!」
リヒトと菜月の間に、カズヤが割り込んだ。
「北の浜の漁師小屋で、リヒトさんはお姫をどうにかするつもりですよ、絶対! 誰もいないのをいいことに、卑劣な計画です。人のいない場所で、お姫をとうとう手籠めか。藤原さん、断じて許せませんね、これは」
カズヤは藤原に注進した。
「お前だけだ、そんなやましいことを考えるのは」
つかさず、リヒトの突っ込みが入ったけれど、カズヤの勢いは止まらない。
「冷静沈着なリヒトさんが、お姫によこしまな思いをいだいていたなんてなあ。信じられないなあ。リヒトさんからしてみれば、お姫なんて年端もいかない子どもなのに。ああ、もしかしてリヒトさんはそっちの趣味だったんですか。はあ、おとなの女性にあまり興味を示さないと思ったら、いやはや、驚いたな」
大げさにため息をつくカズヤに、リヒトはむきになって否定する。すでに、藤原たちの笑い者になっているのに、リヒトは気がついていないようだ。
「おい、勝手に俺を変な趣味認定するな! 下心なんかあるわけないだろ。調査だ、調査。そ、そりゃあ、菜月が見たことがない海を見せてやりたいっていう気持ちはあるが……と、とにかく、早く行くぞ菜月」
「あっ、はい。これは勉強です。喜んで同行します。よろしくお願いします!」
「藤原さん、俺も行くね。ふたりがあやしい仲に堕ちたりでもしたら、隊長の責任問題になりますから、監督してきます。大納言家の財産狙いかもしれないな。面倒だけど、仕方ないなあ」
リヒト、菜月、そして強引にカズヤも。本日の任務は、やっかいな三人による北の浜の偵察と決まった。