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【二〇XX年 四月七日 七時半】
東京都 世田谷区代田 稲本邸
春の木漏れ日が都内を、いや関東地方全域を焼き尽くしている。
暖かいというより、暑いという表現が適切と思う。
たまたま観たニュース番組、それに出ていた甲高い声のアラサーアナウンサーと胡散臭いコメンテーターも口を揃えて今日は暑いですよ、と騒いでいた。
耳障りながらなんとなく動画サイトのLiveでやっているニュースを眺めていた。
時刻は朝の七時半。
画面左上にそうデジタル式で表示されているので間違いない。
平日のこの時間、社会人なら仕事へと向かうため身支度をして家を出る時間なのだろうか。
だが、俺には関係ない。
まだ学生という身分だ。俺も明日から、高校生だ。
別に何か大きなものを期待しているつもりはない。新しい生活には期待と不安の両方を抱くものなのだろうが、どちらかといえば期待は薄いかもしれない。
それでも、何事もなく、平和的に高校生活を過ごすことが出来れば良いと考えている。
これでもギター弾きなので中等部までと同様に練習に励み、そこそこ友達も作って、勉強も頑張って、そういう普通の生活ができればお腹いっぱい胸いっぱいだ。
それが始まるのは明日からだ。
今日で春休みは終わる。社会人には羨ましかろう休暇期間も今日で最後だ。
雑音と化したLive画面の時刻を見る。ぼおっとしているうちに十五分程度時間を消費したらしい。たまにはこうして無駄に過ごすのも悪くはない、かな。
窓越しに、暖かい日の光と眠気を誘う匂いが俺を包む。
____眠い。
とにかく、眠い。
今最も満たしたいのは眠る事への欲望、つまり睡眠欲なのだ。その欲を満たす方法はただ一つ、眠ることに他ならない。
故に、再び布団の中へともごもごと入り込むことは自然の摂理というやつだ。この耳には雑音でしかない配信の朝の番組は消し、窓越しに感じる春の日差しの優しい温かさときたらたまらない。やわらかな羽根に包まれているような気分だ。
俺の眠りをより深く快適にしてくれるのにこれ以上適したものはないだろう。本気でそう思える。
瞼を閉じる。あとは自然と夢の中へ誘われるはずだ。身を委ねるのだ。
が、これを邪魔するかのように部屋の外から物音がするのだ。
何かが、大きく聞こえてくる。耳障りでならない不快な音である。俺の部屋は、というよりもこの家の部屋は防音加工がされているはずなのに、何故階段を駆け上がる足音が部屋の中で今から眠りにつく俺の耳元に届くのか。この大豪邸、欠陥住宅などではない。何処ぞのホラーだよ……。
軽快なリズムを刻むそれは、確実に俺の部屋へと近づいている。足音のようなそれは大きくなるにつれて音と音との間隔が広がっている。そして、やがてそれはピタリと止まったの如く消え失せた。
ほんの数秒前までやたらうるさく聞こえていたというのに静寂に変わる。やけに静かだ。気持ちの悪いほどに物音一つせず、窓の外で鳴く小鳥の声が怪鳥の劇的な叫び声に感じる程だ。
この静寂を俺の方から破ることなどしないししたくもない。理由は一つ、それを破るのは向こうからだからだ。
「拓弥、朝だよぉーー!!」
やたら語尾を伸ばしトントンとノックをしながら俺の名前を呼ぶ女子の声が聞こえる。
十六年の人生の中で幾度となく聞いた声だ。ゆえに、声の主が誰かなど考えるほどもない。
また数秒の静寂が続き、それを再び声が破る。
「拓弥、朝だよ。起きなよ」
声とともにノックの回数が多くなった。この声の主は余程俺の二度寝を妨げたいと見える。俺に何か恨みでもあるのか。
頼むから俺の二度寝を邪魔しないでくれ。
普段はなるべく規則正しく生活しているのだ。今日という日くらい二度寝をしても神様は許してくれるはずだろう。俺マジいい子ちゃん。
「ちょっと拓弥、起きなさいよ! ねえ、拓弥ったら!」
ノックがより大きく強くなった。
ムカつく……寝たいのに。起こしたところで一体どうなるのだ。朝食なら少し遅くに摂っても差し支えない。場合よってはそれ昼食と呼ぶこととなろうが。
布団に身を包む。身体だけではなく顔もそれに包む。耳栓ではないが、少しは外部からの音を防げると思っていたがすぐに無駄であると理解した。
「ちょっと拓弥、無視しないでよ。てか起きてるでしょ、ねえ、拓弥!!」
本当にうるさい女だな。
でも、扉を開けて追っ払うのは面倒だから嫌だ。そのうち消えるだろう。
「せっかく愛しのさっちゃんが起こしに来てあげてるのに、無視するだね。ふ〜ん……そうかそうか。そっちがその気なら____」
自分のことをさっちゃんと呼びやがる痛い女が発する忌々しき声が細かに届き、扉の向こうで何やら良からぬことを起こそうとしている予感がした。
「おりゃーーーー!!」
「ッ!? な、なぁぁーー!?」
眠気がすっ飛ばされた。
扉を蹴破って突入してきたのだ。
一つ、ミスを犯していた。扉には鍵があるが、どうやらこの日に限って忘れていたようだ。
包んでいた布団を投げ出して思わず驚きの声を上げてしまう。目の前にはしてやったりな顔で俺を見下ろす華奢な身体の女が一人。
「やっぱり起きてた! おっはよ、拓弥」
謝罪はせず、可愛い子ぶってウインクしてくる。この女、確かに容姿には恵まれているだろうが、弟的には可愛いと思えない。思っちゃいけない。
年齢は二つ上。
二度寝を派手に邪魔しやがったんだ、この姉を一発ぶち込んでやっても罰当たりではない、と思う。
「おはよう……じゃねぇよ! 朝っぱらから一体何してくれてんだよ、美沙貴!?」
美沙貴に向かって声を大にして怒りを露わにする朝など、誰も望んではいないのだ。
美沙貴とは、この女の名前だ。
俺は普段からこの女のことをそう呼んでいる。血の繋がりのある姉、でも姉と思ったことがないというか、敬うべき対象と思えない。
「可愛い可愛い弟をわざわざ起こしに来てあげたんじゃない。アニメとかラノベでまあまあある展開でしょ?」
まさかの返事。
期待はずれから呆れかえってしまう。
まず謝れよ、まず。
あと俺、アニメラノベそんな詳しくない。
「……起こしてくれと頼んだ覚えはない。それに、起こすんなら普通に起こせや……弟の部屋に不法侵入すんなや」
「もうっ、朝一から可愛いお姉ちゃんが部屋までやって来たのにさ」
「まず謝れや。鍵かけてたつもりだったけど……くそっ」
「んじゃー拓弥が悪い! 拓弥ちゃんが悪いんよ!」
「チッ、朝っぱらから最悪だよ……」
「ひどい! 私は朝から拓弥の顔を見れて悪い気なんて全然しないのに」
ウザい。
とりあえずこの姉を黒子同然にシカト決め込んで、部屋を後にしたい。しかし、この女が俺の部屋にいたままでは困る。俺の部屋に朝っぱらから突入して来る奴だ、何か変なことさせたら嫌だ。
「……いつまで俺の部屋にいる気だよ。さっさと出てけよ」
「えぇぇ〜、なんで? 別にいいじゃない。拓弥が春画持ってても勝手に見たりバカにしないから! 五百円あげるからもうちょいここいたいー!」
「春画がこの部屋にあると思うんか……いいから出てけよ! 何か変なことされそうで俺としては不安なんだけど」
「お姉様を信じなさいよ! 四百円あげるからさぁ〜」
「百円値下げした理由は……」
「●民党のせいです」
「そうか、金持ちでも贅沢言えねぇ時代なんだな」
両親のおかげでこんな大豪邸で衣食住を満たせるんだから、本当に感謝しないといけないな。
では海外にいる両親を思いを馳せたところで、ちょっとこいつに意地悪を一つ……。
「なあ、美沙貴」
「へいへい、なんじゃい?」
「……落ちたらしいな」
「へっ……?」
「だから落ちたらしいな、オーディション」
美沙貴は俺より二つ上、高校三年だ。そして一般人と立場が違う。
学生であるが同時に仕事もしていて、オーディションを受けることが多い立場だ。
それに落ちた、という話を耳にした。
「……な、なんだしっ!? お姉ちゃんに向かってそんな言い方しなくてもさ……いいんじゃないの!? 拓弥のばか……うわぁぁぁぁん!!」
三文芝居を打ってようやく出ていった。
よかったよかった、とりあえず俺の今朝の物語はハッピーエンドだ。
一つ言うことがあるなら、オーディション落ちた理由がその三文芝居にある気がするぞ。
今の出来事を撮影してモニター越しの十人くらいの人間にアンケートでもしたら、きっと十一人が美沙貴に非があると回答してくれるに違いない。
一人増えちゃった。
「はぁ……とりあえず顔を洗うか」
晴れ晴れとした春の陽気、そんな外の様子とは対照的に俺のため息はまあまあ重かった。
とりあえず己の身体に鞭を打って、洗面台へと向かうことにした。
朝は始まったばかりだが、何故こうも疲れてしまうのだろう。
今日という日は、始まったばかりだ。