1-3
顔を洗い終えたのはいいが、どこかサッパリとしない。
バシャバシャと音を立てながら勢い良く洗ったが、イマイチ後味が悪い。それでも冷たい水で何回か顔に鞭を打ったのだし、少しはシャキッとしているはずだ。
スッキリしないのは主に二人が原因。朝っぱらから馬鹿な二人の姉がわーわー騒いで、ついさっきまでの出来事だが思い出すとイライラが増す。
とりあえずリビングに行こう。美沙貴と玲姉さんのせいで余計なカロリーを消費してしまった。いい具合に腹が減った。
冷蔵庫の中に何かしら入っているだろう。
◇
無駄に長い廊下を歩き、扉を開けるや否や、
「あぁぁーー、拓弥っ!」
また一人、女が声をかけきた。残念なのことに我が家には女が多い。
その女というのは、玲亜姉さんではない。美沙貴でもない。声は二人のものと比べるとどこか子供っぽくて、アニメ声と表現すれば適切だろうか。少し癖のある声が木霊した。
「茉奈姉さんか……」
「こら拓弥! 弟なのにお姉ちゃんのことをいじめちゃダメでしょ、めっ!」
茉奈姉さんは背丈が低く童顔なので、美沙貴や玲亜姉さんと比べても子どもっぽく見える。上から数えて三番目の姉だ。
その茉奈姉さんが、意味不明にぷんすかとしてらっしゃる。
「 いきなりなんだよ、俺がいつ茉奈姉さんのこといじめたんだよ」
「違う違う、私じゃなくって!」
よく見ると、その場にいたのは茉奈姉さんだけではなかった。
それにぬいぐるみに抱きつくような形で絶賛行方不明中のはずの美沙貴がいたのだ。
追っ払った後に家を出たか、もしくは自分の部屋に戻っていたと思っていたのだが、まさかこんなところにいたとは。
「うえぇぇーーーーんん!!」
「ほらっ、なんかこの……ね、いい感じに泣いちゃってるでしょ?」
俺の位置からは美沙貴の泣き声のみが聞こえて、肝心の本人の顔は茉奈姉さんに埋まってて確認できない。
「……涙見せろ」
「…………うおぉぉーーーーんん!!」
「なんだよ今の間は? 微妙に泣き方変わってるし」
相手にする必要もないので、リビングの奥の方にある冷蔵庫を目指すことにした。
「まさかのスルー!?」
「酷いよ拓弥! アタシ、拓弥のせいで泣いてるんだよ!?」
なんか雑音が聞こえて来たな。しかも二匹分。我が家はセキュリティはしっかりしてると思うが、念のため時間があるときに海外にいる両親にでも相談しようか。
話は変わるが、現在地から冷蔵庫までの距離がそこそこあるから面倒だ。リビングとダイニングが合わさった広い空間になっていてその奥の方にキッチンがある。ここに入るのに出入り口が二箇所あるのだが、冷蔵庫から距離のある方から入ってしまった。
あそこまで何歩だろう、なんて家の中だし考えたことなんてないが、手を伸ばして届く距離じゃないから面倒だ。
「おーい、拓弥やい……拓弥やぁぁーーい!」
てくてく歩いていると後ろから謎の呼び声が聞こえてきたが、この家にも霊が棲むようになったか。デカいし、霊の一体や二体いても邪魔にならいない……がそれはあくまでも物理的な話で、というより霊に物理的とかあるかわからんし気持ち悪いからお祓いでも依頼しようか迷う。
一つ語るなら、美沙貴はぜんぜん泣いていない。茉奈姉さんは今日は黒色の服なのでわかりにくいが、抱きつかれていたのに涙で濡れた痕跡が見られない。
「さて、何か食べるものは……」
冷蔵庫たでたどり着き、中を漁る。
朝食だし適当に軽いものを摂れれば満足だ。というより、ここに長居したくない。
「こらこら、無視すんなし!」
いつの間にか美沙貴がすぐ近くに立っていた。案の定涙一つ溢れていない。
リビングにはL字型の大きなコーナーソファがあり、美沙貴たちは腰はかけていなかったがその前に立っていた。
相手にするつもりなどなかったからそれを無視して冷蔵庫まで直進したのだが、ガサゴソと中を漁っているうちに近付いていたらしい。
「朝食の邪魔しないでもらえるか」
我が家では昔から世話になっている家事代行業者が食事を用意してくれることが多く、冷蔵庫の中を確認すると食べ物や飲み物が補充されている状態になっているので、こうして朝になって適当に漁っても何か食べるものが出てくるのだ。
今取り出したこのゼリーも、その例に漏れない代物だ。
「あっ、ゼリーだ。いいなぁ〜、私も食べたいな」
「食えばいいだろ。家事代行の人、多めに買って入れておいたみたいだし」
「えぇー、拓弥が取ったやつが欲しいな。三百円あげるから!」
「美沙貴より百円安いし」
姉なのに、なんならこの人はもう完全に社会人なのに微妙なところでケチだな。
俺が手に取ったのは透明なゼリー状の物体の中に丁度良い大きさに切られたフルーツが入っているタイプのもので、所謂フルーツゼリーと呼ばれるものだ。同じ物が冷蔵庫の中に多数入っていた。
そして茉奈姉さんは我が家で一番の食いしん坊だ。家事代行の人が多めに入れてくれてるの、たぶんこの人のせいだ。
「たくっ、ほらよ」
冷蔵庫からフルーツゼリーを取り出して二つ取り出し、そのうちの一つを差し出した。
「わーい! 拓弥ありがとう!」
受け取った茉奈姉さんは無邪気に喜んだ。本当に子どもっぽい人だな。
この人は食べることが何より好きなので、こうして冷蔵庫の中にある食べ物を取り出して目の前に置いてやるだけで大喜びする。
ちなみに甘いものより肉が好きだったりする。
「ねえ拓弥、私の分は?」
茉奈姉さんにかまっていたせいですっかり美沙貴の存在を忘れていた。随分とキョトンとした顔で訊ねてきた。
「ないけど。てか、ゼリーとか食える生き物なの?」
「食えるしっ! 茉奈ちゃんだけ拓弥に手渡されてズルいじゃん、不公平だよ!」
このようにうちの姉妹たちは基本的にちゃん付けで呼び合ったりしている。さらに余談を重ねると、俺は姉たちのことは『姉さん』と呼ぶが、美沙貴だけは呼び捨てにしている。
理由は、なんだろう……一番年齢が近いから? ということにしておこうか。
「不公正って言われても、茉奈姉さんもゼリー食べたいって言い出したから取って渡しただけだけど」
「なら私も食べたいです」
「食べれば」
「食べればって、どうして私にだけ冷たいのよ!? 私にも持って来てよ、五十円あげるからぁ〜!」
「一気に下がったな!?」
この場合の五十円が高いか安いかまったくわからんけど、五千円くらいもらっても美沙貴に親切にするのは嫌だとハッキリわかる。五万円なら考えるけど、生憎金には困ってない。
「私も食べたい食べたいーーーー!! 手渡しされたやつプリーズゥゥゥゥーーーー!!」
ついに駄々をこねはじめやがった。弟相手にこれはウザい、だから好きじゃないんだよコイツ。
「朝からギャーギャー騒ぐなよ……」
「自分だけ特典もらえなかったお渡し会とかあり得ないじゃんっ!?」
「その場合ルール守らないでギャーギャー騒いでる迷惑なやつ追い出すのが正解だよな?」
言い返したら、美沙貴はばつが悪い顔をして項垂れた。
あんなにうるさかったのに、まさか経験があるのか……。
「拓弥、美沙貴ちゃんにも取ってあげたら? 一円あげるからさ」
「もはや意味ねぇだろそれ」
ただ面倒なので、不本意であるが茉奈姉さんの言う通り冷蔵庫を開けて同じゼリーを取り出した。
無言で差し出すと美沙貴はパァッと笑みを広げて、
「いいの!? グヘヘへ……ありがたやありがたやぁ〜〜」
____キモい。
その一言に尽きる。
喜び方が実に気持ち悪い。
弟からゼリーを受け取っただけでよくそんな気持ち悪い顔が出来るものだ。キモい顔芸の大会でもあれば一度エントリーしてやろうかな、本人に内緒で。
「ありがとね拓弥、大好き!」
「ただ冷蔵庫の中にあったゼリーを渡しただけだろ、気持ち悪い……」
「いやいや、だって拓弥が私のためにゼリーを取ってきてくれたんだよ! 嬉しいに決まってるやんけっ!」
「元々俺が食うつもりだったんだけどな」
こういう馬鹿な女が、たとえばなんの変哲もないそんじょそこらにありふれてる普通の物なのに推しが触ったらとか推しと同じやつだとかでアホみたいに札束ポンポン出して自滅すんだろうか……。
そんで金なくなって困って、夜食に身を堕とすってオチか。美沙貴も一応身内だからそれはなんか嫌だな。
「……拓弥、なーんか失礼なこと思っちゃったりしてない?」
「いや別に……てかさっさと食えよ」
そもそもここに来た理由が朝食を摂ることだった。まさか姉二人と同じものを食べることになるとは思っていなかったが。
ゼリーが入った容器のフタを開けようとしたとき、
「おかわり!」
と、無邪気な声がした。
「……は?」
「いや、おかわりだよ! おかわり」
茉奈姉さんの方を見ると、驚くことにゼリーの容器が空になっていたのだ。
さらに驚くことに、いつの間にか空っぽの容器を持った方とは逆の手には小さなスプーンが握られていた。この人、常にマイスプーン持ってるんか。
「さすがに早えだろ!? 掃除機かよ!」
「むっ、失礼な! ゼリーマシマシにしたいだけだよ」
「うちは二●じゃないですが」
「●郎系ならわたし豚●の方が好きかな」
「……もしかして最近炎上してた●山の女の客、姉さんなのか」※
「むむっ、なんて失礼な! あたしなら全部食べるもんっ!!」
「食うんかい!」
この茉奈姉さん、背丈だけで言えば我が家でも一番低い。でも食欲は一番ある。二●系でトッピングを選ぶときに野菜やら脂やらをマシとか、それより多くマシマシとかにできるが、この人それを普通に食うんだったな。
「冷蔵庫にゼリーたくさんあるんでしょ? 家事代行の人が多めに入れてくれたのってわたしのためじゃん!」
「あっ、自覚はあったんだな」
「いやーね、実は昨日お仕事で夜ご飯を食べる時間なくてさぁ〜、ぐへへ……」
「何が『てへへ……』だよ。まあ多めに入ってるけどよ」
「……もしかして拓弥も食べたいの? しょうがないなぁ〜、じゃあゼリーのフタのとこに付いてるの舐めていいから、下の方はわたしが食べるね」
「ぼぼ100パー姉さんの腹の中に行くじゃねーか! そんな分け方初めて聞いたわ」
「平等は絶対じゃなくて相対的って偉い人が言ってたもん!」
「平等を語る女って●●だな」
「ちょっ、なんてこと言うのよ!? 拓弥、今みたいなことSNSで書いたら絶対にダメだかんねっ!?」
「もちろん言わねえよ。自分の姉だから言ったんだよ」
「なんかそれ嫌だしっ!!」
そりゃ今ここには俺たち三人以外いないんだし、つまりこういう限られた場所で何を発言しようが世間に知られるはずがない。
姉に対する大胆な暴言は弟の特権。
「……ねえさ、茉奈ちゃん」
美沙貴が怪訝な顔を茉奈姉さんに向けていた。
ちなみに手にしているゼリーはまだ開封すらされていない。
「ん? 何かな」
「いや、茉奈ちゃんはさすがに控えた方がいいんじゃないかなって。だって事務所の人に最近怒られたんでしょ?」
今度は茉奈姉さんが美沙貴の言葉にばつが悪い顔をした。
「たくさん食べて少しぽっちゃりしたとかどうとか、言われたんだよね?」
「……うっ、うぅぅぅ………!!」
茉奈姉さんがその場で震え出して、それを見た美沙貴は「あっ」と口を押さえた。
どうやら悪意はないようだが美沙貴の発言は茉奈姉さんにはグサッと刺さる刃物のように鋭利だったみたいだ。
「うぅぅ、ひどい、美沙貴ちゃん、ひどいよっ!!」
「いやっ、今のはね、アレだよアレ! ついうっかり口が滑ったというか」
うっかりならそれは本心ってことになると思う。フォローするなら美沙貴は指摘のつもりだったのだろうが。
「美沙貴ちゃんのばかぁーーーー!! うわぁぁぁぁぁぁぁーーーーん!!」
「ええっ、ちょ、待ってよ!!」
涙目になってその場を後にした茉奈姉さん、それを慌てて追いかける美沙貴。二人が嵐のように去ってゆき、広いキッチンは静寂を取り戻した。
「……ゼリー、食べるか」
嵐の後の静けさの中、手にしていたゼリーが少し温くなっているような気がした。
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