16 バラバラの心
こんな気持ちのままで、押し寄せる寒波に立ち向かえるはずがないのに。
菜月は戦う準備を整えていた。カズヤのことは、リヒトが連れ戻した。雪の中でぼんやりと立ち尽くしていたらしい。
相変わらず不機嫌のままだが、砦に戻ってきてくれただけでもよしとしなければならない。なにか話しかけると、また不興を買いそうなので、なるべく離れたところに菜月はじっと控えていた。呼ばれるまで、じっと黙っている。そう決めていた。
新参の菜月に対し、偵察に出ていたガラナとサハリクはやさしく接してくれた。ざらざらと心がささくれ立っていたせいか、とても安らぐ。藤原の威勢のよい大きな声も、場を盛り上げている。砦に来てよかった。都をもっと救える。帝のお役にも立てる。
「さっきから黙りこくって。お前は平常心でいい。腕には見込みがあるぞ。構えるな。少しずつ、実践経験を踏んでいけば慣れる」
緊張していると思われたらしい。リヒトが、菜月の頭をよしよしと撫でた。
「だいじょうぶです。がんばります。都でも、風はたくさん切ってきました」
「本場の風異は化けものだ。ましてや、雪。氷。外腹とはいえ、大納言家の未婚の姫君を傷つけるわけにはいかない」
「大納言家を栄えさせるのは、姉の女御さまのお役目です。私は、おまけみたいなものですから、どうぞご心配なく」
「いやいや。よっぽど大切な娘だったから、大納言さまは蝦夷地から菜月を引き取ったに違いない。菜月、お前は考えている以上に、まわりに愛されている。それをいつも忘れるな」
再び、髪をくしゅっと握られた。くすぐったい。
「リヒトさん、ありがとうございます。私、砦に来られて、みなさんと出会えて、ほんとうによかったです。励みます」
「ああ。無理だけはするなよ。ここは最前線の防衛線というより、捨て駒の集まりだ。とことん付き合うことはない。寒波の正体をよく見ておけ。風異は、海の向こうからやって来る。外つ国の仕業だ。俺たちが片っ端から寒波を撃退させたら、あいつらも風を送るなんて姑息なやり方を見直すはずだ。舐められてたまるか。底力を、見せてやる」
お前のことは、カズヤにもよく言い聞かせてあるから、とリヒトは小声で菜月に伝えた。俯いて、菜月は頷く。リヒトの低い声が耳にやさしく残る。
「リヒトさんも、ご武運を」
そう言い返すのがやっとだった。
御簾や几帳がばたばたと音を立てている。心の底に澱んだ不安をいっそう煽る風だった。次第に風異が強まってきたので、六人は出撃を決めた。夕暮れ間近の空は、暗みを帯びはじめている。夜の闇が下りる前に決着をつけたい。それが全員の願いだった。
外に一歩出ると、風が目に入って痛い。遮るものがない外界では、容赦なく雪まじりの嵐異が吹き荒れている。ほんの数歩先を歩いていたはずの藤原の背中が、ほとんどもう見えない。
「うわ……っ」
風にあおられてしまい、ふらりとよろける。さっそく恐怖に襲われた菜月は、がちがちと震え、歯がかみ合わなくなった。都では、『剣士の菜月さま』『近衛府の姫』と、しきりに讃えられてきた菜月だったが、都の外ではほとんど役に立たなかった。悔しい。
藤原のあとに続いて、リヒトが、ガラナがサハリクが、菜月の横を通り過ぎた。それぞれ、菜月の肩を軽くたたきつつ、激励を送ってくれた。菜月には頼もしい味方がいる。ひとりではなかった。
そうだ、これしきのことで。
菜月はぎゅっと歯を食いしばって己を奮い立たせる。都に戻ってもどうにもならない。
「カズヤさん。私、やります。風異への対応方法、どうか教えてください」
菜月は隣に立っていたカズヤに頭を下げた。素直な態度に、カズヤは面食らったようで、視線を左右にそわそわと泳がせている。
「俺が教えることなんか、ひとつもないよ。先日の勝負では、きみが勝ったんだしさ。もし、どうしてもと言うのなら、俺の行動を勝手に盗むことだね」
「盗む……」
「そ。自分で見て覚える、ということだよ。いい子ちゃんで、お上品なお姫さんには、難しいかなあ」
「いいえ。大納言家の姫である前に、私は蝦夷地の娘ですから」
「気の強いお姫さんだな。女はもっと、かよわいほうがモテるのに」
「今はもう、女でなくてもいいと思います。ただの、菜月でいいと」
「へえ。すごいこと言うね。顔はかわいいのに、女を捨てるとか」
「私を、カズヤさんの仲間と認めていただけるように、がんばります。見ていてください」
元気な菜月に対し、カズヤはあからさまにため息を返した。
「はーあ。そういう熱血型って、白けるんだよねえ。努力さえすれば、どうにでもなる的な。いいよ、才能の差を見せてあげる。俺は藤原さんに見出された、第一の弟子。あと数年のちには、今はリヒトさんがいるあの場所に、俺が立っているから」
「はいっ!」
菜月の元気な返事に、カズヤは黙った。たぶん、反論する気を失ったのだろう。カズヤには、なにを言われても笑顔とやる気で押し返すのがいちばんだ。
「行くぞ! 怯むな」
藤原のかけ声を合図に、風異との戦いがはじまった。
陣形は、前方に四人が並ぶ。藤原、リヒト、ガラナ、サハリク。後方にふたりが縦に列を作る。カズヤ、そして菜月。
詰め過ぎないように、間を空け過ぎないように、なるべく固まることにした。
吹く風は、北街道に沿って真正面から砦を襲う。砦を抜けてしまうと、都だ。なるべく風異を逃さないように、全員が剣を抜いて切った。
あんなに寒かったのに、ほどなくして身体は熱を帯びはじめた。次第に、目も慣れてきた。菜月も剣を振るう。強い風異は前方の四人の誰かが切ってくれる。けれど、漏れてしまう風もある。菜月は丁寧に風異を潰した。
海の向こうから、真砂国の開国を促すために送られている風異なのだと説明されても、ヒトの力でこんなに激しい風異を作れるものなのだろうか。風異に向かえば向かうほど、信じられなくなってくる。
たまに後ろを振り返ってくるカズヤと目が合う。なんだかんだ突き放しても、カズヤは菜月を気づかってくれている。だから、菜月はその都度、満面の笑顔を返す。けれど、すべて無視された。
次第に風異が強くなる。寒さも厳しくなる。とうに手足の感覚はなくなっていた。けれど、身体の芯はひどく熱い。それでも身体を動かし続けるのは、都にいる帝や家族のため。北の砦の存在は、人々にはあまり知られていないけれど、ひとつでも多くの笑顔を守りたい。菜月は剣を振るった。
「しかしこれ、きりがないな」
前方のリヒトがぼやいた。
「今が山場だ。全員、踏ん張れ」
藤原が汗を飛ばしながら激励した。汗が、みるみるうちに凍りつき、風異に乗って氷粒となり、足もとの雪の上に落ちた。
新参の菜月にも、リヒトと藤原の呼吸の良さには驚いた。一から十を説明しなくても、お互いが次になにをするべきか理解しているらしく、動きによどみがない。散開して風異を切り、すぐさま左右に並んで切る。ふたりで、三人分どころか五人分ぐらいの働きをこなしているようにさえ映る。自然体でやってのけてしまうのだから、うらやましい。菜月でさえも、思わず嫉妬してしまう。藤原を肉親のように慕っているカズヤにすれば、歯がゆいことこの上ないだろう。
寒さには強いとはいえ、菜月も手指が冷え切って剣をうまく握れなくなってきた。その上に疲労が重なり、風異の終わりも見えてこない。空はますます暗くなる。
突風にあおられ、思わずよろけそうになった。足に力を入れて踏み止まろうとするけれど、つるつると滑ってしまう。風はともかく、雪上の戦いには慣れていなかった。
「あっ」
転んだ先に、尖った氷が立っていた。身体をひねったけれど、間に合いそうにない。このままでは絶対に氷の先端が身体の真ん中に刺さってしまう! 避けきれない。もうだめだ、菜月は覚悟して目をつぶった。