72-海賊と夜釣り
――ごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごり
何度も気が遠くなっているのだが、蔵人は手を止めるわけにはいかなかった。
この場にいない雪白とアズロナはさすがにこの手の作業が出来るはずもなく、外にいる。
最初はのんびりと寝そべっていた二匹を遠巻きに見るだけだった村人も、イラルギの手伝いの合間に遊びに来たイサラが雪白に挨拶をして、アズロナを構いだすと近づいてきた。
そしてあっという間に二匹を気に入ってしまった。
二匹とも女子供関係なく人気であったが、意外と面倒見のいい雪白は子供たちに懐かれ、多くの子供たちがそのふかふかな白い柔毛に群がっている。
ある時、子供が尻尾を力いっぱい引っ張るようなオイタをした。雪白は尻尾をぐいと引っ張って子供を持ちあげ、自らの鼻先に宙づりにするとじっと見つめる。
睨んでいるわけではないが視線で何かを、動物との付き合い方を諭しているようで、なぜか子供たちも素直にそれを読み取り二度と引っ張らなくなった。その親も宙づりにされた時に顔を固めた以外は微笑ましく見守っているのだからこの村も良い意味でおかしい。
一方、当初はその姿から不気味がられていたアズロナだが、不器用ながらも翼腕を使ったアザラシのような歩き方で必死に前進する姿は奥様方の庇護欲を刺激したようで、今では奥様方の仕事の合間にひっきりなしと遊んでもらったりしている。
疎外されるよりはよっぽどいいのだが、蔵人は我が身の不遇に二匹が心底うらやましかった。
――ごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごり
蔵人は早朝から中天に至る今までずっと、すり鉢に入れられている薬草をひたすらすり潰していた。
イラルギが蔵人を夜も明けぬ早朝に叩き起こしたのは、報酬の意味合いも込めて調合を教えてやるということだった。
しかし蔵人は報酬というより、単純に薬草のすり潰し要員が欲しかっただけじゃないのだろうかと勘繰っている。
乾燥しているもの、生乾きのもの、生のままのもの、油で揚げたものと朝からすり潰しづめである。
「次はこれだ」
無情にも再びすり鉢が交換される。
新手の拷問かイビリなんじゃないかと疑いたくなる蔵人だったが、これも依頼の内と考えると放り出すわけにもいかなかった。
中天近くまでごりごりすると、休憩になった。
この村では一日二食半、つまり中天の頃に軽食を取るという。船の上ではきっちり三食らしい。
軽食を女衆が準備する間、蔵人は伸びをして体中からバギボギと音をさせながら外に出る。そこでは子供たちがそこら中にある岩の一つに、アズロナに見せるように絵を描いていた。
描いているのはアズロナのようで、白い線で描かれたそれはお世辞にもうまいとは言えなかったが、子供らしい楽しげな絵であった。
描かれたアズロナも首を傾げながら、興味津々と言った様子で石に描かれた自分を見つめていた。
蔵人はふと、子供たちが何を使って描いているのか気になって、のぞきこんだ。
子供たちの持っているのは、貝殻である。
拳大の胡桃のような丸い二枚貝の貝殻を器用に使っていた。
周囲に大人たちはいない。どうも雪白に子供の見張りを任せて軽食の準備に行ったらしい。なんともおおらかな村である。
蔵人は子供たちに聞く。
「その貝殻はなんていうんだ?」
「これ?そんなことも知らねえのかよ」
蔵人は自分の頬が引きつるのを感じるが、怒るわけにもいかない。
「すまんな。遠くから来たから知らないんだ」
「ふーん、これは白丸貝っていって、大口をおびき寄せる餌にもなるんだぜ」
子供は得意そうに胸を張って言った。
「へえ、どこにいるんだ?」
「そんなもんそのへんにいっぱいいるよ」
子供たちはそれぞれ船着き場の両端の岩場を指し示した。
「お昼よーっ!」
女の大きな声に、子供たちは手に持っていた貝殻を放り出してワーと走り去った。
「なにぼーとしてるんだ、あんたもいくんだよ」
蜘蛛の子を散らすような子供たちの反応にポカンとしてしまった蔵人にイラルギが声をかけた。
蔵人は生返事を返しながらアズロナを抱え上げ、雪白を連れてイラルギの後についていく。
蔵人の空いた手には白丸貝の貝殻がしっかりと握られていた。
村人総出の昼食を終えると、蔵人は再びイラルギの手伝いに加わる。
村人総出とはいっても女衆と老人、子供だけである。
昼食には家の修繕や海賊を迎え撃つための準備を整えていた月の女神の付き人もいた。
蔵人を見る月の女神の付き人たちの目は冷たい。
特に白鷲系鳥人種の女、白鷲女は完全に蔵人を敵対視し、アガサは蔵人など存在していないかのようなそぶりである。
蔵人とアガサの率いる月の女神の付き人の関係は、冷戦と呼べるような状態になっていた。
女騎士は当初と違い、協会での話をしっかりと把握していたアキカワから両者の事情を説明されているようで、両者の関係をどうしたものかと眉間にしわを寄せて見つめていた。
午後からは薬草のすり潰しではなく、基礎的な調合をひたすらさせられた。
塗り薬、飲み薬などイラルギ婆さんが天秤ばかりを使って分量を教えてくれ、蔵人はそれをメモする。
するとまずその薬を三つほど作らされ、それをイラルギが姑のようにこと細かく指導してから、延々と同じ薬を作らされるという拷問、もとい訓練だった。
蔵人が教えてもらったのは傷薬、血止め薬、風邪薬である。解毒薬も教えてくれたが、万能な解毒薬などないため、あらゆる毒の症状を緩和する薬を伝授された。
といってもいくつかの薬草の組み合わせたことで生じる特殊な効果によって毒の症状を緩和するだけで、例えば一時間で死んでしまうような毒が、数時間で死ぬような毒になるというものだった。あとはその間になんとかしろということらしい。
これらは蔵人の希望で多少効力が落ちるものであってもその多くを内服薬で教えてもらった。食料リュックに入れるためである。ただ、直接傷にふりかけたり、水に溶かして使えば塗り薬としても使えるらしい。
イラルギはこの辺りを覚えておけば、ハンターとしては十分だろうと言った。
イラルギに反復練習でひらすら調合を仕込まれた夜、月は細い糸のような三日月であった。
夕食を終えた蔵人は、船着き場の海岸沿いにいた。
目の前の波のない真っ暗な海に向かって岩場に腰かけた蔵人の手には、大棘地蜘蛛の糸が巻き付けられている。
糸にはドワーフのゴルバルドに頼んで作ってもらった小袋の内の一つ、釣り針が結ばれており、そこに木片の浮きと錘、餌の白丸貝をつけて、遠く離れた海に投げ込んであった。
――ばしゃばしゃ
蔵人の足元ではアズロナが初めての海にも関わらず、恐れることなく嬉々とした様子で泳ぎまわっていた。
何がいるかわからない夜の海では無防備極まりないことだが、アズロナの泳いでいる窪んだ岩場の入口は蔵人が大きな氷で塞いでおり、さらにアズロナが泳ぐ前に海中を調べておいたのでアズロナを食べてしまうようなサイズの生き物はいない。
――とぷん
アズロナが海中に潜る。
一分、まだ上がってこない。
二分、まだである。
三分、そろそろマズイかなと蔵人が思ったとき、アズロナが海面に顔を出した。 口に小さな蟹を咥え、蔵人の足元の岩場に這い上がると、どうだと獲物を見せつけてくる。
蔵人がアズロナの頭を撫でてやると、アズロナは嬉しそうな顔をしてバリバリと蟹を食べだした。
「たくましくなったもんだ」
誰かさんに似て食い意地の張ってきたアズロナを見ながら、蔵人はそんなことを呟いた。
村は海賊の襲撃に備えてピリピリし、船着き場周辺にも見回りの使う火精が浮いていた。
それを横目にしながら蔵人がのんびりと何をしているかというと夜釣り、ではなく白丸貝を取るためだった。
しかしそれは既にアズロナの泳ぎ場所を作るときに集め、食料リュックに入れてある。
白丸貝を取りに来たのは雪白が食べたそうにしていたから、ではない。
蔵人は子供たちが白丸貝の貝殻で絵を描いている時、自らの止まっていた筆が進みそうな気配を感じていた。
墨の濃淡だけにこだわらず、あえて白色を使ってみてはどうか。使っている葉紙は自然物なため、どうしても真っ白というわけではなかった。
そして水墨画にこだわらず、水墨画のまま油画の輝き、印象派のようには描けないだろうか、と。
子供たちの自由な絵を見て、蔵人はそう思った。
アズロナが海から這い上がり、よじよじと岩場を登って蔵人の足元で顔をぷるぷると振るって鬣についた海水を飛ばすと、蔵人を見上げてきた。
夜の闇に、アズロナの黒い一つ目の輪郭が光を帯びているようにはっきりと見えた。
「……目からビーム、とかできそうだな」
アズロナが首を傾げる。
蔵人はさすがに無理かと笑う。
「ブレス辺りなら出来そうだな。飛竜とはいえ、竜のはしくれだろう?」
そんな冗談を言いながら、蔵人は水精を使って強力な水鉄砲を夜の海に放った。
ウォーターカッターみたいになればいいかと思ったが、蔵人の親和力と熟練度では放水車程度の威力にしかならなかった。
できるか?とアズロナに言う蔵人。
海辺の塩の匂いが得意ではないのか、ずっと寝そべっていた雪白がまたアホなことを始めたという呆れた視線を蔵人の横顔に向けた。
だがアズロナは首を傾げながらも、海に飛び込む。
そして、
――ぴゅー
口から可愛らしい勢いの水鉄砲を放つと、それがちょうど雪白の顔に直撃した。
それを見てクックックッと笑いだす蔵人に、雪白は水を滴らせながら睨みつけた。
だが、睨んでいるだけなはずがない。
まるで蛇のように岩場を這って蔵人の背後に到達した尻尾は、コブラのように立ち上がり蔵人の後頭部を一撃した。
蔵人が前のめりになった、その時であった。
火球が夜の闇を切り裂くように、音もなく村の家に直撃した。
海賊だ。
船は闇に紛れているが、その一撃を皮切りに精霊魔法の応酬が始まった。
船着き場を囲うように積んだ土壁の裏から放った月の女神の付き人の火球や雷撃が船に着弾し、そのたびに船の姿があらわになる。
中型船が一隻と小型の帆のついた漁船のような船が十隻といったところだろうか。
数は海賊のほうが多いようだが、質は女騎士や月の女神の付き人がいる村側が明らかに上だった。
海辺だというのに、海側から放たれる水精魔法が少ないのは燃えやすい船を守り、敵に海の水を使って船底や船腹を攻撃されないように船の周囲の海水を水精魔法で支配しなければならないからだった。
海賊は、精霊魔法の撃ち合いに痺れを切らす。
前回とはまるで違う隙のない弾幕に付き合っていては、自分たちが先に疲弊してしまうことに気がついたのだ。
精霊魔法が飛び交う中を船が次々に船着き場へと強引に乗り上げ、薄汚れた服を着た男たちがどんどんと上陸する。
そこに、精霊魔法が殺到する。
だが先頭の大盾を構えた海賊が火球や雷撃をものともせずに突っ込んでくる。
その後に続く海賊たち。
村にいるのは女ばかりのはずだ、力押しでなんとでもなる。
海賊たちはそう思っていた。
だが闇の中で迸った白い一閃が、大盾を真っ二つにする。
頭上から大盾を真っ二つにしたのは、白鷲女の持つ大振りの曲刀だった。
一瞬、何が起こったのかわからないというような顔をする海賊たち。
そこにバニスが突撃した。
海賊の構えている大盾をカイトシールドの体当たりで弾き飛ばし、勢いのまま手近な海賊を長剣で串刺しにした。長剣はクレイモアというより、先端に行くほど鋭い二等辺三角形をした特異な形状をしていた。
船着き場を囲むように、一瞬で松明に火が灯る。
この時、海賊たちはようやく村が助っ人を頼んだのだと気づく。
現在の北バルークが政治的な事情から官憲もハンターも少ないと考えてドノルボを襲ったが、完全に当てが外れたことになる。
動揺する海賊。
だが上陸した船に次々と直撃する精霊魔法により、退路もなくなっていた。
海賊たちは行き場をなくした。
半ばやけになったように白兵戦を挑むが、バニス、白鷲女を筆頭に数人の月の女神の付き人たちにはかなわず、アガサの号令のもとに放たれる村の女と月の女神の付き人の精霊魔法により海賊たちは次々に倒れていった。
そんな中、唯一被害のなかった中型船が船着き場を離れ、風精魔法の後押しを得て、逃げ出した。
だが、それもバニスらの計算通りだった。
蔵人たちとは反対の岩場の影に一隻だけ残してあった村の船が動きだす。
船の上には老いてはいるが腕は確かな老船頭とアキカワがいた。
アキカワの加護ならば、見失う可能性などほぼあり得ない。中型船を追って、拠点ごと制圧するつもりなのだろう。
おおよそ海賊を倒したバニスと月の女神の付き人の半数がその船に飛び乗り、逃げた海賊船を追うべく、水精を操り、風精で帆に風を当てた。
残った女たちは手早く倒れた海賊たちを捕獲し、海賊の襲撃は呆気ない終わりを迎えた。
海賊と女たちの戦いを傍観していた蔵人は、夜釣りを続行した。
まるで危なげのない戦いに蔵人が手を出す暇も必要もなかった。
蔵人は後頭部を撫でながら、雪白とアズロナを見る。
雪白はしょぼんとしたアズロナを教育中であった。
きちんと方向を見極めてから撃ちなさい、と。
蔵人は二匹をぼんやりと視界におさめながらも、糸の先を見つめた。
空が白み始めた頃、船着き場が騒がしくなった。
逃げたはずの海賊の中型船が乗り上げ、そこからバニスが颯爽と飛び降りた。
そして続々と引きずり下ろされる海賊たち。
どうやら海賊の拠点を制圧出来たらしい。
かなり早いが魔法を使って船を動かしているのだから当然かもしれない。
それに引きずり下ろされる海賊の数は少なく、着衣も粗末だ。一応幹部らしい海賊たちは丈夫そうなコートのようなものを着ているが、やはりどこかみすぼらしい。
あまり大きな海賊ではないようだ。
蔵人はバニスたちの海賊の後処理を横目に、糸を巻き取った。
本日の釣果は、ゼロである。
雪白の馬鹿にしたような視線を背中に感じながら、蔵人はどこか足取り重く、自分の小屋に戻っていった。
蔵人たちは、日が昇り切る前に目を覚ます。
おおよその薬を作り終え、海賊も捕まった今、イラルギが小屋に突貫してくることはなかった。
蔵人は伸びをしながら小屋の外にでる。
小屋からも見える船着き場ではバニスや月の女神の付き人たちが海賊を並べ、昨夜の後処理をしていた。
「ずいぶん遅いね」
家から出てきたイラルギが呆れたように言った。
「……ちょっとな」
昨夜の騒ぎは手を出す必要がなかったとはいえ、よもやそれを横目に夜釣りをしていたと言うわけにもいかない。
「まあ、なんにしろ海賊が捕まってよかったよ」
「そうだな。あの海賊はどうなるんだ?」
「あの女騎士さんがここから近いマルノヴァまで連れていくとさ」
「歩いてか?」
「いやうちの爺さん連中があの海賊船を動かすよ。海賊の数も減ったようだからなんとか運べるはずさ。ああ、これですっきりしたよ。海賊は拠点ごと壊滅してくれたようだし、大した怪我人もない。あとは男連中が大口を仕留めてきてくれればいいんだけどねぇ」
イラルギはどこかほっとしたような顔をして家に戻っていった。
その夜。
海賊の襲撃に怯える必要のなくなった村は寝静まっていた。
無論、村人による船着き場と門の見張りはいるが通常の配置に戻っている。
蔵人以外は。
昨日はまったく釣れなかった。
だが、せめて一匹くらいは釣りたい。
雪白に馬鹿にされないために。
蔵人は意地になって浮きがわりにつけた木片を凝視し、さらに闇精、水精、風精と感知できる精霊魔法を手当たり次第に駆使していた。
既に遊び疲れたアズロナは雪白の尻尾に包まれ眠りこけ、その尻尾の主は無駄なことをいった視線をちらりと蔵人にやってから、目を瞑った。
村は既に明かりの一つも灯っていなかった。
日がかわった頃、瞼の重くなってきた蔵人はさすがに自らの腕と運のなさを自覚しそうになっていた。
だがその時、木片が沈んだ。
蔵人はうとうとしていた意識を一気に覚醒させ、糸を引き寄せる。
糸の強度も釣り針の強度も十分である。
そもそも大棘地蜘蛛の糸とドワーフの作った釣り針で釣りをする者など蔵人くらいだ。
蔵人は、力任せに糸を引いた。
一メートルはある大きな魚が、宙を舞った。
そして、雪白の上に落っこちた。
「あっ」
蔵人はそんな声を漏らすが、頭にずんぐりむっくりな魚を乗せた雪白がぷるぷると怒りに身を震わせながら身を起こす。
そっとアズロナを脇に置く辺り、冷静ではあるらしい。
しかしアズロナを置いた尻尾は、目にも止まらぬ速さで即座に蔵人を襲った。
さらに蔵人に飛びかかる雪白。
蔵人は雪白の巨体に圧し掛かられ、顔をふかふかの肉球で潰され、首は尻尾で締め付けられていた。
「すまんっ、落ちつけ、わざとじゃ――」
ほとんど狩りも出来ずストレスが溜まっていた雪白はここぞとばかりに肉体言語を炸裂させる。
背中をゴリゴリと岩でマッサージされながらも蔵人は必死の抵抗をするが、蔵人を制圧する気満々の雪白に勝てるはずもなく、雪白の前脚に後頭部を踏みつぶされ、いつぞやの飛竜と同じような末路をたどることになった。
そんな時、蔵人は釣りで使いっぱなしにしていた闇精の知らせを感知する。
蔵人は強化して雪白を振りほどき、雪白も尋常じゃない蔵人の様子にそれ以上じゃれつくことはなかった。
「――アズロナを頼む」
蔵人はそういって走りだした。
糸につけた馬鹿でかい魚を引きずりながら。
途中、糸を手繰って魚を肩に担いだ蔵人は速度を緩めずとある小さな一軒家に辿り着く。
ドアを蹴破って家の中に飛び込むと、そこにはズボンを下ろしかけていた男の汚い尻があった。
蔵人はそれを容赦なく、強化したままで蹴りつける。
いい具合に突き刺さるつま先。
男は短い悲鳴を上げながら、前のめりに崩れ落ちた。
「……あんたの男だったらすまん」
崩れ落ちた男に圧し掛かられるようになっていた村の女が必死に首を横に振った。
どうやら未遂、であったらしい。
「そうか」
蔵人は男を片手で引きずると、外にポイっと捨て、アズロナを回収して追いかけて来ていた雪白に頼む。
「あと三組いる。たぶん同じような匂いだと思うから、殺さない程度に片っ端から蹴散らして、ここに持ってきてくれ」
雪白は嫌な顔をしながら汚らしく臭い男に鼻を近づけるも即座に顔をそらす。そしてアズロナをポイっと蔵人に預けると、一気に駆けて行った。
最初から雪白に頼んでもよかったのだが、万が一にも村に残っていた男女の夜の営みだったら目も当てられない。感知したのも蔵人であったから、最初だけは蔵人がやったほうが早かった。
それに目視の判断は蔵人とて迷うが、匂いならば間違いようもない。
蔵人は出来るだけ見ないようにしていた村の女が、破られた服を着替え終えて立っているのを目の端で捉えた。
「動けるなら村の奴らを呼んでくれ。万が一もあるから、イラルギの婆さんにも」
女は頷く。
ああそれと、といって蔵人は放り投げられて目を覚ましていたアズロナを女に渡した。
「――ボディーガードだ」
蔵人が冗談めかしてそういったことで、女は強張っていた顔を緩めた。
なんだかわからないけどお姉さんよろしくね、という無邪気な目をして見上げるアズロナに女は笑みを浮かべ、震える手でアズロナをしっかり抱いてイラルギの元に駆けていった。
この世界の女は決して弱くない。気丈なものである。
「さて、と」
蔵人は蹴飛ばした男を見る。
ぴくぴくと尻を押さえて痙攣している男は、昨夜襲撃しにきた海賊と同じろくに洗濯もしていないような粗末な服を着ていた。武器は足元に転がっているナイフくらいのものだ。
蔵人がちょうどいいかと持っていた糸で海賊を拘束していると、雪白が心底嫌そうな顔をして二人ほど海賊をくわえて帰ってきた。
ばっちいとでも言いたげにぺいっと乱暴に海賊を捨てる雪白。
案の定、一組は村の男女であったようだ。
蔵人は雪白によって捕まえられた二人が何やら凄まじい形相ではあるが気絶しているのを確認してから三人をまとめて糸で縛った。
蔵人に捕まった三人の海賊は、飛竜災害や盗賊被害で食いつめた北バルークの農民であった。行き場のなかったところを遠縁のつてで今回襲撃事件を起こした海賊の元に身を寄せたという。
その村を襲った盗賊もまた食いつめた村人だというのだからやるせない。
三人は襲撃に参加したが、騎士や月の女神の付き人が出てきたからには助からないと早々に悟ったそうだ。
一人二人で逃げたところで寄る辺がなければ魔獣の餌になるのがオチである。
なら、最後くらい良い目をみてやる。
そんなつもりで襲撃を抜けだして文字通り岩場に潜りこみ、村が落ちつくのを待った。元は農村で土精魔法だけは一般人より使い慣れていたことが潜伏に一役買ったとか。
そして女騎士がマルノヴァに海賊を移送し、見張りも通常に戻ったのを確認して、女を襲った。
糸で縛られた海賊三人が船着き場で村人と月の女神の付き人たちに囲まれ、尋問されて語った事情はそういうことだった。
松明に照らされた女たちの表情は険しく、月の女神の付き人に至っては処刑すべきだとでも言いたげな冷たい目つきをしていた。
それもそのはずだ。
全て未遂で終わればよかったのだが、そうもいかなかった。
蔵人が救出した一人と雪白が救出した内の一人は未遂だったが、もう一人は事後であった。
幸か不幸かその女は未亡人で崩壊する家庭がなかったが、それでもその心の傷は計り知れないだろう。
ただ、この村は完全なサンドラ教ではない。
南部やこの地の土着信仰も混じっている。
犯された女が汚らわしいと村を放り出されることも、冷たい目で見られることもない。仮に子供が出来たとしても堕胎を非難するものもいない。
だからといって、女たちの怒りがおさまるわけではないが。
「で、貴様は夜釣りをしていた、と」
白鷲女は尋問を聞いていた蔵人をぎろりと睨む。
「そうだが?そこに釣果が転がっているだろ」
三人の海賊の横に、一メートルを超えるフグにも似たずんぐりむっくりな魚がデロンと転がっていた。
釣り糸で拘束しているのだから仕方がない。
「で、これは食えるのか?」
蔵人はその場にいたイラルギに聞く。
「……毒膨魚とはまた、随分と珍しいモンを。だけど残念ながら食えないね。毒が強すぎて薬にもならん」
この世界ではフグの調理法はないらしく蔵人はがっくりする。
その背後でその大きな魚に密かに期待を寄せていた雪白も、村の女から返却されたアズロナもイラルギの言葉を聞いてしょんぼりとしていた。
「そんな馬鹿馬鹿しい話をしているのではない。
貴様、なぜすぐに我らに知らせなかった。貴様が見栄を張って一人で解決しようと思わなければ、全員が無事であったかもしれんのだぞっ!」
事後であった未亡人はイラルギの子と孫、アイセとイサラに看病され、ここにはいない。
確かに一人目を見つけた時、月の女神の付き人を呼べば蔵人一人より早く助けられたかもしれない。
白鷲女の言葉に月の女神の付き人たちはその通りだという目をし、村の女たちもそうなのか?という目を蔵人に向ける。
「普通ならそうだろうな」
「何を開き直っている。確かに貴様が海賊だという証拠はなかったが、状況判断もできない卑劣なハンターだということはこれで証明――」
「――普通ならな。だが俺には雪白がいる。雪白なら、誰よりも早くその場を制圧できる。
そして俺は夜である限り、お前らより気配感知は上だ。現にお前らは海賊が動き出しても気付かなかっただろう?」
蔵人が一人目を救出したあと、月の女神の付き人たちに信用されていない蔵人がそこへ行って状況を説明してから救出に向かうより、雪白にやってもらったほうが早いと蔵人は言ったのだ。
月の女神の付き人たちの目がさらに険しくなる。
今この場においてはお前らは俺より無能だと蔵人に言われた気分なのだろう。
「何を証拠に――」
蔵人は白鷲女の言葉を最後まで聞かずに、背後の雪白に耳打ちをした。
くすぐったそうにした雪白だが、蔵人にアズロナを渡して、音もなくその場から消えた。
少なくとも、その場にいる多くの人間にはそう見えた。
「何をわけのわからないことを――」
――雪白が門番をくわえて戻り、白鷲女の言葉を遮った。
雪白に解放された門番の老人は何が何やらわからずにポカンとしてその場に座り込んでしまった。
「これより早いというなら、俺の判断の間違いを認める。土下座でも賠償でもやれることはなんでもする」
蔵人の言葉に、誰も反応しない。
それはそうだ。雪白の移動速度、制圧能力を超えられるのならそれば一つ星以上、いや一つ星でも足りないかもしれないのだから。
村の女たちは納得した。
月の女神の付き人たちもまた自分たちが気づけなかった海賊の動きを感知した蔵人の能力と雪白の力に、悔しげな顔をしながらもそれ以上異を唱えなかった。
「いや、色々調べたがお前の行動は不審な点が多すぎる。海賊襲撃時にも夜釣りなどしているくらいだからな」
白鷲女だけは納得しなかった。
「俺は海賊退治を依頼されていない。それに海賊退治の作戦も合図も知らされていない。余計なことをするわけにもいかないだろ。それに見ていたが、俺が手を出す必要などなかっただろうが」
「口だけはよく回るな」
「口を動かさなければ潔白を証明できないだろうが、お前は濡れ衣を甘んじて受けるようなマヌケなのか?」
「ただ怖くて震えていただけだと言ったらどうだ」
「男相手に手当たりしだい過剰反応する馬鹿女よりマシだろ」
蔵人の言葉に白鷲女の殺気が膨らんだ。
――グォンッ
首を引き千切られるような幻視をともなった雪白の咆哮に、白鷲女は無意識で飛び退っていた。
のそりと蔵人の後ろから顔をだす雪白。
いい加減目障りだとでも言うように、灰金色の双眸が白鷲女を睨んでいた。
「ちっ、猟獣がいなければ何もできない分際で」
何度目かのその言葉に、蔵人はため息をついた。
「いい加減に突っかかってくんのはやめろ。俺が何をした、言ってみろよ。俺は恥じるところなど一切ない」
白鷲女は蔵人を憎々しげに見る。
「ファンフを執拗に殺そうとし、理不尽な誓約を押しつけたのは貴様だろうがっ」
「決闘を仕掛けられて殺されそうになったから殺そうとしただけだ。あんたが言ったように、俺は雪白がいなければ凡百なハンターだ。だから、殺しに来た相手を救ってやるような余裕なんてない」
「誰が貴様に救ってほしいなどと言った。ファンフは、私が救ってみせるっ」
蔵人が屈服する以外に答えなどないのだろう。
何が白鷲女をここまでかきたてるのか。
アガサは蔵人をいないものとして扱っているがそれ以上のことはしないし、他の女たちも蔵人の言い分が分からないでもないが、自身の思想と組織人の立場から蔵人と慣れ合うことはない、そんな印象だった。
だが、この白鷲女はことさらに自分を敵対視している。
蔵人にはここまで敵対視される理由が分からなかった。
弱い女たちを優先的に守ろうとする月の女神の付き人。
火の粉が降りかかれば男女ともに容赦の出来ない蔵人。
本来であれば協力関係とて持てるのだが、ファンフによって両者は相対することになった。
それでも落とし所はあった。現に蔵人はそれを実行した。
だが、それでも足りないと白鷲女は言っているようだった。
蔵人もこれ以上は譲れなかった。
つまりは、もはや、根本的に相容れないということだ。
白鷲女の手が背中に吊るした大振りの曲刀に伸びる。
蔵人はそれを見ていつでも精霊に魔力を渡せるように準備し、雪白もまた脚に力を込めた。
「――ダウィ、おやめなさい」
そこにようやくアガサが声をかけた。
しかしという目をするダウィと呼ばれた白鷲女。
「ここでやり合うつもりですか?貴方もです」
アガサは蔵人を見た。
「人格者ぶるのはやめろ。前回も、そして今回もお前の目が耄碌したせ――」
――バンッ
「一言多いんだよっ。ここでドンパチする気かいっ」
いつのまに蔵人に近づいていたイラルギがすりこぎ棒を蔵人の尻に炸裂させた。
倒れるように雪白に寄りかかって尻を抑える蔵人。
イラルギはそんな蔵人を無視してアガサに向き直る。
「事情はともかく今回はこの阿呆のお陰なのは事実だ。憶測でひっかきまわすんじゃないよ」
イラルギに睨まれたアガサは言い返すこともせず、女たちと海賊を連れて立ち去ろうとした。
「そ、その糸と魚はおいてけ」
痛みにもだえながらも空気を読まない蔵人にダウィが再び声を上げかけるが、アガサの指示で糸と魚は返却され、今度こそアガサたちは去っていった。
張り詰めていた夜気が緩み、その場に残った全員がほっと息を吐いた。
「あ、ありがとうございます」
尻を押さえて雪白の背で前のめりになっている蔵人に、蔵人が最初に助けた女がおずおずと頭を下げた。他の女は精神療養中である。
まだ若干の震えはあったが、気丈にもそれを抑え込んでいるようだった。
「まあ、気にすんな。出来ることをやっただけだ。海賊退治はできなかったしな」
蔵人のかわりに、雪白が尻尾でぽんぽんと女の頭を撫でた。
そして蔵人も雪白に背負われたまま、魚を引きずってその場を後にした。
翌日の昼過ぎ。村の男たちが帰ってきた。
もちろん、漁は成功である。
村人総出で大口の引き上げにかかる。
それほど大きいのだ。
大口こと大口跳魚は地球でいえば鯨以上に大きい。頭部に突起物のない鮟鱇にもヒラメにも似たこの魔魚はその魁偉な様相とは裏腹に人を襲うようなことはなく、温厚で非常に頭がいいとされている。
しかし、大食漢であり放っておけば周辺の魚を食べつくしてしまうため、村の男が総出で狩るのだとか。
「ここ十年で一番の獲物だっ、ふははははははははははっ」
村長は高笑いが止まらないようだった。
男たちも肌寒いにも関わらず上半身裸で、それぞれに誇らしげである。
大口は捨てるところがない。
身体を覆う粘液は持続性の良いランプの燃料になるし、内臓や骨は薬に、皮は船や家の屋根に張ると水漏れがしなくなる。もちろん肉も美味い。
肉以外はどれも貴重品で久しぶりの現金収入が見込めるのだから、村人も笑顔になるというものだ。
蔵人は何人かの男たちにお礼を言われたりしながら、現物支給である大口の肉を雪白の機嫌が良くなるほど受け取ると、次の村に向かおうと門に向かった。
そこに、イラルギが立っていた。
「まったく、一言も挨拶がないとはね。礼儀がなっちゃいないよ」
蔵人は正体に気づかれまいと日本人としての礼儀を抑制するあまり、この世界の礼儀すらも疎かになっていた。日本とこの世界の礼儀の違いが分からないともいえた。
「ああ、すまん」
「まあ、いいさ。これからどこに行くんだい」
「適当にぷらぷら村を回る」
「そうかい。あんたらしいっちゃらしいか。じゃあ、がんばりな。もし行き場がなくなったらこの村に来るといい。こき使ってやるよ」
蔵人は考えとくといって、村の外に出た。
蔵人の後から門をくぐった雪白とアズロナは、何やら口をもぐもぐさせている。
どうやらイラルギから干した大口をもらったらしい。
蔵人はあの婆さんらしいなと苦笑しながら、次の村に向かった。
次の村ではとりたてて事件もなく、そこそこの依頼を終えると蔵人は約束の期日にバルティスに戻り、エカイツのもとを訪れた。
エカイツは自信ありげに、蔵人に依頼の品を見せる。
「これは……」