1 真冬の真砂国
かれこれ、六年。
東の果てに位置する真砂国では、冬が続いていた。凍てつく風が吹き荒れ、雪は大地を覆った。人々は倒れ、暗い時代が続いている。ただ、風に向かって剣を振れば、わずかに寒波が弱まることを発見し、宮城を守る兵は目に見えない敵……『風異』と戦うことになった。
菜月はこの日、帝から直々に呼び出されていた。菜月の父である大納言によると、自分は新しいお役目に就くようなのだが、詳しい内容は伝えられていない。
「行ってまいります」
頬を引き締めてやや緊張しながらも、近衛府の制服に身をつつんだ菜月は、家人に挨拶をして単身、大内裏へと向かった。
今日も都を歩いているのは、寒さに強い女子ばかり。寒波が訪れてきた当初は、原因を突き止めるために多くの男子が都を出て行ったけれど、無事に帰ってくる者はほとんどいなかった。以来、男子はもっぱら官舎で内勤となった。風異を払い、都を守る検非違使や兵役など、現場へ出るのは女子ばかり。
もちろん、妻となり母となる女子もいるため、外で働く女子は選抜された。本人の意思がもっとも大切だが、娘の多い家、身体能力の優れた者などが中心。
菜月もそのうちのひとり、大納言家の妹姫。姉は、帝の後宮に入内している。 もっとも、姉とは生母が違う。鄙の生まれの菜月だったため、窮屈な姫暮らしよりも剣を振り回したり、馬に乗ることを好んだ。裳着の式のあとは、迷わず近衛府を志願した。帝に近侍する兵のひとりとして、風異を払う毎日に追われている。
北方で作られた剣が風異に有効であることが判明してからは、北方製の剣が唯一の武器だった。寒い風を切れるのだ。ひと振りで冷気を払い、ふた振りで霧散できる。すると、寒さがいっときしのげるようになる。さほど持続はできないけれど、外を歩いたりするぶんには有効である。
「鎮まれ」
白い息を吐きながら、菜月も風異を払い、凍りついた道を進む。毛の帽子、分厚い外套に長革靴。近衛府の制服は、貴族の礼服である束帯を動きやすく改良したもの。雪に埋もれないように桜色と萌黄色を基調としている。春待つ色。菜月はこの配色がとても気に入っている。剣を振り回していても、やわらかい色は心が和む。
ふと道端を見れば、粗末な小屋の中で寒さに震えている薄着の子どもがいる。視線が合った。道から丸見えだ。菜月は剣を振り、小屋に流れてゆく冷気を断った。子どもが、驚きの表情に変わる。そしてわずかに笑顔を咲かせる。菜月は頷いてほほ笑み返した。自分には、これぐらいの小さなことしかできない。その場しのぎでしかないけれど、なにかしたくてたまらない。
近衛府に着くと、壁に掛けてある自分の名札を表にする。出勤、のしるしに。年若いけれども、大納言家の姫の菜月は剣の腕も認められ、近衛府の尉、三等官に就いている。
「菜月姫さま、おはようございます」
近衛府の役人たちがにこやかに菜月を出迎えた。
「おはよう。でも、いいかげんその、『姫』はやめてね。くすぐったくって」
都の遥か北、蝦夷地で生まれ育った菜月は周囲の姫扱いが苦手だった。かつて、父の大納言が北方調査のときに母と知り合い、恋に落ちたのだという。父は任務が終えると都に帰ったが、母のおなかには菜月が宿っていた。都の父はこまめに仕送りをしてくれ、母が亡くなると自邸に引き取ってくれた。菜月、十歳。都の暮らしは不安だったけれど、ほかに頼れる身内もいなかったので、菜月は父のことばに従った。幸い、都の義母も義姉もやさしく接してくれたので、菜月は不運を感じることなく育つことができた。
それから六年の年月が流れた。
近衛府を志願したのは、父や母に恩返しをしたかったからだ。父は、菜月に普通の結婚を勧めたけれど、北国育ちのせいか菜月は寒さにめっぽう強い上、母の形見の剣は風異をよく切る。自分の得意を存分に使いたかった。鄙育ちゆえ、父の目にかなう求婚者もいなかったので菜月にはちょうどよかった。
「帝がお呼びです、菜月姫さま。出仕したらすぐに承香殿へ、のことです」
「分かった。ありがとう」
少しだけ、鏡を覗く。白い肌に、大きな目。わりと、はっきりとした顔立ち。父にはあまり似ていない。どうやら、母親似らしい。髪は肩下あたりの長さだが、動きやすいよう、ひとつにまとめて結っている。平穏なときならば乙女らしいうつくしい色合いの長い紐か布で結いたいところだが、非常時につき、地味な黒紐しか使っていない。色目鮮やかな組紐は、世の中が落ち着くまでのお預け。
帝は後宮の一画、承香殿にいた。菜月の姿を見るなり、御簾の内に手ずから招いてくれる。几帳も脇に片づけ、親しく接してくれる。今朝も、帝の笑顔はまぶしいほどに輝く。十五で即位し、現在では二十をいくつか越えた帝は、若さと威厳を兼ね備えていた。
「おお、菜月。よく来たな、こちらへ。待っていたぞ。大納言家のじゃじゃ馬姫よ」
承香殿とは、後宮の殿舎のひとつで帝の妃が賜る場所。現在は、菜月の姉が承香殿の女御として上がり、帝に仕えている。
「帝。女御。おはようございます」
「菜月、今朝も元気そうでなによりです」
北の原野で生まれ育った粗野な菜月とは、まったく別の存在に近い、女御。正真正銘の、都の貴族の姫君である。くもりひとつない、自慢の姉。当然、帝にもふさわしい。並んでほほ笑みを交わしているところを見ると、まさに似合いの比翼連理。他の誰も割り入ることはできそうにない。
「まったく菜月は男勝りだ。先日も、都大路に突如出現した氷塊を一撃で崩して砕いたとか。そなたの働きには、いつも感服している」
帝は菜月のことを評価してくれていた。それが、とてもうれしく、同時につらい。
「お褒めにあずかり、大変恐縮です」
「言うな。ほんとうは、『早く婿を取れ』と言いたいのだから。そなたに、風異の撃退ばかりさせている、無能な朕を許せ」
「いいえ。私は働いていたほうが、性に合っています。どうか、いつまでもこのままで」
婿など、とんでもない。邸の奥深くに引きこもる生活など、考えられない。菜月は固く辞退した。
ひらひらゆるゆると、帝は優雅な手つきで無地の扇を広げた。近侍の女房に、筆を所望する。
「そこで、そなたへの臨時の除目だが」
ふつう、除目……人事異動とは、本来正月にすべき行事。こんな半端な時期に、しかも菜月ひとりだけが。まさか、自分でも気がつかないうちに取り返しのつかない失態を? 左遷? それで、婿を取れと?
白い扇に、帝はするすると絵図を描きはじめた。
「都から北、三里の場所に砦があるのは知っているか」
扇の上には、都。北の方角に砦が描き込まれた。砦のさらに北には、晴れた日には大陸を臨める海が広がっているらしい。もちろん、菜月は見たことがない。
海からの凍てつく風が複雑に絡み合い、集中して吹く難所だ。地形的に、砦の位置で風異を食い止められれば、都への被害は減るはずなのだけれど。
「北の砦には、剣の達人を送っているんだが、いかんせん大変な場所。砦は小さいゆえ、むやみに人数を送り込むわけにもいかず、精鋭たちに任せている。どうだ、菜月。そなたも行ってくれぬか。北の砦に。無理にとは言わないが、是非」
北の砦。
近衛府に仕え、二年が経つ。菜月には話にしか聞いたことがない、北の砦。そこには凄腕の剣士がいて、日々寒風を薙いで都を守っているらしい。
「菜月の剣の腕を見込んでのことだ。砦からも毎月のように、増員要求が届いている。だだ、あの地は酷寒の地。都のように立派な防壁もない上、月に一度の定期便しか通っていない。説得したが、女御は大反対なのだ」
帝の隣に座っている女御は美眉をひそめて見せた。
「当然ですわ。かわいい妹を、いっそう厳しいところに送るなんて。そろそろ開国するしかないのではないかと思いますが、帝」
「鎖国は亡き父院の遺命。朕が簡単に覆すわけにはかぬ。もはや、菜月しかいない。天賦の才を持つ、菜月の剣に期待するしか」
「菜月には菜月の、しあわせがあります。近衛府への出仕さえも、今すぐ辞めさせたいぐらいなのに」
度重なる寒波について、公には『原因不明』と発表されているが、実は真砂国に開国を要求する諸外国からのいやがらせだ。諸外国は、真砂国付近の風を曲げて季節を冬にさせている。鎖国を守っている真砂国が音を上げて開国要求を呑むまで、眺めながら待つつもりらしい。冷気に晒されて、六年。よく耐えたと思うけれど、すでに限界を越えている。
国を憂う帝と、妹を思う姉がぶつかりあっている。菜月は胸が痛んだ。
「私、行きます。北の砦に。行ってみたい。自分の力を使いたい。砦にいるみなさんの腕前も見てみたいです」
清々しい声で、菜月は宣言した。
「いったん都を出てしまったら、しばらく帰れないのよ? 嵐異の中、無事に辿り着けるかどうかも分からないもの。任務は厳しいわ。ああ、早く結婚させるべきだった」
「お気持ちはうれしいけれど、姉上さま。私で役に立つのなら、力を惜しみたくないのです。姉上さまは都で帝をお守りください」
「まあ、菜月……」
「よし、決定だな。菜月の意思は固い。大納言の説得は朕がする」
どうやら、砦行きには父も反対らしい。帝至上主義の父が帝の提言を渋るなど、初耳だ。菜月の最前線派遣については、女御もまだ納得できていないようで、不安そうな目を菜月に向けている。せめてもと菜月が笑顔を返しても、女御の表情は変わらない。
「私なら、だいじょうぶです。蝦夷地生まれのせいか、もともと寒さには強い身体ですし」
「そうは言っても。帝、今すぐに菜月をもらってくれそうな公達、いないかしら」
「おいおい。菜月を行かせたくないかって、急に嫁がせるつもりか」
雲行きがあやしくなってきたので、菜月は立ち上がった。
「そろそとおいとましますね。砦に行くなら、引き継ぎや準備もありますし」
「勇ましいな。頼んだぞ、菜月」
「はい。お任せください」
菜月はしっかり頷いた。




