1-6
うるさかった。
姉たちが、五人の姉たちが、本当にうるさかった……。
激動の午前が過ぎ去り、時計を見ると時刻は十二時半を過ぎていた。
馬鹿二人をなゆとか追い出し、その後少しだけギターの練習をした。が、あまり集中できなかった気がする。
その前に無駄な出来事がこぼれ落ちる砂時計の砂のように、俺を波状攻撃してきたのだ。そりゃ落ち着かない。
疲れているはずなのに、瞼が重たくならない。
今からまた寝ようという気にもならない。
「はぁ……」
このため息が今日で何度目か、いちいち数えちゃいない。
俺が望むのは平和だ。
ごくごく普通の、平和なのだ。
衣食住に満たされることも贅沢だが、こうして何もしない時間を過ごすこともある意味平和と言って良いと思うし、こんな時間がもう少し増えないかとも思う。
本来ならば簡単かもしれない。だが、この家で五人の姉たちと共同生活を過ごす俺にとっては実に難儀なのだ。共同生活と言っても、姉たちが全員揃うのも限られてはいるが。
俺は、物心ついた頃から女に囲まれて育っていた。我が稲本家の女は母親と五人の姉たち、合わせて六人だ。が、母は父と共に仕事の都合もあり海外で過ごすことが多く、たまに帰国する程度だ。ここに無理矢理家事代行業者の女性スタッフを加えればもっと多くなるが、その人たちは毎日我が家にいるわけでもない。現に今日はいない。
男が一人に女が五人、アンバランスな男女比だ。
「なんでこうも女だらけなんだよ、この家は」
不思議に思う。
神様の悪戯か、それとも両親の悪戯か。女だらけの家庭の中で、どうして男が俺一人なのだ。
「姉妹が揃いも揃って、俺のことをどんな風に見てるんだよ……」
独り言、というより愚痴が止まらない。
今朝、最初に顔を合わせたのが五女の美沙貴。
次に四女の玲亜姉さん。
その次が茉奈姉さん。
それから次女の明日夏姉さん。
フィニッシャーが長女の杏果姉さん。
弟の俺が言うのもおかしいが、この人たちはいずれも容姿は恵まれている。仕事量に差はあるがそれぞれにファンがいる。
ただ外見はそれほど似てないし、趣味嗜好も異なる。
ある意味内面というか、弟である俺をどう見ているかにおいて似ている。もっと言えば、誰一人として弟を普通の弟として見ていないのだ。
「安心できないな、この家」
まだ高校生なので法律の知識を網羅しているわけではないから、たとえば自宅の中で護身用として鈍器とかを懐に忍ばせるのはセーフか判断がつかない。
最悪、スタンガン的な物で妥協できる。俺は我慢強くて良い子だ。高校生にして防犯意識も高い。
もちろん年齢制限的な問題があれば俺が悪者になるから、実際には持たないが。
ただこうして思考を巡らせると、何か使える物が一つでもあればと欲が出てしまう。
その欲は、俺を立たせた。
「……出かけるか」
◇
支度を整え、家を出た。
といっても、散歩程度の外出だ。
護身用の物でも買い漁るか、とか張り切って飛び出してもお宝が眠る大海原などありはしない。辺りを見ても宝の島など見つからない、ここは世田谷だ。
ここ世田谷代田は住宅地である。一般の家屋が多く、高層のマンションやビルが建ち並ぶわけでもなく、都内でも比較的静かな場所と言われている。
コンビニなどは駅の前にあり、喫茶店などのこじんまりとした飲食店は意外と多い。都会の中にあり、かつ住み心地の良さが魅力で近年では人気が高くなっているらしい。
世田谷という地は思いの外広いのだ。代田は人気は高くなっているようだが、高級住宅街ではない。
さて、家を後にしたのはいいがこれからどこへ行こう。自宅から最寄駅まで徒歩で十分もかからない。
春らしさを忘れたギラギラした陽の光が熱く、だが時より吹きつける柔らかな風には春特有の心地良さが孕んでいる。
住宅街ではなくのどかな公園にでも行って同じものを感じてみたいものだ。なら、今から公園にでも行ってみようか。独り身で行くのは少し寂しいが、姉たちと一緒に行くのは御免被る。特に美沙貴とかとは。
考えれば、まだ昼だ。
陽が暮れるまで時間がある。
どうせならもっと遠出してもよい。明日からの入学の準備はとうに終えているのだし、電車を使って都内をほっつき歩くのも意外と悪くない。
スマホを取り出し、それを眺めるためコンビニの入った建物の壁にやや寄りかかる。
何か面白い情報が載っていないか調べるためだ。
日本の首都であるここ東京は、いわばこの国の様々な文化の発信源とも言える場所だ。当然の如く、催し事は小さな規模から数えるなら毎日のように開催されているのだ。
適当にぶらぶらとほっつき歩き、そろそろ帰ろうかと思えばいつでも電車に乗れる。東京の醍醐味でもある。世田谷から電車で気軽に行けて、何か面白そうなことがやってるのはとこか____、
渋谷か新宿が浮かんだ。
前者は少しばかり苦手意識があるというか、あまり好んで訪れない。
となると新宿だ。世田谷代田駅から乗り換えなしに直通している大規模な駅であり、あそこなら大きな店も多い。
退屈はしないだろう。
「【新宿】っと……」
イベント情報サイトのキーワード検索機能を使うと、多数の検索結果がヒットした。
どれどれと画面と睨めっこすると、展覧会に個展にグルメイベント、胡散臭いセミナーまでやってるらしい。
いまいちな催しばかりでスクロールの速度が増す一方だったが、たまたま止まったページにセミナーよりは面白そうなイベントが表示されていた。
「お笑い無料ライブ……」
見ると、あまり聞き馴染みのない無名な芸人たちの名が並ぶページに遷移した。
主催元の事務所名も聞いたことがない。規模の小さな事務所が主催のマイナーに芸人たちのライブイベントらしい。
ちなみにだが、別に俺はお笑いが好きというわけではない。その証拠に、出演者一覧と顔写真を見ても知っている芸人が一人もいない。
テレビというものもあまり観ない。
「……どうしようか」
特にお笑い好きというわけでもないが、たまたま見つけたそのイベントの情報は少し気になる。説明を見ると料金は無料だ。かかるのは世田谷代田から新宿までの電車代のみ。片道二百円もしない、未知なるお笑いが待っている旅だ。
スマホをしまい、その場から離れた。
ただの散歩がお笑いライブ参加に変わった瞬間である。
◇
新宿駅に到着した。
東口前、人々が激しく行き交う交差点付近の広場にいる。平日の昼間でもここでは人々が退屈知らずの波のように揺れ動く。
俺のような私服姿の若者、暑さの中スーツに身を包みスマートフォン片手にせっせと歩くビジネスマン、行き交う人々に見境なくポケットテュッシュを配ろうとする疲れた顔のアルバイト、その他諸々が集っている。
先ほど見たサイトのイベントの開催地を確認すると、ここから少し離れた雑居ビルの中にイベントスペースが設けられているようだ.おそらく、今いる位置から数分で辿り着く。そのビルには派遣会社の事務所などが入っているようであり、わかりやすい。
イベントは小規模で、その開始時刻が二時半からと記載されている。
時間に余裕があるなと思っていると、
「あれっ、拓弥くん……!?」
と、女子の声が聞こえた。
とても聞き馴染みのある声だ。
スマホ画面を眺めていた俺の後ろの方からだ。聞き馴染みのある綺麗な声だが、それは姉たちとは違う。
振り向くと、見慣れた女子がいた。
彼女の顔はよく知っている。声だって幾度となく聞いている。この女子とは、幼稚園時代からの付き合いだ。
整った小さな顔、吸い込まれそうなほど大きく澄んだ綺麗な瞳、春の日差しに焼かれそうな白い肌、優しく柔らかな雰囲気を纏った幼馴染とこんな場所で偶然出会すとは、少し驚きだ。
「奇遇だね、こんなところで偶然会うだなんて」
「ああ、奇遇だな……弓野!」
幼馴染である弓野鼓と出会したのは、本当に偶然だった。
「うん、こんにちは。拓弥くんはどうして新宿に? お買い物とかかな」
「いや、買い物じゃないな。ただ適当にぶらぶらしてただけだよ。家にいても何もなしいな」
弓野は、柔らかい笑みだった。
そんな彼女に少しだけ罪悪感があるとすれば、最初は護身用の何かを買おうかと思い腰を上げて家を出たからだ。
この子にわざわざそんなこと言わないけど。
「そういう弓野こそ、どうしてここに?」
「私はお買い物だよ」
「一人でか」
「ううん、さっきまで奈美ちゃんと一緒だったの。でも奈美ちゃんだけ別の用事があるからって別れて、駅の方まで歩いてたら偶然拓弥くんを見かけたの」
「そうか。ということは、このまま帰るのか?」
「えっとね、帰る前にちょっと寄り道。実はね、奈美ちゃんが教えてくれたんだけど、この近くで無料のお笑いのイベントがあるみたいなの。せっかくだし見てみようかなって」
「ああ、ひょっとしてこれのことか?」
手にしていたスマホ画面をそのまま弓野に見せつけると、
「あっ、そうそう! これのことだよ」
と、少しだけ驚かれた。
本当に偶然が重なったが、弓野も同じ目的でここにいるらしい。
「実はさ、俺も今からこれ行こうかなって思っててさ」
「えっ、そうなの!?」
「ああ」
「そ、そうなんだね……」
何年も幼馴染をやっているので彼女のことはまあそれなりに知っているつもりだが、弓野も俺と同じで熱心なお笑い好きというわけではない、はずだ。
それでも俺よりはその手の、芸能に関する知識はあると思う。
「……あ、あの、拓弥くんっ!」
「ん? どうした」
「ええっと、そ、その……」
弓野が何か言いたげだ。
ついさっきまで柔らかい表情だったのが少し強張っているように見える。
「えっと、どうかしたのか……」
「あのね、もし拓弥くんさえ良ければ、一緒に行ってみない? あっ、もちろん無理ならぜんぜん大丈夫なんだけど……」
「あー、そうだな、どうせ同じ場所に行くんだし、なら一緒に行こうか」
「え、ええっ!? 良いの……!?」
「そんなに驚くこともないだろ、弓野から誘ったのに」
「あっ、そ、そうだよね……ごめんね。えっと……それじゃ、よろしくね!」
いつの間にか彼女の表情から緊張が消えていた。スッキリとした笑みが戻っていた。
実のところいざ新宿まで来たはいいが一人で小規模なイベントに参加するのは、案外緊張感がある。よく知っている者から誘ってもらったのは、俺としてはありがたい。
こうして幼馴染の弓野と二人、イベント会場へ向うことになった。
東口から徒歩で数分らしいので、あっという間に着くだろう。
◇
拓弥たちから少し離れた場所、物理的には極めて近しい距離と言えよう。
本当に少しだけ離れた位置から隠れて自分たちに向けて視線を送る怪しげな二人の存在、拓弥はそれに気付かないまま幼馴染と移動した。
「た、たた、拓弥が……私たちのヤングブラザーが女子と二人で歩いてるッ!?」
人が行き交う都会の大きな駅、気付かれないことをいいことに美沙貴と玲亜は少しずつ小さくなる二つの背中をただ見つめていた。