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【二〇XX年 四月二十日 月曜】
東京都 世田谷区代田 稲本邸
高校生活がスタートして、まあまあ日数が経った。
それなりに新しい顔を覚え、それなりに良いスタートを切れたと自己評価する。
今日は月曜日、一週間で最も憂鬱とされる日。
俺たちはまだ学生なので、あまり気にしないが。
電源を入れていないパソコンのモニターを端に寄せ、勉強机にはノートと筆記用具、それとブラックコーヒーを注いだ白いマグカップが置かれている
淹れたのがもう二十分前なのですっかり冷めてしまっているのが残念。握っていたシャーペンをノートの上に乱暴に置き口の中に流し込む。
自分でいうのもなんだが、性格は真面目な方だ。
だからこうして日常的に予習復習は行なっている。
四月 二十日を迎えてまだ十五分しか経っていない。
繰り返すが今日は月曜日、つまり学校がある日だ。この国ではたとえ大雪が地面を真っ白に染めようが、ミサイルが飛んで来ようが、平日に学校や会社を休みにすることをタブーとしている。
俺はまだ高校生、俗に言う社畜とは程遠い存在だ。だから彼らの苦しみは理解できないが、学生でも日曜日から月曜日になることを必要以上に恐るやつは多い。
勉強もキリの良いところで終え、下に降りてカップを洗おう。それからトイレにも行きたい。
夜にコーヒー、尿意を感じてしまった。
勉強の休憩にコーヒー、安直だったかもしれない。
ちなみに我が家にはすべての階にトレイが設けられている。海外にいる母のこだわりで、完璧なトイレがある家に住むと幸せになれるからと言っていたな。中等部時代、本人に真っ向から否定したら涙目になっていたのを思い出す。
反抗期、という一言で済む話だ。
そんな母も、現在は父親と主に海外で生活しているわけだが。
こんな大豪邸に住めて、金銭面では何一つ不自由がないのだ。両親は変わった人物だが、感謝しよう。
一階まで降り、まずは尿意が限界に近く付いていたのでカップは適当な場所に置いてトイレに入る。
すべてを出し、ドアを開けて、静かに閉める。
ちなみに我が家のトレイは手洗い場が中に設置されている。金がかけられているだけあり、ホテルのように常に綺麗な状態に保たれている。家事代行業者の努力だ。
あとはカップを洗って部屋に戻るだけだが、何やら音が、そして声がする。
深夜にそんなものが耳に入れば、ホラーの世界の始まりだ。
一定のリズムで韻を踏み、軽快に心地良く何かを呪文のように唱える柔らかい声だ。
当然女の声だ。
この家には俺以外に男はいない。
今日、我が家には五人の姉たちのうち三人が留守にしている。俺にとってはありがたいシチュエーションだが。
明日夏姉さんと杏香姉さんだが、深夜のラジオ番組の収録があるとのことで今夜はここにいない。仕事が終わったあと共通の友人の家に泊まり、そのまま朝から別の仕事があるらしい。
流石は売れっ子声優だ。
ちなみに姉たちが出ている番組だが、聴かない。聴いたこともない。
次に玲亜姉さんだが、彼女もアイドル声優としてそれなりに忙しい身で、何故か岐阜にいる。
岐阜で自身が出演するアニメ作品のイベントがあり、それが昼と夕方の二部構成だとか。岐阜県を舞台にした作品のようで、イベント終了後はホテルに泊まると連絡を受けた。
残念なのが、ビジュアルは確かに良いが今宵もこの世田谷の地で過ごす美沙貴だ。
キャリアが浅く、加えて事務所の都合なのか、大きな仕事がないから、日曜日は朝から晩までずっとネットゲームをしていたらしい。
ありがとう、そのネットゲームを運営している人たち。
あなたたちのおかげで、俺の日曜日は守られた。
つまり、今リビングの方から聞こえる物音と気配の正体は、自ずと絞られる。
◆
「まな、まな、まなっち〜〜♪ まな、まな、まなっち〜〜♪ みなさん、お待たせしましたぁー! 今回でなんと四回目です。 いやぁー、あっと言う間に四回ですよ。これも応援してくれみんなのおかげだねっ! てなわけで《唐揚げのまなちゃんねる♪》はじまるよぉーー!」
「…………茉奈姉さん、何してんだよ」
「わわっ!? た、拓弥!?」
テーブルの上に置かれたノートパソコンの画面が放つ光、灯された薄暗いリビングルーム、ぶつくさと何かを語っていた一人の姉に俺は問うた。
「ちょちょっ、何これーー!? 親フラならぬ弟フラとか恥ずかしいぃぃ〜〜! 撮影中止!」
姉さんは慌ててそう言い、パソコンを折りたたむ。
見られてはいけないところを見られてしまったと顔に書いており、しかもその相手が弟ということもあってか、気まずそうにして俺から目線を外す。
「こんな夜中に一人で何してやがった」
「いや、これはその……拓弥こそこんな時間にどうしてここにいるの? 良い子は歯を磨いて寝ないとアカンやろがい!」
「良い子だからさっきまで勉強してたんだよ。で、そろそろ寝ようと思って使ってたマグカップを洗おうとしたんだけど、まさか一人でパソコンの前で怪しいことしてる姉の姿を目の当たりにするなんてな」
「は、はぁ!? たたた拓弥ってば何言ってんの!? 私はその……夜のパソコンチェックしてただけですもん……」
手をグーの形に丸め、しかし人差し指だけを伸ばし左右のそれの先端をツンツンと合わせ、鋭い槍の如く迫る俺の視線からまた逃げる。
しかも、顔はマスクとサングラスで覆われている。
俺が知る限り茉奈姉さんは花粉症を患っていないし、普段サングラスを愛用していない。
「……自分で言うのもアレだけどさ、夜のパソコンチェックってなんかエッチな響きだよね」
「エロ動画でも観てたのかよ、引くわ……」
「違うしっ! 二次元でエッチなのはちゃんと自分の部屋でスマホで観るもんっ!!」
「観るんかい、わざわざ言うなし……。じゃあ何をしてたんだよ、変な歌とか歌ってたけど」
広く暗いリビング、深夜に自分の姉の怪しげな様子を目の当たりにしてしまった。
怯えた子犬のように頬をプルプルと震わせ、決心がついたのが茉奈姉さんは口を開いた。
「そのさ、レビュー動画的な……」
「は?」
「だから、動画サイト的な媒体にレビュー動画を、ね。あははっ……」