7-10
結局、練習らしいことはできなかった。
部室に置いているギターには触れたが、ストラップに肩をかけることも、チューニングをすることもままならず。
八辻先輩を落ち着かせるために副部長が温かい飲み物を用意して、それを飲ませていた。
肝心の八辻先輩だが、少しは平常心を取り戻した……とは思う。
ちなみに飲み物が何なのかはわからない。
わざわざカップの中を覗き込んだわけではないので、おそらく俺がよく飲むコーヒーか、紅茶だろう。
余談だがコーヒーカップとセットになっている受け皿、あれはレスポールのくびれたボディと比にならないほど丸い。
丸そのものだが、それを見て八辻先輩が平気なのは何故なのか。
彼女が温かい飲み物を飲み干してしばらくして、俺たちはギターを片付けて部室を出た。
ほとんど部活動らしいことをしていないし、ギターをスタンドに立てかけて、テーブルも簡単に拭いて、呆気なく部室を出た。
いつもなら部長が鍵をかけて、ハイさようなら、だ。
今日に限っては普通のさようならではない。
「あのさ、夏緒里……。前が見えないよ」
「当然よ。私が蕾の視界を絶っているのだから」
「どうしてそんなことを? 前が見えないと歩くのが大変だし、危ないよ」
「だから私がこうして身体を支えながら一緒に歩いているのよ」
女子高生二人が身体を密着された状態で、ゆっくり歩いている。
仲の良い女子同士で触れ合う程度ならそこまで珍しくもないし、男子より女子同士ならまあある気がする。
状況を説明すると、八辻先輩の背後から部長が肩に手を置いて抱き抱えるような格好になっていて、もう片方の手で目を覆い隠している。
部長の奇行は昇降口を出たあたりから始まり、八辻先輩が戸惑うのも無理はない。
「副部長。あれ、なんすか」
「えっとね、蕾ちゃんがおかしくならないように目を隠してあげてるんだと思うよ」
どうやら俺の目には奇行に映る目の前の光景が、副部長の目にはそう映らないらしい。
俺と一緒に後ろから二人をのほほんと見つめるこの人の方が付き合いが長いから、という理由で済ませておこう。
少し離れたところから様子を見ているのは、一緒にされたくないからだ。
一緒にされたくない理由だが、校門までの道のりで行き交う生徒、離れたところからジロジロと見ている生徒からの痛い視線だ。
連休期間中だが学校の敷地内を行き交う生徒は多いし、この慶馬学園は幼稚園から大学まで同じキャンパス構内に密集している。
より正確に語ると初等部だけ少し離れているが、とにかく高等部以外の生徒に見られるリスクは小さくないのだ。
なんだあれは____、
一体何をしているんだ____、
離れた場所の生徒たちが色眼鏡を向けている。
俺もそっち側の立場なら、あの女子生徒たちは何をしているだと思うだろう。
普通に歩くより足取りが遅いため、校門に辿り着くまでの時間も長い。
それは二人に向けられた好奇の視線の巻き添いを食らわないように距離を置いている俺も例外ではない。 それと昇降口付近で俺の隣にいた副部長がいつの間にか二人のすぐ後ろをついて歩いている。
気付けば、三人と一人という構図。
とりあえず校門を出ることには成功した。
「ふぅ……とりあえず大丈夫そうね。蕾、気分はどうかしら?」
「どうって、目が見えないのは落ち着かないから普通に歩きたいよ」
「キャンパス内では私が目を隠しながら歩けばなんとかできるけど、外でそれをやると周囲からおかしな連中だと思われるわね」
「キャンパス内でも十分おかしく思われてましたけど」
一声かけてみると、部長と八辻先輩が揃って俺の方を振り向いた。
「あら稲本くん、女子高生が歩くのを後ろから舐め回すように眺めるなんて感心しないわよ」
「二人が他の生徒から変な目で見られてたから距離を置いただけですけど。それより危ないから」
キャンパス内でも危なっかしいが、とりあえず街中で同じことをさせるのは止めるべきだ。
「私もそれを心配してたのよ。だから蕾、駅に着くまでなるべく下を向きなさい」
「下を向きながら歩くのも危ないよね?」
「大丈夫よ。もう校門は出たわけだし、最寄りの駅までの辛抱よ」
部長はそう言うが、ここから歩いて十数分程度で渋谷駅だが、それまで下を向いて移動するのはやはり危険だろう。
「他の生徒もいるし普通に通行人もいるし、下ばかり見て歩くの危ないんじゃないんですか」
「稲本くん、人間なんて生きていれば前を向けないほど心が擦り減る時が必ずあるわ。前を向けとか振り返るななどと簡単に言う、他人の心に遠慮のない平凡な歌詞しか書けないバンドのボーカルとかアイドルや声優アーティストの作詞担当っているでしょ? 下を向くこと、人間に元より備わっているネガティブな部分を否定する言葉選びが横行してしまうのは何故なのかしらね」
「危ないから前見え歩けって言いたいだけなんすけどね、俺は。部長の言いたいこと、ちょっとわかりますけど……」
俺たちはギター弾きで作詞をする者ではないが、言葉選びがひどく凡俗に感じることは正直あるよな……。
身内にアーティストデビューしているのが数名いてね、CD渡されて試しに中に入ってる歌詞カードを見てそう思ったが、俺はいちいち煽るような真似はしない良い子なので感嘆を胸の内に留めたが。
ちなみに曲はまあ良いと感じるケースは割とあったかもしれない。
自分の好みではないが。
「とりあえず蕾、足元に注意して進みなさい」
なるほど、足元に気を配るように促すことで前を向かないことに正当性を持たせたか。
それでも普通に前を向いて歩いた方が絶対に良いのだが。
「う、うん……じゃあゆっくり歩くね」
街中で当たり前のように見かける自動車、あれは便利な乗り物だが時として人の命を奪う凶器になり得る。
猛スピードで暴走した鉄の塊が人間目掛けて突っ込んで来たらひとたまりもない。
かと言って交差点や大通りをノロノロと進んでも、それはそれで危ない。
交通の妨げになるからだ。
部長の忠告通り、八辻先輩が本当にノロノロと、ゆっくりゆっくり進んでいる。
ペンギン歩き、と表現すれば良いだろうか。
ここは水族館じゃないのに、とか呆れていると八辻先輩の歩みが急に止まった。
「……八辻先輩、どうかしましたか」
声をかけた途端、彼女の肩が小刻みに震え出した。 この感じ、既視感ある。
彼女の前に回り込んで顔を覗き込めば、嫌な予感的中だ。
「……こ、これ……これっ!! あわわわっ!!?」
頬を染め、地面に向けて指を伸ばす八辻先輩。
少し震えた彼女の指先が捉えていたのは、点字ブロックだ。
「点字ブロックですけど、まさかこれも卑猥に感じるのか……」
ちなみに点字ブロックにも種類があるようで、詳しいわけではないが点状と線状になったものがある。
点字と聞くと丸い点がたくさん集まっているものをイメージするかもしれないが、八辻先輩をペンギンから人間に戻したのは細長い線が同じ方向に四本並んだものなので、線状で合っている。
「夏緒里ちゃん、線の形の点字ブロックのせいで蕾ちゃんはまたおかしくなっちゃってるんだよね?」
「ええ、見ての通りよ。蕾、どうしてこれが卑猥に感じるのよ?」
副部長も、そして部長も、俺と同じく規則正しく並んだ四本の線を見て卑猥な連想には至らない。
そんな俺らと違う世界に住む本人は、震えた口をなんとか開いた。
「だ、だってこれ……そのさ……あ、あれだよ……に、に、にに、妊娠……、妊娠検査薬の陽性の線と似てるんだもんっ!!」
この女、マジで何言ってやがるんだ……。
という気持ちになったのは、俺が男という性別だからではない。
同じ女という性別に生まれた二人の先輩を見ても、怪訝な表情だったのでホッとした。
しかしそれはほんの一瞬の安堵であり、部長の顔には既に怪訝さがなかった。
「……そうね。陽性の場合に出る二本線のように見えるわね。ただ普通、街中で点字ブロックを見ても妊娠検査薬とは思わないわ」
「当たり前だろ……」
それが普通なんだよ……。
「ほら! 線が四本だから陽性が二回出てるってことになるから……うぅぅっ、妊娠しないようにね、きちんとしておかないと、ダメなのに……まだ学生だよっ! そそ、それを二回陽性だなんて…………こ、高校生がパ、パ……パパ活だなんてダメだよねっ! ねっ!?」
「陽性反応出てないから。一回も出てないから、だから落ち着いてもらえますか」
何故陽性反応が二回出て、そこからパパ活になるのだ。
性管理、杜撰すぎるだろ。
顔を真っ赤に染めて声を上げた八辻先輩をどれだけ見ても、理解に及ばない。
「……稲本くん。貴方、蕾に『落ち着いて』と言ったわよね」
「それが?」
「ふふっ、『落ち着いて』と『お、膣を突いて』ってとても似ているわよね!」
「お疲れ様でした永遠に」
踵を返して歩みを加速させた。
我ながら実にスピーディーだ。
すると「待ちなさい!」と呼び止める声が聞こえた、ような気がしないでもないがさっさと帰宅して適当に寛ぎたいので、呼び止める声を背中で受け止めて足速に立ち去ろうとする俺に何一つ間違いなどない……はずだ。
◆
結局、俺一人でのんびりと電車に揺られていざマイホームへ、とはならず……。
渋谷駅のホーム、行き先はJR 品川駅だ。
八辻先輩の自宅が品川区にあり、最寄駅が品川駅とのことだ。
余談だがそんな品川駅の所在地は品川区ではなく、港区だ。
「はぁ……みんな、迷惑かけてごめんね」
「気にすることはないわ。点字ブロックを見て妊娠検査薬を連想する頭がおかしな女子高生を一人にしておくわけにいかないわよ」
この会話、普通の女子高生のそれではない。
そして、友達に向けて発言しているとは思えない。
部長と八辻先輩の会話を切り取り、事情をまったく知らない誰かに聞かせたらどんな顔をするだろう。
想像に難くない。
「稲本くんもわざわざありがとう。ついさっき初めて会話したばかりなのに」
「……いえ」
我ながら無愛想と思う返事の仕方だが、この八辻先輩と初めて顔を合わせて言葉を交えたのは本当についさっきの出来事だ。
そして数字が精子に見えるだの、線状の点字ブロックが妊娠検査薬の陽性反応に見えるだの、この人が女子高生という属性など関係なしにレア中のレアに該当するとわかった。
ゲームアプリをほとんどやらないので詳しくないが、レアリティで言えばSSRってやつを遥かに凌ぐだろう。
そしてそのSSR以上の八辻先輩、俺、部長と副部長の四人で2番線のホームに突っ立っている。
全員黄色い線の内側で電車を来るのを今か今かと待ち侘びている。
山手線内回りを利用すればすぐに品川駅だ。
時間は十二分程度。
「あの……部長、マジで何か礼をしてくれるんですか」
「……発情期?」
「蔑んだ目でアホなこと言わんでもらえます?」
本人にわざわざ伝えることではないが、部長のような女は異性として好みではない。
嫌だろ、普通に。
たとえばデートに行ったり食事を楽しんでいる最中に下ネタ言われるの。
それと俺が帰宅せず部長たちと行動を共にしているのは、何か礼をするから一緒にいてほしいと部長に頼まれたからだ。
人間善意で動いているつもりでも必ず見返りを求めるものだ。
相手の方から礼をすると言っているわけだし、日頃の鬱憤を少しでも晴らす機会と考えた。
無論、下卑たリクエストをするつもりはない。
「飯でも奢ってくれませんか。駅の近くのファーストフードとかでいいんで」
「それは今日の昼食ということかしら?」
「そうですね。時間も時間だし」
「まあ、ファーストフードを奢るくらい問題ないわ」
「ありがとうございます。言ってみるもんすね」
「これから品川駅に向かうわけから、マク●ナルドかラーメン●郎品川店ね」※1
「二択がおかしいだろ。前者はわかるけど後者は並ぶファーストフードの要素皆無ですよ」
「稲本くん、確かラーメン好きだったわよね? 男なのだから、二●くらい全マシで食べてみなさい」
「だからファーストフードじゃないんだよ」
しかも全マシかよ。
●ーメン二郎ね、確かに嫌いじゃないけど。
ただ本家●郎より二●系の方が好きだったりするんだよ。
いずれにせよ、今日はそんな気分でないが。
「夏緒里、ちょっと待って! 品川店も美味しいけど駅の近くに家系ラーメンのお店あるからそっちの方がスムーズに食事できると思うよ」
あまりにも意外な助け舟だった。
外見から受ける印象から、八辻先輩がラーメン通というイメージがない。しかもラ●メン二郎も知ってるようだ。
「えっと、八辻先輩ってラーメン好きなんですか?」
「うん。意外かな?」
「意外というか、二●も知ってるみたいでちょっと驚いたというか」
偏見だがあの手のラーメン店は女性人気がないとは言わないが客層がほとんど男性だ。
女性客がまったくいないわけではいないが、店内で見かける客層は男ばかりだ。
落ち着きのある整った顔立ちと長い黒髪、外見のみで評価するなら清らかという表現を用いて差し支えない。
脂の効いたスープの上にニンニクやら野菜やらを山盛りにするようなラーメン店とはまったくイメージが合わないのだ。
「この子、こう見えても中学の頃に品川区内のラーメン店全制覇を試みたのよ」
八辻先輩の肩にポンと手を置き自慢げになっている部長。
品川区内という範囲だが、人は見かけによらないのだな。
「部長のドヤ顔、品川全制覇してから俺に見せるべきでしたね」
「面白そうだったから、私はその挑戦に途中まで付き合ったわ」
「そうなんですか。どうして断念したんです?」
「行くつもりだった店のSNSを見てみたら、店主が店のアカウントで頭の悪い陰謀論とか女性声優へのセクハラ投稿に"いいね!"を付けていたのよ」
「それは……うわっ、てなるのはわかるけど」
「ちなみにその店で四軒目になるはずだったわ。本当にお気持ち表明するタイプのラーメン店のSNSと被災地に送る千羽鶴ほど無駄なものはこの世にないわよ」
「部長たちももっと頑張ってから制覇を目指したとか言ってくれないすか。千羽鶴は確かにいらないけど」
その店で四軒目なら二人が制覇したのはたったの三軒。
にもかかわらずあと一歩でギネス更新できたんですよ的な立ち振る舞いをしてくれたなと呆れていると、
「ちなみに制覇済みなのは天下●品の青物横丁店、五反田店、目黒店の三軒だよ」※1
そう言う八辻先輩の表情はいつの間にか随分と柔らかくなっていた。
この人の外食事情、随分とこってりしてらっしゃる。
「三軒とも天下一●なのって理由あるんすか……」
「理由? ●下一品は美味しいから、なんとなく色々な店舗に行きたくなるって感じかな」
八辻先輩は微笑みながらそう答えた。
チェーン展開しているラーメン店は直営店とフランチャイズ店で味が違う、という話を聞いたことがある。
もしかしてこの人はそういう違いを探す旅を品川区内で楽しんでいるつもりなのか。
「稲本くん、これは余談ね。目黒店は店名に目黒と冠しているのに所在地は品川区内なのよ。これと同じようなややこしさが品川駅と目黒駅にも言えるわ。我々都民あるあるね」
「都民あるあるかどうか知らないけどとりあえずドヤ顔控えてもらえますか」
本当にどうでもいい話だが、部長の言う通り品川駅は名前だけ聞けば品川区にあると思うに疑いの余地がないが、実際には港区にある。
そして目黒駅が目黒区ではなく品川区にあるのだ。
俺たち都民にとっては、たとえばこれから向かう品川駅の所在地が品川区だろうが港区だろうが関係なく"あの品川駅"として利用してるので、マジでどうでもいい話だ。
加えてそれが都民あるあるとして広まっているかどうか眉を顰めていると、
「それはそうと、蕾。私、以前から気になっていたことがあったのを思い出したわ」
「気になること? それってどんなことなの」
突然話を切り替える部長を見つめる八辻先輩の瞳は純真だった。
俺は自分の胸の内の穏やかさが薄れてゆくのをすぐに感じ取った。
「とても似ているわよね……"ラーメン"と"ザー●ン"って」
マジで何一つ表情を変えることなく、本当にそう思っていることをただ口にしましたよと言わんばかりの部長。
「…………ザ、ザザッ……!? わ、私が今まで美味しいと思って啜っていたものって……あぁぁ……あぁぁぁぁ!!」
何度目だろう、この人の顔が赤く染まるのは。
「しっかりしなさい」とだけ言って部長は少ししゃがみ、駅のホームで膝をついて赤く染まった顔を手で覆う八辻先輩の震えた肩に手を置いた。
「誰のせいでこうなったと思ってんだよ……」
「あら、まるで私が悪いと言いたいようね。ラーメン店ももう少し綺麗なスープを作れば良かったのよ。店によって違いはあるけどドロッドロでなんか脂っぽいものが浮かんでるわよね? あれ、そういうことよ」
「どういうことだよ! もう食えねぇだろ、駅のホームで親友いじめて楽しいのかよ、アンタは……」
そうだった。
ここは駅のホームだった。
普段からあまりにもアレな会話をしている、というより聞かされているので部長と八辻先輩の会話も部室での一コマのように思えたのだ。
「私……ドロッドロのを麺に絡ませて啜っていたの……? いやっ、そんなの嫌だよっ!!」
この人もこの人で、こんな場所でんなこと言わないでもらえないだろうか。
今後ラーメンを食べる際に思い出してしまいそうだ。
最悪。
「そういえばラーメンでちぢれ麺が用いられることがあるわよね。あんなものもはやち●毛よ! ちん●にザーメ●を絡ませて口にしているようなものね」
「そ、そんなっ……!? うぅぅぅ、もうっ、夏緒里のバカぁぁ〜〜〜〜!!」
渋谷駅は大きいのでホームに散在する利用者たちの視線を掻っ攫うには十分なものだった。
俺は二人から一歩、もう一歩と距離を取った。
副部長はのほほんと二人の様子を眺めているが俺にはそんな心の余裕などなく、電車が早く到着しないか今か今かと待つ他なかった。
※
現実にある目黒の店舗は現在閉店しています。




