96-大星の不在
貸し借りにうるさい男の名前を劉進にしました<(_ _)>
「わっちに、魔法を教えていただけませんか」
それを聞いて、蔵人はのそりと身を起こした。
「……意味を分かって、言ってるのか?」
「はい。流拳が得られなくなるのも、知られれば国に管理されるのも。ですから、こっそりと」
美児が悪戯っぽく微笑みながらも、真っ直ぐに蔵人の目を見返した。
蔵人はわずかに視線を外しつつ、さらに問う。
「なぜ、魔法を得ようとする」
「わっちが茶館に妨害を受けているのはご存知かと思います。色を売らずに芸を売るとつっぱって生きてきましたが、しょせんははぐれ者。今までは何とかやり過ごしてきましたが、茶館が少し本腰を入れれば方々に迷惑をかける始末。かといって日々の稽古もあり、流拳の修行をするような時間はありません。言い方は悪いですが、魔法ならば手っ取り早く力を得られると聞きました」
美児は姿勢を正し、蔵人に頭を下げた。
「すぐにでも、力が欲しい。己や宵児を守れるだけの力が。それには、精霊魔法や命精魔法しかありません。どうか、お願い致します」
蔵人は美児の下げた頭にある白樺の枝にも似た鹿角と小さな鹿耳を眺めながら、大星や閻老師が教えてくれた流拳の概要を思い出していた。
流拳には四段階ある。一つ目は、先人たちが長い修練の中で目に見えぬ『流れ』を形にした『套路』と呼ばれる型を繰り返し、周囲の流れを感じられるようになること。
そして周囲の流れを感じられるようになったら、二つ目。套路に沿って動き、現象を起こすこと。大星ならば襲いくる敵を全て巻き込み、受け流すかのような不可視の水流を、閻老師ならばまるで岩を纏っているかのような頑健さを、玉英ならばまるで蝶のように軽い身のこなしを。決して実際の水や岩を用いているわけではなく、疑似的な水や岩を発生させていた。
それが出来たら三つ目。自由な動きから現象を発生させること。同時に天然の命精強化者である天拳に至るための修練も積むため、ここに至るまで十年以上はかかると言われていた。
四つ目は奥義とされ、『流れ』との完全融合すること、であるらしい。ようするに精霊と完全融合するのだと思われる。詳しくは教えてくれなかったが、一度発動すれば流れそのものとなり、流れと同質の自然現象をある程度無効化する。
蔵人は知らないがこの奥義、一度発動させると純粋な人種では三割ほどしか人に戻ることができない。つまり七割が死ぬ。そして二度目を使えば、残りの三割も間違いなく死ぬ。
ミド大陸の侵略を跳ね返しながらも、ミド大陸側を逆に侵略せず、国交を保っているのはこのような理由があった。侵略を防いだからといって、決して余裕があったというわけではなかったのである。
そして美児の言うとおり、精霊魔法や命精魔法は魔力さえあれば習熟は比較的容易であった。
美児は顔を上げ、付け足した。
「――それに、黒陽を洗えますし」
芸女としての凛とした仕草に、ところどころ挟む茶目っ気のある笑み。芸女としての術なのだろうが、抗いがたい魅力がある。
蔵人はさらに問うが、もう答えは決まっていた。
「……獣人種は特化した精霊が一つ、人によってはもう一つ普通に扱える精霊がある程度だと聞く。決して精霊魔法が得意な種ではない。黒陽を洗えるほどに水精の親和性があるとは限らないし、光や闇といった直接的な力に乏しい精霊もある」
仮に光と闇の親和性が高かったとしたら、精霊魔法を覚える意味がないかもしれない。
美児は柳眉を寄せ、少し困ったような顔をするが、そんな顔までさまになっていた。
「……ただ、内系の命精魔法である自己治癒や身体強化には優れる。端的にいえば怪力で傷も治りやすくなる。まあ反面、外系である他者治癒や障壁は苦手らしいがな」
蔵人は以前ヨビを鍛えたときに聞いたことを、実感をまじえて説明した。
「それと最後に、精霊魔法の覚醒には多少なりとも危険がある。最悪、命を落とす。それに、最初はしばらく痛みを伴う。それでもやるか?」
「――それでも、無力なままよりは」
美児はまっすぐに蔵人を見つめた。
「……精霊魔法は公に使うな。ここぞという時の反撃だけにしたほうがいい。人の目もあるし、対策をとられると流拳相手には脆そうだ。日常的に使うなら身体強化にしておけ。――こっちに背を向けて座ってくれ」
美児は蔵人を疑うことなく、背中を見せて座った。
蔵人はピンと伸びた、無防備な背をまじまじと見ながら、肩に手を置いた。女の体温がじわりと伝わってくる。
「――精霊、いやこちらでいえば流れか。それを感じろ」
感じろと言われて感じられるなら、流拳の使用者は爆発的に増えている。
「……わかりません」
「まあ、当然だな。俺も分からなかった。だが、それでいい。感じられなくてもいいから、そこにいると、現象を引き起こしてくれる何かがいると想像し、信じて、現象を唱えろ。光でも、水でもなんでもいい」
美児は蔵人の言葉を疑うことなく、信じた。
「――水よ」
現象は起こらず、美児は突然糸が切れた操り人形のように、身体から力が抜け、倒れそうになった。
すぐに背後の蔵人が支えると、命精魔法で美児の命精に働きかけた。
美児は空気中の精霊にほぼ根こそぎ魔力を吸われた状態にあり、それを蔵人が外部から補っていた。
これが、ミド大陸全域で一斉に精霊魔法に目覚めた初期覚醒者以外の精霊魔法の覚醒方法であり、必ず補助者が必要だという所以であった。この方法が確立されていなかった頃は少なくない数の犠牲者が生まれていたという。
最初に完全枯渇させるのは精霊に魔力を吸われることにより精霊の知覚を促すというのが目的であるが、完全枯渇の危険性を教えるという意味合いも含まれていた。
では、召喚されたときに蔵人が一人で行った精霊魔法の覚醒は危険であったのか。
本来は極めて危険であるが実のところ、危険ではなかった。
この世界の生きとし生けるもの全ての生命維持には、命精が生み出す生命力が深く関わっている。しかし蔵人を含めた召喚者たちは地球出身であり、生命維持に魔力を必要としなかった。
蔵人たち召喚者はこの世界に召喚される際、身体に命精を宿らせた。
命精の役割は生み出す生命力の半分を生命維持に、残りの半分を余剰生命力、いわゆる魔力として体内にため込んでいる。この割合は修練により命精が生み出す魔力が増えたとしても永遠に変わらず、仮に百から百二に総生産魔力量が増えたとしても、生命維持に五十一、余剰生命力に五十一となる。
それは生命維持に魔力を使用していない召喚者たちも例外ではない。命精とはそういう性質を持つ存在であった。
だが蔵人はアカリに教えられるまで、魔力を完全枯渇させては命に関わると気づかずに千回以上、完全に魔力を枯渇させた。
結果、地球産の蔵人の身体とこのエリプス産の命精のズレが少しずつ修整されていき、生命維持に使用する生命力の割合が減って、余剰生命力(魔力)の割合が増えたというのが、蔵人の魔力量の多さの一因である。
他にも、完全枯渇による魔力量の増大幅が枯渇一歩手前でやめる修練方法よりも大きいことや、召喚直後の、生まれたての赤ん坊にも等しかった命精に対して魔力の完全枯渇を繰り返したことによる成長率の増大も関わってた。
現在の蔵人は、生み出される生命力の割合が百だとしたら、七十五近くまでを余剰生命力、いわゆる魔力として使用している。
これらは蔵人自身も気づいておらず、召喚されてすぐに学園で魔力の完全枯渇による危険性を教えられた他の召喚者も知らないことであった。
蔵人は横たわる美児の肩に触れたまま、命精が求めるだけの最低限の魔力を供給していた。それい以上は、美児の命精が抵抗して送れないのだ。
蔵人は横たわる美児を見つめる。
暗闇で、僅かな明かりに照らされてぼぅと浮かび上がっているような美児は、呼吸のたびに胸がゆるやかに上下していた。
命の心配はなさそうだと蔵人は初めての精霊魔法の覚醒成功にほっと胸をなでおろしていた。難しいことでないが、初めてのことというのは緊張するものである。
「……さて、どうするか」
蔵人は眉根を寄せる。
美児はいつものように身体の線がはっきり浮き出たモンゴル風民族衣装を着ている。
呼吸のたびに大きすぎず小さすぎない胸が上下し、強調されていた。
いつものようにガン見していいものか、いや意識のない相手にそれは下劣すぎやしないか。
蔵人はそんなくだらないことに懊悩していた。
雪白が馬鹿馬鹿しいと大きな欠伸をし、妙に静かだったアズロナはすでに眠り込んで雪白の尻尾に齧りついている。
苦悩の末、蔵人は決断した。
惜しいと思いつつ、美児から視線を外す。
が、呼吸音がどうしても気になると、チラ見した。
実に、くだらない決断であった。
しばらくして、蔵人の補助もあってか目を覚ました美児。
「お手間をかけしました。――痛っ」
美児がこめかみを押さえた。白い指には硬くなった肉刺があった。その美しい容姿からは想像がつかない酷使された指は、美児の洗練された仕草もあって生々しい色気があった。
「……今のが完全枯渇だ。基本的には、するな。一歩間違えれば死ぬ。普段の修練では頭痛や関節痛があったらそこでやめろ。そこでちょうど魔力が枯渇する少し前くらいだ。精霊は、感じられたか?」
「……はい。まるで深々と降り積もる小さな雪のように、感じられます。すごい、これが精霊。……水よ」
「あ、おいっ」
蔵人の制止も虚しく、美児は詠唱し、そしてあろうことか、成功させた。
美児の指からポタリと水がぽたりぽたりと湧き出ていた。
美児が一度で精霊を感じとり、さらには二度目できちんと精霊に意思を伝えて現象を発現させてしまったことに、蔵人は驚きと自身の才能のなさを痛感した。
美児の場合は馴鹿系獣人種の種族特性である、直感的に対象の身体や心の在りようを察知するというのが関わっているのかもしれないが、それにしても蔵人があの雪山の洞窟で火を発現させたのは十数回も詠唱を繰り返し、気絶したあとのことであった。
「次は、どうすれば」
美児が蔵人を見つめる。
いまさら才能につまづいても仕方ない。あるものでやるしかないのだから。蔵人は思考を切り替えて美児に精霊魔法、そして命精魔法を教えていった。
翌朝。遅くまで美児に魔法を教えていた蔵人は朝とは言い難い時間に目を覚ます。そのまま、二度寝しようとしたが、雪白が遺跡へ行きたがった。
アズロナがスパルタ特訓を思い出してプルプル震えているが、雪白はそれを否定した。雪白も前回の失敗から蔵人やアズロナの体調には気を使っているのだ。
単純に、自分が暴れたい。
ただそれだけらしい。
そんなわけで、今回の探索は雪白主導で行うこととなり、蔵人はアズロナを首に巻き、眠たげな目を擦りながら、意気揚々と遺跡へ向かう雪白のあとをついていくことになった。
美児と宵児は先に帰っていた。置手紙で失礼を詫びていた。
遺跡へ向かう道すがら、いつか高級な店で芸女を伴って絡んできた武芸者くずれが、一目でカタギではなさそうなチンピラを連れて待ち構えていた。
先を行く雪白を避けて、蔵人に話しかける。
「この間は追い出すようなことをしてすまなかった」
「……ああ」
蔵人にとっては関わりたくない類の輩である。詫びなんかいらない。近づいてくれなければそれでよかった。
「その詫びの意味でも、あんたが国に帰るまでうちで面倒みしちゃあくれねえか? 金は出ねえが、酒と食いもんと女には不自由させねえ。あんな身体も許さない芸女よりもっと良い芸女がいるぜ。……あんたも面倒事は嫌だろ?」
日本にいた頃の蔵人ならば、へえへえ言って従っていただろうが、今は違う。
「――美児や宵児より腕の良い、美人な、侠帯芸女がいるなら行こう」
蔵人程度に抱くことのできるトップクラスの芸女を回せるわけがない。それも侠帯芸女を求めるなど、ハナから誘いを受ける気などないということである。
蔵人の返答に、武芸者くずれは目を細め、周囲のチンピラは威嚇を始めた。
「……てめえ、美児に肩入れしてどうなるかわかってんのか」
最悪、国外に逃げればいい。後ろにどんな黒幕がいようと、この世界情勢ならば武芸者くずれたちが追ってくるようなことはない。そう思えば、気も楽であった。
「金を払って芸女を呼ぶ。俺がしたのはそれだけだ。それが、法に触れるのか? 出るとこでようか」
少し事情は違うが似たようなものである。あえて情報を与える必要もない。
「――ちっ、馬鹿にしやがって」
蔵人の話し方が気に食わなかったらしく、チンピラが一人、拳を振り被って襲いかかってきた。
蔵人は腰から武器を引き抜き、構える。
遺跡行きを邪魔され、心底鬱陶しそうな顔をして成り行きを見つめていた雪白がぴくりと反応した。
「舐めてんのかっ!」
武術の匂いがほんの少しだけするチンピラの拳をひょいと避けながら、蔵人は持っていた武器を振るった。
パンッと乾いた音が響く。
だが、チンピラに一撃が効いた様子はなく、濁った眼でぎょろりと蔵人を睨みつけようとするが――。
「てめ――ぐえっ」
チンピラはマヌケな声を出しながら、蔵人の視界から消えた。
雪白に、踏みつぶされていた。
蔵人が振るったのは、小型犬ほどもある濃緑色の塊のついた棒であった。
そう、悪魔の兵器もとい特大の猫じゃらしである。龍華人を相手に傷つけないで対処することを考えた蔵人が咄嗟に思いついて、後腰に差し込んであったのを使用したのだ。魔力を通さないとはいえ巨人の手袋で殴ってしまっては万が一がある。いまだに、手加減の出来ない蔵人であった。
雪白は蔵人を援護するためにチンピラを踏みつぶしたわけではない。特大の猫じゃらしに反応して男を踏みつぶしてしまったに過ぎなかった。
さすがに効かないか、と蔵人は特大の猫じゃらしを腰にしまうも二種類の視線に睨まれ、冷汗を流す。
一つはチンピラたちだが、それは最初からである。
もう一つ、冷汗の原因である鋭い眼光は雪白である。あの屈辱の夜を忘れてはいなかったらしい。
蔵人は武芸者くずれやチンピラなどよりよっぽど恐ろしい雪白の視線から逃げるように、身体強化を一気に施してチンピラたちの頭上を飛び越し、猛然と遺跡へ駆けだした。
突然驚異的な身体能力を発揮した蔵人に驚きながらもチンピラたちがそれを追おうするが、怒りに染まった雪白に睨まれると、まるで蛇に睨まれた蛙のごとく動きを止めた。
猟獣が人を傷つければ罰せられる。龍華国でもそれは同じで、もちろんチンピラたちもそれは知っている。だから猟獣が街中で人を傷つけることがないとも分かっていた。
だが、本能に訴えかける雪白へ恐怖に、足を止めざるを得なかったのだ。万が一、猟獣がこの場の全員を殺して海外逃亡してしまえば、死に損である。そもそも死ぬ覚悟などないのだからなおさらである。
雪白はふんっと鼻を鳴らし、駆けだした。諸悪の根源を逃がすわけにはいかなかった。
その、数秒後。
蔵人は踏みつぶされてから、胴体を尻尾で拘束されながら遺跡に連行されることになる。
「あづっ、引き、ずる、なっ」
ペタリと小耳を倒し、聞こえないといった様子で雪白はのしのしと小走りに遺跡へ向かった。
武芸者くずれとチンピラたちは金縛りにでもあったように動けなかった。
雪白が去り、真っ先に動いたのはやはり武芸者くずれの男であった。
「……おらっ、次だっ、次っ!」
子分どもの尻を蹴りあげる。
あれは、規格外である。なかったことにしたほうがいい。
武芸者くずれはあえて子分たちを叱らず、次の相手の元に向かった。相手はまだまだいるのだから。
猟獣に引きずられる探索者。
探索者ギルドの職員はそんな奇怪な光景に内心で驚きや呆れを感じながらも蔵人に声をかけた。
「蔵人さん、ですね。ハンター協会から連絡がありまして、至急来ていただけないか、と」
雪白はまた邪魔者が、と思いながらも蔵人を解放する。
「協会?」
「ええ」
探索者ギルドとハンター協会。共に冒険者ギルドだった頃の横のつながりはまだ残っていた。
「……行かなきゃまずいか?」
「ハンターとして活動する気がないのであれば無視しても構わないと思います」
蔵人は溜め息をつきながら踵を返す。
さすがにハンターをやめるつもりはまだなかった。
不機嫌そうな雪白を引き連れ、アズロナを首に巻いたまま居留地に向かう蔵人。
白霧山遺跡の居留地側の門を抜けると、ミド大陸文化の建物が見えてくる。
「そういや、こっちに来てから初めて協会に行くな」
蔵人は門番に聞いた協会までの道のりを辿りながらそう呟く。
雪白は知ったことかと不服そうな顔をしたままである。
「これが終わったら行くから、勘弁してくれ」
本当か、本当だからなと雪白は尻尾でぺしぺし蔵人の背中を叩く。
蔵人の首回りにいたアズロナは飛んでくる雪白の尻尾を迎え撃たんと身体を捻り、尻尾に合わせて翼腕を伸ばすが、捕えられない。
雪白も蔵人の言葉を信じたのか、楽しげなアズロナにかまってやるべく、蔵人の背中に尻尾をぶつけ続けた。
「……絶対、わざとだろ」
尻尾はちょくちょく蔵人の後頭部を叩いていたが、雪白は知らん顔であった。
蔵人が協会につくと、入口近くで雪白に待ってもらおうとするが、たまたま近くにいた職員がそのまま中へと促した。
蔵人が中に入ると、がらんとしたエントランスが広がる。カウンター周りにはハンターどころか職員の姿もほとんどない。
蔵人たちを協会の中へ招き入れた職員がそのままカウンターで蔵人の相手をするようである。
「何か話があると探索者ギルドのほうから連絡があったが」
「はい。協会から蔵人さんに一つ依頼があります。手短に言いますと、近くこの居留地で各国の商館員たちが集って慰労会が行われます。その慰労会には高位魔獣である黒天千尾狐を連れた芸女が招待されているのですが、その黒天千尾狐が暴走したときのための抑えとして蔵人さんを雇いたいのです」
黒天千尾狐を従えた芸女など宵児しかいないと蔵人はすぐに察しがついた。
「芸女とはいえ、黒天千尾狐を従えているんだろ? それに龍華国でも問題ないとされていなければあれだけ強力な魔獣を野放しにできないだろ」
「確かに問題ないかもしれません。しかし黒天千尾狐の飼い主は芸女、それも不正を犯した下級役人の娘です。万が一にも何かあっては困りますので、こうして依頼をしているのです」
「そんなに素性が気になるなら呼ばなきゃいいだろうに」
「……それは私の口からはなんとも」
そういいながらも職員の口調は蔵人の言葉に同意していた。素性を知ってなお、居留地側の退屈が勝ったということらしい。
「……なぜ俺が? 少ないとはいえ高位ハンターくらいいるだろ」
「確かに黒天千尾孤を抑えられるハンターがいないことはないのですが、それでは万が一の時、双方に血が流れ、周囲に影響を及ぼしてしまいます。慰労会で流血沙汰などあってはことです。そんなわけで、黒天千尾狐を無傷で抑えられるらしい猟獣をお持ちの蔵人さんにご依頼をさせていただきました」
「わざわざ調べたのか?」
「岩奇街では小商いの商人でも知っている話ですよ」
「ああ、そういうことか。――どうする?」
背後で狩りに行きたくてそわそわしている雪白は適当に頷いた。どうでもいいらしい。
「……可能な限りは要望も承ります。協会からの依頼になりますので依頼料もそれなりに出ますし、昇格に必要な狩猟数にも加点させていただきます」
どうにか蔵人に受けてもらおうとする職員のこの言葉が最後の後押しになった。
「……受けてもいいが、条件がある」
どうせ嫌な客として憎まれ役を買っている。雪白が構わないというなら、最後まで見届けるのも悪くなかった。
「まず、雪白を見世物にする気はない。もちろん、黒天千尾狐の抑えは最後までするが、それ以外は慰労会出席者の相手なんかは一切しない。黒天千尾狐を殺せだのそういう命令も受け付けない。あくまでも無傷で抑えるだけだ。暴走したときは雪白が抑えて龍華国まで引きずっていく。あと、報酬は金じゃなくて……」
職員が呆れるほどに細かく条件をつけ、蔵人は慰労会での対黒天千尾狐要員としての依頼を受けた。
そして、ようやく遺跡である。
蔵人とアズロナの子守りという役目のない遺跡探索に雪白は張りきった。
蔵人の腰に尻尾を回して強引に背中に乗せると、僅かな土埃を舞い上げてから、洞窟を疾駆した。
一気に五層、そして八層へ。
本気を出して駆ける雪白は蔵人たちの疲労を慮って休憩してなお、一日弱で到達してしまう。
前回の探索から、八層は蔵人が自衛できる範囲であり、雪白は心おきなく狩ることが出来た。
雪白は楽しげに亀を狩っていた。
双頭鉄亀。巨大な陸亀にしか見えないが、頭が二つあり、とにかく硬い。硬さだけならば雪白の一撃を防いでなお反撃してくる相手であった。
動きは遅いので、多くの探索者は狩るつもりがなければ戦闘を避ける相手であるが、雪白にとっては強力な防御能力を誇る相手はストレス発散に申し分がないらしい。
双頭鉄亀を嬉々として屠る雪白。
雪白が倒した双頭鉄亀の素材を悪戦苦闘して剥ぎ取りながらも、蔵人は複雑な気持ちであった。
動きの遅い、ただ硬いだけの魔獣。
まるで自分のようではないか、と。
蔵人は終始内心で亀に手を合わせていたという。
雪白は意気揚々と洞窟を進む。
蔵人とアズロナはついていくだけだ。
蔵人は、面倒かけすぎたか。少しは手伝ったほうがよかったかな、などと休日のゲームセンターで荒ぶる妻を目撃し、戦々恐々とする中年夫のような心境であった。
アズロナも最近のスパルタで雪白が優しいだけの存在ではないと気づいており、蔵人と身を寄せ合って、出来るだけ雪白の邪魔にならないように努めていた。しかし――。
「――あっ」
間抜けな声を残し、蔵人とアズロナが消えた。
蔵人の気配がなぜか高速で遠ざかり、雪白は慌てて振り返るも、蔵人はいない。
一つ、大きな溜め息が漏れる。
雪白は覗き込んだ。
そう、落とし穴である。
蔵人はものの見事に落とし穴にかかり、いまもなお高速で落下しているようであった。
罠魔の罠技は他の魔獣にも発動するが、遺跡由来の罠は魔獣には起動しないという特徴がある。つまり雪白にとってはなんの違和感もない洞窟であったが、蔵人にとっては罠であったというわけだ。
あれだけ探知の練習をしたのにまだ引っかかるのか、と雪白は人種の学習能力の低さを嘆いていたが、蔵人を見捨てるなどあり得ない。
雪白は躊躇うことなく、閉じつつある落とし穴に飛び込んだ。
どれだけ落下したか。遺跡の支配力が強まったせいか土精魔法がまったく使えず、蔵人は風精魔法による逆風でどうかに落下速度を落としていた。
内臓が引き上げられるような感覚と落下の恐怖に歯をくいしばっていたが、首回りにいるアズロナは変異種とはいえ飛竜のようで、蔵人にしっかりとしがみつきながらも楽しげであった。
ようやく地面が見えてきた。
蔵人はひと際大きな逆風を用い、バランスを崩して尻を痛打したもののどうにか軟着陸に成功した。が――。
「――ごふっぅうっ」
追撃するように腹に着陸した雪白。その重みと勢いは蔵人の五臓六腑を分断し、上下に押し出さんとするかのようであった。そんな錯覚を覚えるほどの、絶妙な衝撃であった。
手のかかる奴だとでも言いたげに、腹に鎮座したまま蔵人を見下ろす雪白。
蔵人は呻きながらも目を逸らし、なぜかアズロナもそれを真似した。
そんなものを真似するなと尻尾でアズロナを捕まえてから、雪白はようやく蔵人の腹から降りた。
「やれやれ、酷い目にあったな」
蔵人は周囲を見渡しながら、闇精と風精での探知を始めた。
洞窟内部だとは思えないほどに、天井が高い。
室内は冷涼に保たれ、埃など一つもなく、静けさだけが横たわっていた。
魔獣の気配もなければ、人の気配もない。精霊も雪白も生物の気配はないと示す。
ただひとつ、静けさの中で異質な存在感を放っているものがあった。
まるで生きているのかのような存在感を放つ、大きな女神像である。巨人種ですら比較にならず、三階建の家屋を優に超えるほどである。
目は三つ、妖艶な顔立ちに極端なS字を描く肢体と三対の腕。上半身は晒しているが、下半身は蛇か竜の尻尾で隠されていた。
腕と目が多くとも、それだけならば美しい女神と言えるのだが、その肢体をよく見れば腕や脚、腰、腹、背中は全て魔狼や魔虎、魔蟹、魔鳥が集合して構成されている。顔の右半分にすら薄らと魔狐の姿があった。
キメラのように魔獣が合体した歪な獣ではなく、三眼六腕とはいえ人の形の中に魔獣がおさまっている様は不気味で、恐ろしげで、しかし畏怖を感じるほどの美があった。
蔵人は身震いする。
魅入られるような気がして強引に視線を切り、出口を探した。
しかし出口は、どこにもない。
ただ、神の足元に見たこともない文字らしき文様が刻まれていた。魔獣を文字にしたような、複雑怪奇な文字である。
無論、蔵人はその文字がどこの国の言葉かは分からないが、しかし翻訳能力により意味だけは理解できた。
【いつか古き夜は去り、新しき光が舞い踊る。絶望するなかれ】
そんな意味であった。
蔵人はふと周囲に屍がないことに気がついた。落とし穴なのだから落ちた死体や人骨があってもおかしくはない。誰も落とし穴に落ちなかったと考えるよりも、出口があって脱出したとも考えられる。
死体は遺跡に処分されたたかもしれないが、精神衛生上、いつかは脱出できるのだと蔵人は思い込むことにした。
蔵人はそうとなればと動きだす。
革兜を脱ぎ、女神像に一つ手を合わせる。そして女神像の足元に食料リュックから酒と饅頭を取り出して供えた。
それほど信心深くはないが蔵人とて地蔵様や仏様、神社で手を合わせる程度はする。それにこんな場所で日本人として振る舞ったからと言って誰に見咎められることもない。
それよりも脱出できなかったり、祟られたりしたほうが困るのだ。
蔵人は霊感などまったくないが、とりあえず神仏への礼儀くらいは払うくらいの平均的な日本人の感性は持ち合わせている。
それに、これからすることが女神像の逆鱗に触れないとも限らない。
蔵人は再度合掌しながら、内心で断わりを入れてから、懐の雑記帳と報酬としてもらった新しい筆を取り出した。
そう。蔵人はこの存在感のある、言い換えれば生々しい女神像を、新しい筆で、描きたくて描きたくて仕方なかった。
ゆえに祟られるやもしれんと一つ拝んで、酒と饅頭を供えたというわけであった。ほんの少しばかり、こんなところに一人ひっそりと佇む女神像が寂しげに見えたような気がした、という理由もあった。
蔵人は女神像に没頭し始めるが、それを横目に雪白とアズロナはなにやら頷いたり、唸ったりしながら女神像を見上げていた。
絵に没頭する蔵人がそれに気づくはずもなく、いつもどおりの蔵人に雪白はやれやれと嘆息した。
******
蔵人が落とし穴に落ちて呑気に絵など描いている頃、大星はというとほとんど休憩も挟まずに山野を駆け抜け、依頼主である耶律に指定された村へと到着していた。
大星たちが耶律から聞いていた依頼はある人物とある物をある場所へ運ぶこと。場所はその人物が知っているという話だったのだが。
その人物と会い、ものの数分も経たない内に玉英が不機嫌そうな顔をし、高震がおろおろと困り果て、劉進に至っては我関せずとそっぽを向いていた。子供が嫌いなのである。
大星は仲間を宥めながら、目の前の少女をどうにか説得する。
「どうにか我慢してくれないか」
「嫌じゃっ、こんなボロ馬車に誰が乗るものかっ」
「だが――」
「――嫌じゃといったら嫌じゃ」
万事がこのありさまで、どうにかこうにか出発してからも。
「これしかないんだ、我慢してくれ」
「こんなものが食えるかっ、妾は偉いんじゃぞ」
あるときも。
「このような不埒者の矢を通すとは、さては妾を殺す気だなっ」
ただ流れ矢が馬車に刺さっただけで、なんの危機でもない。
またあるときも。
「こんな服で寝られるものかっ、朱絹の衣を持ってくるのじゃっ」
少女はそう喚き散らすが当然そんなものはない。
こうして大星一行は魔獣やアンデッド、少女を狙う刺客や大星たちを狙う茶館の刺客に加え、少女の我儘にも悩まされることになる。
それは、道中で玉英の堪忍袋の緒がぶちぎれて少女の尻を引っぱたき、少女が泣き叫ぶまで続くことになる。
前途多難であった。
******
蔵人が落とし穴に落ちて二日ほど経った頃、絵はおおよそ完成した。
絵が描き上がるのを待っていた雪白は鼻をすぴすぴと動かしながら、尻尾で蔵人を引きずる。
なんだなんだとついていくと、そこに浅いほら穴があった。
蔵人が中をのぞいてみると、ほら穴の上部から風が流れてきている。先は真っ暗で見えないが、出口であるらしい。
蔵人は一度荷物をまとめに戻ってから、再びほら穴を調べだす。
自分と雪白が入ってもまだ余裕はあるが、どう登るか。
よじ登ることなど考えたくもない。どれだけ自力で登らねばならないのか、考えただけでも気が遠くなった。
そんな風に考えた瞬間、まるで足元にある岩を挟んで噴火が起こったように、蔵人たちを押し上げた。
凄まじい勢いである。
さながら逆バンジー状態で蔵人は上昇していった。
祟られたか。蔵人は歯を食いしばりながら、今さらながらに女神像を隅々まで観察したことを後悔していた。
数分で遺跡に舞い戻った蔵人たち。
雪白は涼しい顔をしているが、蔵人は酔いかけてげっそりとしていた。
ここはどこだと見回すと、遺跡の一層にある協会側の出入口が近くに見えた。
無事、戻ってきたようである。
五体満足で見たところ呪われた様子もない。なんとも不思議なことがあった蔵人は首を捻りながら帰路についた。
蔵人はあの女神像のある場所で出口がないと分かっても雪白やアズロナがまったく動じていなかったことに、これっぽっちも気がついていなかった。
いつものように雪白はやれやれといった顔をし、アズロナは何故かご機嫌であったとか。
不思議な体験をした蔵人は前回宿泊した場所に向かう。今日もそこで嫌な客としての仕事であったが、完全に遅刻してしまった。
深夜というか、もう次の日になっていた。
到着した蔵人はそれを美児に詫びるが、不可解な言葉を返される。
「いえ、むしろ好都合といいましょうか……」
なんの脈絡もなく、美児が続けた。
「――汗でも流してきては?」
「えっ、あっ……臭うか」
蔵人は日本にいた頃の名残で身体を洗う頻度は多い。が、それでも遺跡帰りである。匂ったとしてもおかしくはない。
「いえ、実は……」
ひとまずいつもの仕事はないと言ってくれた美児。
蔵人は与えられた一室には行かず、トイレに向かっていた。
そしてその通路の途中で、目撃した。
衝立の先から、白い湯気がうっすらと立ち昇っている。
少し視線をずらすだけで、水滴の浮いた白い背中と水を吸った黒髪と黒い尻尾が見ることができた。
ゆらゆらと湯気の立ち昇る盥のお湯に布を浸し、宵児は半裸になって身体を拭き清め、長い黒髪をしごくように洗っていた。
蔵人はしばし見とれ、そして火傷するような熱気を頬に感じた。