獅子を象る面は争いを好む――前
東の小さな島国。そのいずこかに存在する山林地帯に居を構える豪族の一家が在った。
獅子羽家が先先代の頃より蓄えに蓄えた総資産は膨大と、身内等の口々はそう語って来たと云う。
ある年の暮れのことだった――辛うじて存命だった陽水さんが息を引き取られた旨を、顧問弁護士として雇われていた僕が聞き耳に挟んだのは。
顧問弁護士なる雇用を受けていた僕が、どうしていの一に聞かせられていなかったのか。その話は折にするとして、今は現状を語る必要がある。
愛車のクーパーをガタ着く山道を無理矢理に走らせているのがその証拠である。
「くそ――犬神家でも在るまいし。どうしてこう、豪族の遺産問題は鮮血がチラつくんだ」
現頭首の陽水さんの死去と共に聞かされたのは、長男一家が謎の一家心中を果たしたという内容だった。
長男一家の家庭事情までを事細かに把握していた訳でもないが、この時期に一家心中を図ったなんて、三流ゴシップどころか一流の記者ですら目の色を変える程に明白な事件性を醸している事柄だ。
それが何故、僕が愛車が大破する危険を犯してまで急がざるを得ない状況に結びつくのか――答えは簡単至極、弁護士稼業と兼業しているもう一つの職業が絡んで来るのである。
「これはこれは――どうしたのですか?」
獅子羽家の所有する敷地は広大である。
今こうして肩で息をこなしている僕を迎えてくれた和服美人――次男の妻である栗枝さんが立っている門前を一辺に、そこから大仰な武家屋敷よろしく、昔ながらの平屋建ての家屋を取り囲む正四角形の塀の内は極一部。
背後に見受ける山々の幾つか――下手を打てば、それのどれもがこの獅子羽家の所有地であるのだ。
「いえ、陽水さんがお亡くなりになられたと、小耳に挟んだ次第でありまして……」
「流石。探偵を兼業していることはありますね……小金を嗅ぎつける嗅覚がお優れになられているようで」
「いやはや、これは手厳しい」
この瞬間にも目の前の麗人は、残念ながら僕の内での容疑者候補に上り詰めてしまった。
口の悪さからではなく、僕に陽水さんの死去を故意に伏せていたことを雄弁に語ってくれたからである。もう一方の重大な事柄を伏せて。
「苦言を吐かれたついで、とは言葉が悪いかもしれませんが。もう一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「ええ」
ふふ、と。袂で口を隠しながら上品ぶって笑って見せるが、その狐目の隙で光った妖光を僕は見逃さなかった。
「長男――牙郎さんは何故、このような時期に心中を図ったのでしょう?」
「さあ……気難しい方のようでしたから」
包み隠す様子はない。
化粧気の濃い顔相に悲哀が見られないのは気のせいではなく、真にこの人が意に介していないからだろう。職業柄、こういった人間の顔色は見飽きている。
「重ね重ね、お悔やみ申し上げます」
「あら、急にどうなさったのですか?」
陽水さん、長男の牙郎さん。そしてその御一家の方々に――大金を前にして人間性を売り払った悪魔らの手に掛けられてしまったことに対し、深く。
数秒の黙祷を終えた後、僕は疑問符を浮かべた栗枝さんと共に屋敷へと乗り込んだ。
連れられて通ったどこを居間と呼べば良いのか、もはや分からない数の畳の連続道を抜けた先。漆喰の板張りの壁に立て掛けられる一々豪勢な装飾の壁時計の下。獅子の剥製と思しき顔相が睨み、睥睨してくる座敷へ通された所で、ようやく栗枝さん以外の人々と遭遇できた。
「おお、弁護士さん。これは又、相も変わらない仏頂面を引っさげてご登場たぁ、どうにも穏やかじゃなくていけねぇや」
「あはは……どうも職業柄、こうした面相しか持ち合わせがないものでして」
開口一番。大柄な見た目に相応しい、豪快で品のない笑声を上げて来るのは次男――爪郎さんだ。
裏表のない単調な性格にも思えるがその実、経営者として三つの企業を抱える強かなお方だ。人は見かけではないことを学習させてもらった、ある種の恩師でもある。
「こら爪郎、菊巳さんがお困りじゃないか。まったく……ごめんなさいね、わざわざ出向いて下さったのに」
「いえ、構いませんよ。爪郎さんの覇気に溢れる勇姿にはいつも、見習うべき所が多様にある、と感慨に耽っていますので」
「だーっはっはっ、だとよ?」
「明らかに社交辞令じゃない……」
あの爪郎さんに「こら」、なんて言えるお方は牙郎さんを除けば長女――獅織さんの他にはたぶん、現存していないかもしれない。
今のやり取りからも窺えることだが、獅織さんは人当たりが良く、獅子羽家の関係者にしては珍しく普通の性格の持ち主である。さながら、この場では唯一の良心とも言えるのかもしれない。
「ねぇねぇパパ、だぁれ?」
「お、襟奈。こいつはな、パパたちの家が雇ってる弁護士さん、ていう職業の人間で――て、まだ分かんないか」
「べんごしゅさん?」
「おお。そうだそうだ、べんごしゅさんだっ」
「べんごしゅさんっ!」
どこからか現れた五歳にも満たなさそうな女児は、どうやら爪郎さんと栗枝さんの娘さんらしい。
柔らかそうな髪の色が日本人とは思えない金色なのは恐らく、それこそ獅子の鬣のような髪型をしている爪郎さんの遺伝だろう。
獅子羽の人間たちは代々、金髪の持ち主であるのが特徴のようで。亡くなった長男の牙郎さんも金髪のオールバック、長女の獅織さんも綺麗な金髪のロングヘアである。
「ところで、つかぬ事をお聞きしますが――現在、屋敷に居るのはこの場の五人だけでしょうか?」
僕の放った牽制球に、和やかだった室内はシンと張り詰める。
娘を愛でていた爪郎さんも例外ではなく、小さな頭を撫でていた手をそのままに、僕に丸めた背を向けた状態で硬直する。
唯一の良心と謳った獅織さんは、大きな両眼を襟奈ちゃんへ向けているのを装ってはいるがどうにも、その目つきは姪へ向けて良いものとは思えない。
横目で見た栗枝さんは変わらず、細い目を保ったまま薄ら寒い笑みを浮かべている。
「どうか、致しましたか?」
獅子羽家の皆さんを嫌っている訳ではない――いや、むしろ僕はこの一族の人々を好いてすらいる。故に、僕自身が如何に疎まれようとも踏み込んで然るべきことなのだ。
顧問弁護士という立場でも、探偵という立場でもない。恙啼菊巳という、一個人の我儘にも近しい勝手気儘な使命感に駆られているのだ。
「弁護士さんよ。あんたは数、数えられない程に稚脳じゃあるまい。これで全員だ」
「そう、ですか……」
随分と、それもう随分ともの寂しくなったものである。
一昨年の年明けの際に見受けた、活気に溢れるこの居間の光景が目端にチラつく。
「爪郎、あんたは襟奈ちゃんと向こうへ行って来な」
「あの、すみませんが――」
「菊巳さん、爪郎はあなたが明かそうとしている事柄には無関係です」
伸ばした右腕を制する獅織さんの声音には、一切の良心などは感じ得ない。低い音程の声はまるで、獅子が獲物を見据えて唸り鳴らすそれの様だった。
栗枝さんが差し出してくれた湯呑みに、僕が口を着けた所で仕切り直しとなった。
木目の四角い机を囲うのは僕を含めて三人。しかし何故か。だだっ広いハズのこの居間がどうにも、窮屈な密室に思えてならない。
「菊巳さん。あなたがお聞きになりたいこととはやはり、兄――牙郎のことですね?」
「言わずもがな、その通りです。最初から疑って掛かるのは性分に反しますが、時期が時期ですのでどうにも」
「はっきりと申せば良いでしょうに――私たちを疑っている、と」
ふん、と。演技かかった鼻での一笑を挟んで投げて来られる図星に、僕は顔を歪めるしかない。
「栗枝さん。如何に獅子羽に嫁いだ身とて闇雲に牙を剥くのは、はしたがないわよ」
「……すみません、お姉さん」
「あはは……では、お言葉に甘えて告げさせて貰います。お二人のどちらが――牙郎さんの御一家を?」
胸を鷲掴みにしてみせるのは獅子羽が飼い慣らす獅子か、それとも、二人の包み隠している身も毛もよだつ悪意か。
「信じられないとは思いますが、兄の一家を手に掛けたのは外部の者です」
獅織さんはが云う。
「当てが外れましたね、探偵さん?」
栗枝さんがそれに続く。
「外部、と申しますと?」
「いえ、ね……とても誇れたことではないけれど、私の抱える会社の役員の中には、穏やかでない稼業の人間と繋がりを持つ人間が居るのよ」
微笑――いや、笑ってはいないのか。
微妙――というよりはややこしい表情だ。
薄っすらと笑っているようにも見えるのだが、強張ったせいで引きつっているとも取れる。そんな面相を呈している。
「それでは今回の事件を起こしたのは、その穏やかでない交友関係をお持ちの役員、その誰かが行ったことだと?」
「ええ」
言い切られてしまった。
嘘であるかの真偽を計るより先に、まずは単純な疑問を解決しておく。
「その役員は今?」
「お察しの通りですよ、菊巳さん」
解雇――もしくは消したか。
仮に逮捕されていたのならここへ出向く直前、その旨を辻内さんから聞いていたハズだ。
「それこそ、穏やかなお話ではありませんね」
「獅子羽家はですね、先先代より穏やかさとは縁遠い一族です。今更、そんな言葉を投げて来られるとは夢にも見ませんでした」
栗枝さんは語りの際に再び、細い瞼の隙から妖しい光を覗かせる。
言葉を通りに受け取るのならそれは、挑発である。が、何かが奥歯に挟まる。
「事の真相は明けましたが、最後に一つ、宜しいでしょうか?」
踏み入るのならここであろう。
「陽水さんより預かり受けた遺言に関してですが――」
後編は後日、書き上がり次第載せて行きます。