82-因果の糸車
差し変えバージョンです。
リズたちと別れ、魔獣厩舎で雪白とアズロナを引き取った時のことである。
「――道を開けろ!」
慌てた様子の門番が蔵人を含めた門の周囲の者たちを強引に脇に寄せた。
何事だと戸惑いながらも人々が従い、門の前がぽっかりと空くとそこを馬と蜥蜴をかけ合わせたような二頭の鱗馬に引かれた装甲魔獣車がゆっくりと進んで行った。
鱗馬は騎兵に使われる戦闘馬の速度、長距離移動の魔獣車に使われる鎧平蜥蜴の持久力と防御力を兼ね備えた魔獣で、希少性と能力の高さから非常に高価とされる。戦争時には指揮官が騎乗し、平時には王族のパレードや政府高官の移動に使われることがあった。
獰猛そうな鱗馬がぶるるっと鼻を鳴らし、ゆっくりと門の中を進んで行く。
装甲魔獣車から誰かが顔を見せるどころか、鱗馬を止める様子も無い。
門番も緊張した面持ちで直立していた。
通り過ぎていく物々しい装甲魔獣車の側面には一対のガントレットをクロスさせた紋章が刻まれており、周囲の者たちは首を傾げながらもどこかのお偉いさんかね、などと小声で話していた。
蔵人はそんな小さな声に耳を澄ませながら俯き、装甲魔獣車が通り過ぎるのを待った。
装甲魔獣車がゆっくりとマルノヴァの街に消えていく。
その場にいた門番や商人、市民の中から溜め息が漏れ、蔵人も同じようにふぅっと息を吐いて今度こそ街を出た。
街を出ると雪花がひらひらと冷たい風に揺られていた。
この辺りはほとんど雪が積もらない。
ここユーリフランツ共和国よりもさらに北、小国群を超えたところにあるアルバウム王国やエルロドリアナ連合王国は、場所によっては早ければ白月の一日から雪が降り始め、積もるという。
だがこの辺りは雪こそ降るが積もっても数センチで、ときおり『氷精の嘆き』といって大雪に見舞われる日もあるが、積もった雪は数日で溶けてしまうものだった。
蔵人は白い息を吐き出しながら、いつものように魔獣車や商隊の通る踏み固められた街道を外れ、人の姿などまったくない竜山方面に向かって歩いていた。
このまま竜山に戻るか、狩りでもしながらぶらぶらするかと雪白に話しかけようとして、
「――ぶふっ」
口をアズロナ付きの尻尾で塞がれた。
いきなりなんだと蔵人が目を向けると、雪白の小耳が忙しなく動いている。
蔵人は、即座に身構えた。
だが――。
足元から、音もなく突き出る土杭。
蔵人は慌てて転がるようにそれを避け、雪白は余裕をもって飛び退いた。
だが既に逃げ場はない。顔を布で覆ったいかにもハンターといった姿の襲撃者が十人、蔵人と雪白を遠巻きにして取り囲んでいた。
――グアッ、グルァッ!?
珍しく焦りを含んだ雪白の鳴き声に蔵人は起き上がりながらちらりと目を向ける。
雪白の爪が、前に突き出した形で止まっていた。
まるでそこに見えない壁でもあるかのように雪白はそれ以上進めないようだった。
柔らかいとも堅いとも言い難い得体の知れない感触に雪白は即座にその場を飛び退こうとするも、何かに阻まれてそれすら出来なかった。
まるで見えない檻に閉じ込められてしまったようで、それが雪白の焦りをさらに加速させた。
襲撃者が仕掛けてくる寸前まで、気配を感じ取れなかった。
気づかぬ内に、得体の知れない力で完全に身動きを封じられた。
雪白はかつて幼い頃に見た巨人種に率いられた一団の周到な戦い方を思い出す。
不気味なほどに統率のとれた動きで相手を少しずつ追い詰めていき、最後に強力な一撃を放つ。ひとりひとりは大したことがなくとも、集団では狼の群れとは比較にならないほどの強大な化物になる。
雪白はいつにもまして、焦っていた。
「……自律魔法か」
蔵人は突然の襲撃に混乱していたが、雪白を封じる力などそれくらいしか考えられなかった。
こんなことが出来るのは世界のルールを一時的に『誤魔化す』、『捻じ曲げる』ことが可能な自律魔法でしかありえない。世界というルールの元で行使される精霊魔法には敏感な魔獣も、そのルールを誤魔化している自律魔法を察知するのは難しかった。
精霊魔法が発見される以前、僅かずつではあるが、人種がミド大陸を開拓することが出来たのは自律魔法があったからといっても過言ではなない。
それでも自律魔法を行使する者が未熟者であれば、その者の気配から察知は可能だった。
だが精霊魔法すらぎりぎりまで察知させず、気配すらも取り囲むまで消し去ることができているとなれば、たとえ雪白であったとしても、ただでさえ気づきにくい自律魔法を察知することは難しかった。
自律魔法は現在でも多くが秘匿されており、行使する場合の魔力量も多い。
その辺りのハンターが手に入れ、狩りに使うとは考えにくかった。
雪白クラスの魔獣を身動きとれなくするような自律魔法が公然と存在しているなら、それなりに他のハンターも使っているだろうし、いかに蔵人が情報に疎くてもその話くらいは聞こえてくるはずだ。だが、そんな話を耳にしたことはなかった。おそらく今まで秘匿されていたか、それとも新たに開発されたかのどちらかである。
目の前にいるいかにもハンター然とした者たちが、見た目通りの素性ではないことはそのことだけで明白であった。
一体何者か。
しかし、そんなことを考えている暇はなかった。
蔵人は即座に氷土の球壁を形成。雪白の周囲にも不可視の何かごと覆うように氷土の球壁を形成する。
さらに魔導書を取りだしながら『飛竜の双盾』に魔力を流し、球壁内で影の魔法陣を形成、『障壁』の詠唱を始める。だが――。
火線が奔り、ひらりと舞い降りた雪花が一瞬で蒸発する。
封じた雪白は無視され、氷土の球壁に四方から火線が殺到した。
氷壁は雪花と同じように一瞬で蒸発し、土壁も赤熱して貫通。
火線自体は最後の砦である命精魔法の魔法障壁を貫くことこそなかったが蔵人は詠唱を中断、氷を修復しつつ、土壁を冷やすために球壁の裏にも氷壁を形成した。
そこへまた、火線が迸る。
氷が溶けては、修復し、溶けては修復する。
魔力を常時精霊に垂れ流しているようなもので、詠唱する暇などなかった。
かつて雪白の親が討伐された時に用いられた火精魔法の『炎線』。基本的な中級火精魔法を『集束式』という技術で凝縮した応用的な中級火精魔法で、本来小範囲で発動されてしまう中級魔法の範囲を狭め、威力を飛躍的に高める技術であった。
さらに彼らは火精の精霊球も所持していた。
初級精霊魔法は一単位、中級精霊魔法は十単位、上級精霊魔法は百単位の精霊に意思を伝えて魔力を渡すが、白月も終りに近づいたこの辺りには四人が集束式を用いて中級火精魔法を発動できるだけの火精は存在していなかった。
例外もあるが、基本的には水が増えれば水精が増える、つまり火が燃え広がれば火精が増えるという精霊の性質を利用し、根本的に数の少ない火精は周辺を炎上させて増やし、その集まった火精で中級魔法や上級魔法を放つが、襲撃者にその様子はない。
ゆえに彼らは親魔獣を狩ったマクシームたちと同様に、火精の精霊球を持っていると判断できた。
壁を作っては破壊され、修復しては破壊される。
魔力は体感できるほどにどんどんと減っていった。
襲撃者は立ち位置を変えながら炎線を放射しているため、蔵人が氷槍と土杭をバラ撒くように放っても手ごたえはなかった。
この状態が続くのか、それとも雪白を捕えた自律魔法を使ってくるのか。
襲撃者の攻撃はやみそうになかったが、蔵人は手詰まりだった。
蔵人には炎線を掻い潜って敵に迫るような脚も技術もない。
現状を打開できる術がなかった。
蔵人はそれでも考える。何か手はないかと。
だが、その時間さえも襲撃者は与えてくれなかった。
絶叫のような雷鳴が鼓膜を貫き、巨大な槌に打たれたような衝撃が蔵人の意識を数瞬飛ばした。
炎線によって氷土の球壁が脆くなった瞬間、中級雷精魔法の『雷槌』による束になった落雷が蔵人の氷土の球壁を一撃で破壊した。
それも『集束式』を用いた中級雷精魔法である『雷槌』を、炎線を放っていなかった四人が『一斉行使』したのだ。
蔵人は咄嗟に渡せるだけの魔力を渡して頭上の土壁を厚くしたが、『集束式』を用い、さらに精霊魔法を複数人で行使し同調させて魔法の威力を上げる『一斉行使』によって大幅に威力の上がった雷槌を防ぎきることはできず、蔵人は雷撃とその衝撃波を一身に浴びた。
その直後、雷槌の衝撃波で舞い上がった土煙の中へ、弱った獲物を狙う狼のように襲撃者が突入する。
氷土の球壁を完全に破られてなお、落雷の衝撃を飛竜の双盾と命精魔法の魔法障壁でどうにか堪えた蔵人は土煙が目の前で揺れるのを偶然捉えた。
咄嗟に盾を構える。
そこに剣撃。
十分に強化された重い剣撃に蔵人の身体は一瞬強張り、さらに土煙を揺らして飛び込んでくる追撃を受け切ることはできなかった。
追撃は背中と脚。蔵人は前のめりに膝をついた。
そこへ喉に、鉄靴のつま先が突き刺さる。
朧黒馬の革で出来た鎧とフェイスガード越しに衝撃が喉を詰まらせた。
そこからは精霊に魔力を渡す余裕も喉の痛みに詠唱などをしている暇もなく、命精魔法の物理障壁と治癒魔法を発動しながら亀のように丸くなっているしかなかった。
理由は分からないが襲撃者は剣の腹で攻撃しているようで、致命傷と呼べるような傷はない。だが、鉄の塊で殴られ続けていることにかわりはなかった。
蔵人はいつしか意識を失っていた。
蔵人の身体から完全に力が抜けたことを確認してから、襲撃者たちは攻撃をやめた。
襲撃者の一人は蔵人の首元からタグを引き抜いて確かめると、それを奪うことなく元に戻し、蔵人の目や腕に触れた後、紙切れを握らせた。
捕えた雪白をどうこうすることもなく、襲撃者たちはその場を去っていった。
蔵人が戦闘している間、雪白は自らを囲む忌々しい不可視の檻らしきものを攻撃し続けていた。
体当たりをしても、爪を振るっても、氷をぶつけても、アズロナを地面に置いて氷を纏わせた尻尾で殴りつけても、不可視の檻は破壊できなかった。
――ガァッ!!
忌まわしい落雷の音が聞こえた。
次いで動かなくなった蔵人の気配に雪白はさらに全身の力を振り絞るように檻を攻撃した。
目の前で死んでいった親の姿が脳裏をよぎる。
あのとき山に木霊したなんともいえない短い咆哮が聞こえた気がした。
雪白は焦りから蔵人の気配を正確に探ることも忘れ、不可視の檻を攻撃し続けた。
アズロナは必死に何かを攻撃し続ける雪白を見つめる。未発達な心ではあったが、なぜ自分には何もできないのだろうかと自分の無力さに初めて気がついた。
雪白の何十度目かの攻撃の後、檻が消える。
まるで霧が消えていくように不可視の檻は消え、雪白は自らを囲んだ蔵人の氷土の球壁を突進でぶち破ると、アズロナをひったくるように尻尾で拾い上げると、倒れ伏す蔵人のもとに駆けつけた。
得体のしれない襲撃者はいなかった。
寒々しい大地とふわりと舞い降りる雪花、そこに倒れ伏す蔵人だけがいた。
尻尾にいるアズロナが心配そうにぎーっと鳴く。
雪白はアズロナを尻尾に巻きつけたまま、尻尾の中頃に蔵人も巻きつけて背中に乗せ、駆けだした。
竜山には行けない。
己が封じられたような不思議な力があり、さらにアキカワのような力がある以上、隠れ巣のある竜山に行くのは危険だと感じた。
治療が可能で、自分たちに友好的な場所。
とある老婆の顔とむず痒くなるような薬草の匂いを思い出し、雪白は一気に加速した。
雪白の全速力はマルノヴァから魔獣車で二日はかかるドノルボに数時間で到着した。
それでも既に日が暮れ始め、気温はさらに下がり、舞い落ちる雪の量も増え始めていた。
尾行などはいない。
いたとしても今の雪白がそんなものを許すわけがなかった。
雪白は門番どころか、門すら飛び越えて無視し、イラルギの家へとひた走る。
――クォオオオオオオオンン
イラルギの家の前で喉を震わせた。
焦りと悲しみと苛立ちが混じり合った、強く、切ない咆哮に足腰の悪いイラルギにかわってその娘であるアイセが飛びだしてきた。
アイセは雪白の巨体に一瞬ぎょっとするも、雪白に背負われている蔵人を見てすぐに事情を察する。
雪白を追って、ようやく坂を下りてきた門番に特に問題はないと手で合図だけして、すぐに雪白を家の中に招き入れた。
「おや、今日はお前さ――そこに降ろしなっ」
イラルギは椅子に座ったまま見覚えのある魔獣に声をかけようとして、雪白の背中に乗った蔵人に気づき、部屋の脇にある診療台を指し示した。
雪白は診療台に蔵人を乗せる。
「心配なのはわかるが、後は任せな」
イラルギは蔵人の顔をのぞき込み、瞳を確認し、脈を採る。
その間にアイセが蔵人の鎧や盾を脱がしていった。
雪白の尻尾がそわそわと動く。
アズロナも心配そうに見ているが、雪白の尻尾の動きに合わせて視界が揺れる。
雪白は心配のあまり、すっかり尻尾のアズロナを忘れていた。
「……よし。まあ、とりあえず死ぬことはないだろうよ。こいつが頑丈なのもあるが、致命傷らしい致命傷がないね。それにしても随分と酷くやられたもんだね。骨折も一か所や二か所じゃない。
これは……剣の腹か何かかね。恨みを買いそうには……はぁ、見えちまうね。まあ、ハンターをやってりゃこんなこともあるさ」
蔵人の容体を見終わったイラルギの言葉に、雪白はようやく尻尾のアズロナを思い出した。
尻尾の先を見ると、アズロナはすっかり目を回してしまっていた。
パチンと弾ける薪の音に蔵人が目を覚ましたのは、深夜のことだった。
なんともいえない薬草の匂いにここはどこだと身を起しかけるも、身体が悲鳴を上げた。
――ぐるぅ
雪白がにゅっとしょぼくれた顔をだす。その頭の上にはアズロナがへばりついていた。
そんな顔はアレルドゥリア山脈で初めて怪物と戦い、倒れた時以来のことである。
蔵人はどうにか動こうと治癒魔法を自分に施し、一気に修復しようとした。
ビキビキッと身体中の骨が鳴り、爪の先に針を突き刺したような激痛が走る。
蔵人はすぐに治癒を緩やかにした。
それでも、鈍痛が酷い。骨が折れ、さらにはその骨がズレているようで、それが元に戻る過程で痛みを生んでいるようだった。
蔵人はなんとか痛みの少ないほうの腕を伸ばして、雪白の柔らかな喉元をくすぐった。
「大丈夫だったか?」
雪白は蔵人の手に強く顔を擦りつけた。
「問題なさそうだな。アズロナは……大丈夫だな。寝てもいいぞ?」
雪白の頭の上にへばりついて眠たそうにしているアズロナ。蔵人への心配から必死に耐えていたが蔵人の無事な姿を見て、その言葉にあっさりと陥落。ずるりと雪白の頭から落ちそうなところを雪白の尻尾に支えられていた。
「それより、ここはどこだ?」
蔵人は雪白を撫でながら、首だけで周囲を見渡した。
ゴツゴツした壁に垂れさがる干した薬草、すり鉢やすりこぎ、そしてなんともいえない薬草の香りに、ああ、イラルギの家かと蔵人は雪白に礼を言った。
雪白の尻尾が伸ばした蔵人の手に紙切れを握らせる。
蔵人は嫌な予感を感じながら指だけでそれを開き、目の前で広げた。
何度か読み返すと蔵人は身体の痛みなど忘れ、思考に没頭した。
パチン、とまた一つ、薪が弾けた。
白月の八十日。
ドノルボではイラルギに礼を言って、しばらく労働奉仕をしながらついでに色々と教えてもらった。その後、蔵人はマルノヴァに向かい、なんの変哲もない宿屋で部屋を取った。
雪白は当然のことながら街に入ることはできず、酷くごねたものの、最後にはアズロナと共に魔獣厩舎に入ってくれた。しかし何かあれば門番をなぎ倒してでも突入すると雪白の目は剣呑な光を放っていた。
雪白が他の魔獣に迷惑をかけていないだろうかとそわそわしながら、蔵人は宿の一室にもう半日は篭っていた。
朝方に宿に入り、いまはもう夕方である。
幸いやることには事欠かず暇を持て余すようなことはなかったが、身体がどことなく重かった。
コンコン
ドアがノックされる。
蔵人はベッドから起き上がると、ドアに近づき少しだけ開けた。
相手が誰か分からない以上、無防備にドアを開けるわけにはいかない。
だが、蔵人はドアの前に立っていた男たちを招き入れた。
知り合いと言えば知り合い、一人は顔だけを覚えていたが、もう一人は……アキカワだった。
手紙の内容は単純なものであった。
従え。
従わないならば、逃亡するならば、しかるべく場所へ情報を流すことになる。
さらに、今日のようなことが再び起こらないとも限らない、と。
ただ、それだけであった。
文字はこちらの世界の言語で書かれ、差出人の名にも覚えはなかったが、この世界に来てからは見かけたことのない名前の形式に差出人の素性は察せられた。
リュージ・ゴトー。
それが脅迫状の差出人であった。
勇者のことならばアキカワに聞いてみるという選択肢もあったが、それは出来なかった。
手紙には脅迫状のことを誰かに漏らせば、従わない時と同じように情報を流す、ともあった。
こっそり接触することは可能かもしれないが、リュージの行使し得る力は身を持って知らされたうえに、リュージの持つ『神の加護』も分からない。
蔵人は得体の知れない恐怖を感じていた。
いつ、どこで、どうして自分のことを知ったのか。どれほどの力で脅迫してきているのか。まるで闇の先からじっと化物に見られているような気分であった。
逃げるという選択肢がちらつくが、まだ早いと自分の弱気を抑え込んだ。
逃げるのであれば、それは一生、ということになる。
その判断は今じゃなくてもいい。いつでもできる。
ならば今は従って、相手の目的を知るべきであった。
そう決めるも、常にどこかから見られているような錯覚はついに晴れなかった。
なぜアキカワがこの部屋に来るのか。
脅迫状の指示通り、蔵人はマルノヴァのこの宿で待っていた。
そういう意味では勇者繋がり、と判断することもできるが、情報流出を脅しに使うような勇者とアキカワが協力関係にあるとは考えづらかった。
だが、アキカワは生徒側の人間である。
それを考えると、敵ではないと言い切ることなど出来なかった。
部屋に入ってきたアキカワがいつもよりもさらに申し訳なさそうに口を開く。
「お休みのところを申し訳ありません。要件は追々話していくとして、まず紹介します」
アキカワがそう言うと、後ろにいた男がずいとアキカワを遮った。
「初めまして、と言った方がいいか?」
顔しか知らない男がそう言ってきた。
見覚えは、ある。
勿論、用務員をしていた頃の学校でだ。
「……ああ、顔しか知らないからな。初めましてで問題ない」
蔵人はこのやりとりに何か予感めいたものを感じた。
「五島竜二だ。こちらではリュージ・ゴトーだな」
「……クランドだ」
やはり、脅迫状の主であった。
短く切り揃えられた黒髪に値踏みするような見下すような目つき、軽く反らした顎。濃紺の丈夫そうなロングコートにズボンとブーツは統一感があり、軍服のようでもある。
日本にいたなら決して近づかない類の人間。
顔、声色、仕草、雰囲気の全てが人を害しても苦にならない、そんなタイプの人間にしか見えなかった。そもそも召喚初期に蔵人の存在を秘匿したことを一言も謝罪せず、それを気にした様子も無い。その上、脅迫状である。
決して偏見とは言えなかった。
「クランド。昇格試験に受かるも強制依頼を断って数分で降格した。現在は八つ星、イルニークという魔獣を猟獣登録している。依頼は事後受注の形でかなりの高ランクにまで及んでいるが、本人の実力というよりは猟獣が大きく貢献していると思われる。だが、昇格試験で試験官と共に飛竜を撃退したという記録もある。……少なくとも八つ星程度の実力ではないことは確かだな」
リュージは読み上げるように蔵人の狩猟記録を告げた。
「そんなに警戒するな。ちょっと協会に問い合わせただけだ」
「……なんのようだ?」
目的が、分からなかった。
アキカワを伴ってここに来る理由が分からなかった。
「いやなに、今日は勇者としてあんたに協力を求めに来た。正確にいえばイルニークを従えているあんたに、だ。――怪盗スケルトンは知っているな?」
「ああ、名前だけはな」
「その怪盗スケルトンの討伐作戦にあんたも参加してくれ。もちろんあんたが加護なし勇者だなんて公表するつもりはない。ただのクランドとして、密かに協力してくれればいい」
「拒否することは?」
「わざわざ勇者であるオレが出張った意味がわかるだろ?協会には言っておく。ランクも元に戻るし、罰金も返却させる。結果次第じゃ、多少なりとも報酬が支払われる。なに、悪い話じゃないだろ?」
蔵人に断ることなどできなかった。
表では勇者という立場を利用しての強権、裏では脅迫状。どちらか一方でも厄介なのに両方となれば蔵人の取れる選択肢など一つしかなかった。
「……わかった」
蔵人の答えを聞くとリュージは愉快そうに、ニッと笑った。
「それじゃあオレは行く。ああ、あんたが逃げないように監視役として秋川センセーを残していく。あとはあんたが必要になれば迎えにくるから、そのときまでのんびりしていてくれ」
リュージが言うだけ言って部屋を出ていくと、宿の一室には蔵人とアキカワが残された。
イラルギの家で目を覚ましてから、恐れと不気味さがまとわりついていた。
一方的な暴力と勇者という権力。
それが蔵人の心に影を落としていた。
何をしたという訳でもない。
加護を奪われたことは罪でも悪でもないはずであった。
脅迫されるいわれなど微塵もない。
抱えているものは、誰にも迷惑をかけない秘密である。身を守るための秘密である。
だが、真っ当に生きていても、悪意は突然やってきた。
人生は呆気ないほど簡単に『詰んだ』。
ドノルボにいる間中、イラルギの手伝いをしながら考えていた。
だが、打つ手などほとんどない。八方ふさがりとはこのことであった。
脅迫に従わなければ反ハヤト派とやらに情報流出。その結果どうなるかはわからないが碌なことにならないことは明白であった。
官憲を頼る、というのは最も悪手である。勇者を弾劾する流民の言葉を信じる官憲などいない。さらには訴えることによって情報も漏れてしまう。手紙など証拠にもならない。偽造したと思われるのがオチである。
かといって脅迫に従っても絞りつくされて、使い潰され、最後には情報流出である。リュージをどうにかしないことには行きつく先は変わらない。
宿でリュージを殺すことも難しかった。仮にアキカワの目の前で、手の内も分からぬリュージを殺し、さらには逃亡までできても勇者を殺した大罪人として指名手配される。
もしくは精霊魔法の気配を察知してその場に駆けつけた官憲の手によって捕縛され、死刑か一生を牢の中で過ごすことになる。
それに、いかに非がリュージにあるとはいえ日本人であるアキカワが殺人を見逃すとは思えなかった。
ならばアキカワも殺す。
苦い思いをさせられたが、殺すほどのことでもない。そもそも何の罪も無い人間を殺すことなど出来る訳もなかった。
敵対者を殺すことは出来る。しなければ自分が死ぬのだから。
だが、敵対しているとは言い難いアキカワを殺すことなど、蔵人には出来なかった。
街の外に出られれば魔獣の仕業に見せかけて殺すことはできるかもしれないが、討伐作戦を控えてリュージが街の外に出るとは考えにくい。自分をどれだけ侮っているかはわからないが、街の中にいれば安全だと知っているはずである。
つまりは、『詰んだ』のである。
考えもしなかった、なんてことはない。
蔵人とていつかそんな奴も現れるかもしれないとは思ってはいた。思ってはいたが、有効な対処など取れずにいた。見知らぬ有力な議員に匿ってもらうか、どこぞの王族に守ってもらうか。
信用もないそんな輩に、なんの能力もない蔵人が守ってもらえるわけもない。相手はミド大陸で最も強大な力を持っているといっても過言ではないアルバウムの勇者である。
匿ってくれた相手が裏切るか、それとも迷惑がかかるか、そのどちらかしかない。
人のいない辺境に一生篭っていれば安全かもしれない。
だがいくら雪白とアズロナがいるとはいえ、蔵人は人間だった。
決して世捨て人でもなければ、仙人や聖人の類でもない。
人恋しくもなれば、誰かと話したくもなる。
イライダやヨビ、ゴルバルド夫妻、イラルギ、エスティア、レイレ、エカイツ、ジーバ。この世界で出会わなければよかったと思う者たちなど一人もいない。
なにより、何の罪も侵していないのに、勇者に怯えて暮らすなど納得がいかなかった。
ただの意地だと人は笑うかもしれない。
そんな意地よりも命が大事だ、と。
しかし命が、意地よりも、情よりも、誇りよりも大事で、人などどうでもいいと思っているなら、アレルドゥリア山脈でアカリを見捨てて隠遁している。
イライダと共にサウラン砂漠に行こうとなど考えなかった。
ヨビなんて面倒な女に関わることもなかった。
エスティアと関わり、ファンフを殺すこともなかった。
命は惜しい。
だがそれと同じくらい、人として当たり前の矜持を曲げたくなかった。