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春の木漏れ日眩しく一人で過ごすにはあまりにも広過ぎるリビンンルームでぽつりとゼリーを平らげた。
時刻は九時をちょうど過ぎたところ。二度寝を妨げられたのが確か七時四十五分あたりだったので、かれこれ一時間以上経過したことになる。
楽しい時間はあっという間というが、この朝の出来事は疲れるものだ。わずかな時間だがさっきまでのことを思い返すと、まず美沙貴を追っ払い、玲亜姉さんの顔面に水をぶっかけ、そして茉奈姉さんがどっかに消えた。ついでに美沙貴が後追いした。
強いて愉快だったことを挙げるなら、冷蔵庫の中で冷やされたゼリーは喉越しが良かったことだ。手の取ってからしばらく時間が経って温くなっているかもと心配だったが、意外とそんなことなかった。つるんと喉を滑らかに通る。使用したのは使い捨てのスプーンであるため、わざわざ洗う必要はない。食べ終えた容器と共にゴミ箱へ捨てるのみ。
こんな些細な便利さにさえ、心躍る今日このごろ。
「……歯でも磨こう」
再び洗面台へ向かう。
少し歩いてたどり着くと、人の気配は感じない。我が家の洗面所だが大きな一枚鏡が設置されているのだが、ツインボールになっていて、同時に二人まで使用できるようになっている。ただ学生なのは俺と美沙貴だけだし、他の上の姉たちは全員社会人、両親は海外で過ごすことが多い、そういった事情からここで混雑することが案外少ない。
が鏡に向かっている最中に見えないところから監視されるとかほんと嫌なので、念のため安全確認だ。
横断歩道はないが右見て左見て、念のため天井も見て、特に異変がないので歯ブラシを手に取り適量の歯磨き粉を付けて水に濡らし、口の中へと放り込む。
玲亜姉さん、たぶん自分の部屋にでもいるはずだ。服が濡れてしまったせいで着替える必要があるのだし間違いなかろう。一応、後で謝るつもりなのだが、俺の方がいろいろと被害者的要素多めだし最悪謝る必要ないとか思えてくる。
歯を磨き終えると特にやる事がない。リビングか部屋に戻って適当にニュースを観ても面白みがない。この時間帯は情報系の番組がメインで、厚化粧のおばさんや薄っぺらい文化人の皮被ったそこそこキャリアのある芸人が人様の言動にギャーギャーと後出しジャンケンだ。観ていてうんざりする。
コメンテーター様がご意見番だのと持て囃されて勘違いしてるか知らないけど、ほんと若年層と合わないものを公共電波使って流すんだから、観る気失せるよな……。
大して流行っていないものをいかにも流行っているかのように『今大人気の____』と胡散臭くナレーターや女子アナウンサーが大袈裟に紹介し、これまた胡散臭そうな年寄り司会者やコメンテーターがネチネチとケチをつけるだけ。自分が生きている時代にYouTubeやらSNSが発達したのは良かった気がする。
などと思ってふと外の様子を見ると、今日は朝から晴れ晴れとしている。
窓ガラスを貫く日差しの心地良さが、俺の足を動かした。
「外の空気でも吸おうかな……」
こんな日に引きこもるのはもったいない。というより面倒が姉が三匹以上いるのにお家の中で過ごすのが危険だ。
逃げ出したいのか飛び出したいのか自分でもよくわからないけど、庭の方に出ることにした。
◇
我が家には中庭がある。ご丁寧に小さな池まで存在している。俺がまだ小さいころは鯉が何匹か泳いでいたが、今はただの大きな水池である。それでも近いうちにまた何かここに入るらしい。
春の優しいくも激しくも感じる日差しを受けて、両手を上げ背筋を伸ばす。
____悪くない。
それどころか、とても良い気分だ。
天気が良くて温かい春の空気に包まれて、少し身体を動かしている。それだけなのに心地が良い。
つまり弟にちょっかいを出す姉という生き物はそれほど有害で心身両方に悪影響を及ぼす第一級隔離生物なのだ。
この池、広さはそこそこだが見た感じ水深はそれほどない。いざとなればより深くしてあの姉たちをここに叩き込むのは防衛という観点からアリだ。とってもアリだ。
「おっ、弟はっけんーー! おっはようさーーん!!」
「うわっ!?」
池を覗き込んでいると、背後からこちらに近付いてくる声が聞こえた。
忘れていた。俺にはまだ、姉がいることを。
随分とハイテンションで元気があり、よく通る高らかな声だ。言うまでもないが美沙貴でも玲亜姉さんでも、茉奈姉さんのものでもない溌溂とした声だ。
「池なんか見てどうしたの、大物でもいたー?」
「……ここに人間を、できれば五人くらい、まとめて突き落とせる深さにするのっていくらかかるんだろうか」
「朝っぱらから物騒っ!?」
明日夏姉さんのリアクションはいちいち大きい。
この人について説明するなら良く言えば明るいが、明る過ぎてウザい。リアクションとか……そうだ、顔がウザいんだ。
我が家はインドアの人間が多いのだが、この人は珍しくアウトドア派。青春を引きこもることに費やしてる美沙貴とか玲亜姉さんとは対極にいる。同じ血を分けた姉妹とは思えない。
「むぅ……なーんか失礼なこと思っとらんか?」
「いや別に」
やっぱり似てた、姉妹だよこの人たち。
「明日夏姉さんこそ、朝から庭に出て何してるんだよ」
「ダンスの練習! いやぁー天気良いからね、今日。部屋でやるより外出てやろっかな〜て」
「朝から元気だな」
「拓弥も明日から高校生活始まるんだからさ、シャキッとしないと!」
そう言いながら明日夏姉さんは俺の肩をポンポンと叩いた。絡み方がどことなくおっさんっぽい感じもするような気がする。
「せっかくだし拓弥も一緒に踊ろうよ!」
「嫌だよ、朝っぱらからめんどくせぇ……」
「うーむ、相変わらずドライな弟めっ」
「ダンスって何さ? 姉さんのことだし朝からハードなのやってんの?」
「あー、確かに激しいのもやってるよ。でも今朝やってるやつは簡単だよ!」
「簡単?」
「そそ、その場に立ったまま腕をウニョウニョ動かすだけだよ!」
「中途半端に踊るより恥ずかしくね? それ」
余談になるが運動神経に関してはこの人が姉の中で一番良い。現にこうして朝から身体を動かすのが好きなの人なのだが、他の姉たちが出不精すぎる。
「むぅー、バカにすんなし! 意外とコツあるんだよ」
「なんでそんなダンスやるんだよ」
「今度のイベントでミニライブがあってさ、アタシが演じてるキャラが腕ウニョウニョさせるのをやるんだよね。そりゃあアタシもどうせ踊るなら激しく動きたいけどさ」※1
「ああ、そう」
これはこの人、いやこの人だけに限らないが職業的な事情だ。
腕ウニョウニョが何を意味するかは知らないけど、朝早くから外に出て練習してるというのは感心だ。こういう部分は他の姉たちも見習うべきだろう。
「でも飽きた! だって簡単だしね」
「俺の感心返せや」
「でも身体を動かすのは良いことだし、筋トレも兼ねて別のダンスもやってたんだよね」
「じゃあそれ続ければいいだろ」
「うん、だから拓弥も協力してくんない? 五百一円あげるよ!」
「家の中にいたろ? アンタら弟に金あげるの好きだな」
何故五百円という金額にわざわざ一円だけプラスしてくるんだ。
それよりも協力もなにも本人が自主的にトレーニングしてるのに関わるつもりはない。
なのでハッキリと、
「協力もなにも一人で踊ってればいいだろ」
と、我ながら無愛想に突っぱねた。
「もうっ、ノリ悪いな。腕ウニョウニョと違って二人じゃないと厳しいのに」
「は? ダンスの練習なら一人で問題ないだろ」
「普通のはね。アタシがボケるからその後に『ダメー!』って頭を叩いてツッコミを入れて欲しいんだよ」
「……なんのダンスなんだ」
「トム・●ラウン」
「あれは漫才って言うんだよ! いや、漫才なのかあれは……」
そういや最近剛力●芽の顔面を入れ替えるネタをYouTubeで見たな。漫才かどうかは俺には言えないことだが。
少なくともあれを筋トレやダンスの類で見る人を初めて見たぞ。
「あっ、トム・ブ●ウンに抵抗あるなら最近SNSでバズってた池●●●のやつでも可だよ」※2
「なんでアンタそういうのに抵抗ないんだっ!? 一人でやるのは勝手だけど間違ってもネットに上げんなよ」
「ちぇっ、いいもーんだ! 一人で頑張って」
不貞腐れつつも乱れていたジャージの襟元を整えて何やら怪しげや動きをし始めそうな明日夏姉さんを相手にせず、俺は踵を返した。
最悪この人一人がネットのおもちゃになるだけで済むなら自業自得と笑ってやるが、一般人である俺にまで飛び火するのは御免被る。
外の空気はこれでもかと平らげたし、さっさと部屋に戻ろう。
※1
https://x.com/iii0303_8/status/1887095487515533468?s=46&t=LyZ5eepaxXNbHJvJCSN9sg
※2
https://x.com/xifanghong/status/1882805795408216076?s=46&t=LyZ5eepaxXNbHJvJCSN9sg