65-隠れ巣
雪白は不機嫌だった。
蔵人が頼むからこうるさい飛竜どものリーダーと話をつけたのだ。
それなのに帰り道、まず嗅ぎなれない匂いを蔵人のそばに感じた。
そして蔵人の姿が見えてくると、やはり匂いの通り見知らぬ生物を馴れ馴れしく抱いていた。
なにかよくわからないが、気にいらない。
ムスッとした様子で蔵人を睨む雪白。
だが蔵人は、雪白も想像だにしないことを仕掛けてきた。
手に持ったそれを、無造作に、雪白の頭に乗せたのだ。
雪白は怒るのも忘れて、ポカンとした。
蔵人はこともなげに言う。
「俺は街に行くこともある。その時、まだ幼いその飛竜を連れていくわけにはいかない。つまり、そいつの面倒は雪白にも見てもらわないといけない。だからもし雪白が嫌なら捨てるなり、食べるなりするといい。これに関しての判断は任せる。何かと頼ることになるのは目に見えてるしな」
そういって蔵人はスタスタと巣らしき穴ぐらに向かってしまった。
雪白が慌てて後を追おうとすると、頭上の雛がコロンと転げ落ちる。
自重が軽いせいか、怪我はしていなかった。
それどころか鳴きもしないでなんとか前に進もうと、おそらくは蔵人についていこうとして、ジタバタともがいている。
捕食者である自分が目の前にいるというのに怯えもせず、蔵人についていくこと、ただそれだけが生き延びる方法だとでも言うように必死だ。
よく見ると目は一つしかないし、足もない。
飛べもしない翼が四枚あるだけだ。
これでは生き残れないだろうと雪白は飛竜の雛から視線を外した。
こいつを捨てたところで蔵人は何も言わない。
任せると言った以上は、どういう判断をしても恨み事は言わないし、引きずるようなこともしない。
雪白はしばらく考えていたようだが、蔵人の後を追うことにした。
ブラッシングが待っているのだ。
飛竜の巣のニオイが、身体に纏わりついているような気もした。
水浴び、いやお風呂にも入りたい。
雪白は蔵人が消えた穴ぐらにピョンと潜りこんだ。
その長い尻尾に、一つ目の蒼い飛竜の雛をしっかりと巻きつけて。
雪白が戻る前に蔵人は飛竜の雛をつついたりしてみたが、しばらくしても一向に他の飛竜が来ることはなかった。
やはり、捨てられたのだ。
蔵人はそんな飛竜の雛を哀れに思った。
そして捨てられている姿に、捨てられたわけではないが、ある意味で置いて行かれた雪白の幼い頃を思い出した。
高位魔獣を雛の段階で手に入れるのは難しい。
飛竜の場合であれば、国レベルで卵の強奪部隊を組むか、高ランクハンターが集まって狩るしかない。未だ、人工繁殖は成功していなかった。
その上、飛竜のように調教技術が確立されていればいいが、多くの高位魔獣は調教技術が確立していない。雛の段階で奪ったとしても、懐かない可能性はもとより、生かし続けることも難しかった。
そんな理由もあって猟獣として高位魔獣を個人で使っているものはそれほど多くなかった。
蔵人は飛竜の雛を育てる気になっていた。
もちろん役立たずでは困るが、将来大きくなってその背に乗せてくれればそれでよかった。
飛ぶのでもいいし、海に浮かぶのでもいい。もし大きくならないなら、猟の偵察程度にでも使えればいい。
蔵人とて空を飛んでみたいという人並みの欲求を持ち合わせている。
雪白も飛べるが、あれは滑空だ。クメジア共和国からラッタナ王国に単独で移動してきた時も跳び上がっては滑空、跳び上がっては滑空を繰り返したらしい。
自由に飛ぶ、という訳ではなかった。
だがなんにしろ、まず雪白の了承を得なくてはならない。
雪白が嫌がったら、そこで終わりだ。
飛竜の子と雪白ならば、雪白を優先する。
蔵人はくりっとした一つ目でまじまじと蔵人を見上げる緑鬣飛竜の奇形、いや変異種の子を持ちあげる。
意外と、暴れない。
小さな身体で蔵人を観察しているようだった。
まあ、なんとかなるだろう。
ならなかったらそれだけのことだ。
蔵人は早くも不機嫌そうな顔をしてこちらに戻ってくる雪白を迎えにいった。
飛竜の子はアズロナと名付けた。
雪山で見た蒼月の色に似ている、という理由であった。
例によって蔵人には性別が分からなかったため、どちらでも通用しそうな名前にしておいた。
ユーリフランツで蒼月はアズロナだが、エルロドリアナではシルゥナ、ラッタナではシフージャ。もしエルロドリアナにいればシルゥナに、ラッタナにいればシフージャになっただろう。
蔵人のネーミングセンスはそんなものだった。
土鍋に入った白い液体が、火精に熱せられてコポッ、コポッと泡を吹いた。
朱い月光に照らされて、ほんのりと朱い竜山の夜は、肌寒い。
土鍋から上がる湯気が温かそうだ。
蔵人と雪白、そして蔵人に抱えられたアズロナは蔵人の掘った洞窟の外で夕食を食べていた。隠れ巣はまだ蔵人と雪白が眠れるだけのほら穴に過ぎず、そこで火を焚くのは避けたかった。
蔵人の背後では、焼いた肉をもらってかぶりついている雪白がいる。
しかし、視線はチラッチラッと蔵人の背中に向けられていた。
蔵人は残り少ないフランスパンのような携帯食を溶かした白い液体を指で掬い、軽く冷ましてからアズロナの口元に持っていく。
噛みつくように蔵人の指を咥えるアズロナ。
細かな歯の感触を感じながら、蔵人は指を引き抜き、また溶かした携帯食を掬ってアズロナに与えた。そしてその間、ほんのわずかだけアズロナの体内で命精魔法を作用させた。
歯があるのだから肉を柔らかくしたものでも良さそうだったが、蔵人にはある危惧があった。
蔵人の知る限りにおいて奇形は生命力が弱い。すぐに死んでしまうイメージがあった。
現に片手サイズのアズロナは軽く、翼や胸骨が折れてしまいそうなほど脆い手触りだった。
それゆえに『月の女神の付き人』の水分至上主義者もとい水分を主食とするディアンティアいわく、魔力を僅かにでも回復させるというこの携帯食を与えることにしたのだ。
魔力とは余剰生命力のことである。
アズロナの飛ぶことすらできない魔力では命精魔法を作用させたら、アズロナ自身の魔力が枯渇して死んでしまうかもしれないが、魔力を回復しながらならば、命精魔法を作用させても問題はない。
蔵人は奇形の身体を、生存するだけでも負荷のかかる構造の身体なのだと考えていた。
それゆえに奇形が成長することが出来れば、変異種として通常の個体より強い個体となる可能性が高いのではないか。この世界に置いて、奇形と変異種の違いは成体まで育つことが出来るかどうかに過ぎないのではないかと。
だが多くの奇形はその身体構造を維持することができずに死んでしまって生存率が低く、そのため変異種も数が少ないのではないか。
ではアズロナを生かすにはどうしたらいいか。
構造を変えることは、生命体の設計図ともいえる命精がいるためにできない。
ならばアズロナの身体構造そのものの強度を生存可能な領域まで引き上げることにした。
日本ではどうにもならなかったかもしれないが、この世界には魔法がある。
命精魔法によって外部から治癒、強化のイメージでもってアズロナの命精に働きかける。
これによって身体構造そのものを普通に生きていくレベルまで引き上げられると蔵人は推測していた。
というよりも専門家でもない蔵人にはこれくらいのことしかできなかった。
細かな計算などできるわけもなく、想像して、感覚でやるしかなかった。
見たところアズロナは元気にエサを食べ、悪い方向にだけは作用してないようなので、あとは運次第だろう。もう出来ることはなかった。
溶けた携帯食を半分ほども食べると、アズロナはさらにぽっこり膨らんだ腹を上にして満足げに眠りだした。
携帯食は残り少なかった。なんとか成長が安定するまでもつといいのだがと考えながら、蔵人は手の平の上で眠るアズロナの既に生え揃っている蒼い鬣を指で撫でる。
硬めの毛は、雪白のふわふわした毛と違い滑らかだった。
アズロナはくすぐったそうにその小さな身をよじる。
蔵人はアズロナを布袋を重ねた上に置き、その上にまた布をかぶせた。
そしていい加減に不機嫌のピークに達したであろう、背中に突き刺さる視線の主を振り返る。
ぷいっとそっぽを向いて寝そべっている雪白。
肉を食べ終えて、すでに洞窟の中にいた。
蔵人はブラシを三つ取り出す。
小さな耳をぴくっと動かし、チラッと一瞬だけこちらを見た雪白。
それでも動こうとしない。
蔵人はやれやれと立ち上がると雪白の背後に回る。
また反対方向にぷいっとそっぽを向く雪白。しかし、小さな耳はぴくぴくっと動き、尻尾がソワソワしている。
蔵人は黙って、雪白の毛を梳き始めた。
一番ブラシではそんなことで誤魔化されないんだからねとでも言いたげに顔を背けたままだったが、二番ブラシ辺りで力が抜け始めて悔しげに唸り、三番ブラシではもう身体を十分に伸ばし切って、脱力の極みに達していた。
蔵人は立ち上がって布に包まれたアズロナを抱き上げ、雪白の白毛に覆われた柔らかな皮膜に乗せ、そのまま自分も伸びきった雪白の腹を枕にして眠った。
雪白も微かに目を開けたが、不機嫌になることもなく、そのまま静かに目を瞑った。
翌朝。
蔵人が目を覚ますとアズロナは雪白の尻尾の渦に囲まれて眠っていた。
アズロナは寝ぼけてあぐあぐと雪白の尻尾に噛みついているが、雪白は気にした様子もなく目を瞑っている。
蔵人は今の内にと家の拡張を始めた。
朝っぱらから忙しないことだが、土精魔法の部屋作成はそれほど大きな音はしないため気兼ねすることはなかった。
七日後にはランクアップ試験もある。急いでおいたほうがよかった。
魔力は七割ほどまで回復している。十分だ。
基本構造はアレルドゥリア山脈と同じでいいかと蔵人は独り呟いた。
入口の洞穴から奥に通路を伸ばし、まず囲炉裏を置く居間に当たる部屋をドンと作る。
通路に引き返して貯蔵庫、トイレと作成して一割半ほど魔力を使ったところで、一旦外に出る。
ひんやりした風と温泉の匂いのするぬるい風が入り混じって、頬を撫でていった。
朝日は地平線から僅かに顔を出し、どこからか飛竜たちの鳴き声が聞こえてきた。
蔵人は洞窟の横を這い上がり、温泉の湧き出て溜まる場所に向かった。
水たまりより小さな温泉溜まり。
それを拡張していく。
アズロナがどれくらいの速度で成長するか分からないので大きめに作り、熱気が洞窟内に伝わらないように、温泉は露天風呂であった。
そこから山肌を削って洞窟とつなぎ、その間にもう一つ部屋を作り、そこから外の露天風呂に通じるようになっていた。出入り口を塞ぎ、もう一つの部屋を潰せば大きな温泉溜まりのある山肌にしかみえないようになっていた。
――ギーッ!ギーッ!
少し大きく作り過ぎたかと、露天風呂の底にほとんど水たまりといっていいくらいしか溜まっていない温泉を見ながら思っていると、アズロナの鳴き声が響いてきた。
まるで親を呼ぶ雛鳥のようであった。
魔力的にもここまでかと蔵人はアズロナの元に向かった。
長い尻尾が空中をあわあわと泳ぎ、雪白がオロオロしているようにも見える。
泣き続けるアズロナをもてあましているようだった。
蔵人は珍しいものが見れたとほくそ笑みながら、アズロナを抱き抱える。
少し鬣をくすぐってやるとアズロナは泣きやんだ。腹が減っているようでまだぐずっているが。
だが抱き上げたことでアズロナも、そして雪白もどこかほっとしたようだった。
「くっくっくっ」
そうニヤニヤして雪白を見たのがいけなかった。
――ズバァンッ
蔵人の尻が、弾けた。
アズロナを片手に抱えたまま、前のめりになって尻を押さえる蔵人。
雪白はフンッと鼻を鳴らし、蔵人をしばいた尻尾を揺らめかせながら、いつものように朝の散歩兼狩りにいった。
アズロナは芋虫のように這いつくばる蔵人の頭をガジガジと齧る。
お腹すいた―とでも言いたいのだろう。
蔵人は一言多かったなと苦笑しながら、そして尻を押さえながら、土鍋に残しておいた携帯食の残りを火精で熱し始めた。
姿勢はしばらく芋虫のままだったが。
そんな風にしてこの四日間は雪白の機嫌を取りつつ、アズロナを養育し、さらには巣も拡張しながら、朱月の九十二日、試験三日前の夜を迎えた。
蔵人は明日の早朝には竜山を降り、昇格試験の行われるマルノヴァに行く予定になっていた。その間、アズロナは雪白が面倒を見ることになっている。
雪白とアズロナの仲は悪くない。
今も朱い月明かりの下で蔵人、雪白、アズロナは温泉につかっていた。
三日前に温泉は溜まりきってはいたが、水が濁っていたり、縁が崩れたりするので、石を切り出して並べていったりして、結局完成は今日になっていた。
蔵人が温度調整を終え、雪白が足先でちょんちょんと温度を確認すると真っ先に飛び込んだ。
あふれて流れ出るお湯、ほんのりと朱い夜に立ちこめる湯気。
アズロナは初めての温泉だったはずだが、嬉々として身をよじり、蔵人の手から転がり落ちるように温泉に飛び込んだ。
そして温泉にぷかーと浮かび、足代わりの後翼でせっせと泳ぎ始めた。
アズロナは随分と身体もしっかりとし、今では両手サイズほどになっている。
どうもこれが孵化直後の飛竜の雛のサイズらしいとわかったのは、同じく孵化を始めていた緑鬣飛竜の雛を鬣のない緑鬣飛竜に頼んで、雪白がごり押しして見せてもらったおかげだ。
立派な鬣を見せつけるように威嚇しながらズラリと並ぶ緑鬣飛竜に囲まれて、雛を観察させてもらった。
緑鬣飛竜たちは蔵人に対してかなり警戒している様子だったが、雪白とは決して目を合わせようとしなかった。若干震えているように見える個体もいた。
鬣のない緑鬣飛竜はすでに達観した瞳で、いつもどこか遠くを見ている印象だ。
ご愁傷さまである。
それはともかく、そこで見た生まれたばかりの雛は今のアズロナと同じくらいの大きさだった。
つまりアズロナはようやくスタート地点に立ったということだ。
携帯食も食べつくし、明日からは雪白が狩ってきた肉を、雪白が噛み砕いて与えることになっていた。
そんなことが出来るくらい雪白とアズロナの関係は改善していた。
というよりも雪白が僅かな間に雛の扱いを覚えたといってよかった。
ぼへーと気を抜いた様子で温泉につかる雪白。
ゆらゆらと水面に漂わせている雪白の尻尾にじゃれついているアズロナ。
まるで歳の離れた弟妹をあしらう姉のようである。
蔵人はひょいとアズロナを持ち上げる。
くりっとした黒瞳でなにー?と蔵人を見上げてくるアズロナ。
蔵人は大きめの歯ブラシにしか見えない洗い用ブラシを取り出し、アズロナをキュッキュッと洗いだした。
雪白は風呂の前にざっくりとブラッシングしてあるので、アズロナが先であることを気にした様子もなく、気持ち良さそうに温泉につかっていた。
蔵人に洗われてくすぐったいのかジタバタと暴れるアズロナ。
それを押さえつけて鱗と鱗の溝まで綺麗に洗う蔵人。アズロナの尾にはまだ毒針がないので危険はない。毒針が生えるかどうかすらわからないが。
このゴムブラシのようなものは洞窟近辺でたまたま見つけた、木自体がゴムのように弾力のある低木で、その枝の先端部分を集めて蔵人が作ったものだった。
洗剤はないためお湯で擦るだけだが、見る見る汚れが落ちていく。
あらかた洗い終えると、アズロナの頭から温泉をざっぱりとかける。
ぷるぷると首を振って、水分を払うアズロナ。
蔵人の手が緩んだことに気づいたアズロナは逃げるようにジタバタと温泉に飛び込んだ。
アズロナはまだ飛べない。
飛竜の雛もまだ飛べないようだから当然ともいえた。
それを見て、露天風呂からザバッと身を起こす雪白。アズロナは雪白が動いてできた波にさらわれて、楽しげに遊んでいた。
雪白は蔵人の前に寝そべり、さあ洗え、と催促する。
蔵人はへいへいと言いながら、雪白用の大きい洗いブラシを取り出す。
これは雪白用にゴム質の低木の小指ほどの枝を束ねて作ったものだ。
ゴシゴシと雪白の大きな身体を洗う蔵人。
目を細めて気持ちよさげな雪白。
蔵人が自分の身体を洗うことが出来たのは随分あとのことだった。
アズロナは初めての温泉で疲れたのか、時折、ぎぷーという寝息を立てながら雪白の尻尾にくるまって眠っていた。
大きくなった居間は雪白が寝そべり、蔵人が大の字に寝ても、まだ余裕があった。
アズロナが成体の大きさになったとしても問題ない大きさがあった。アズロナの成長速度が分からない以上、全てを大きめに作る必要があった。
そしてさらにこの居間には地下に降りる階段すらあった。螺旋階段なんてものを作ったのは完全に蔵人の趣味である。
そのほかにも石精が感じられるようになり、構造物の強度に不安がなくなった今、蔵人は日本では出来なかった自分の家づくりを好きなようにやっていた。
部屋の中心には囲炉裏があったが、壁際にもう一つ暖炉のような窯があったり、キッチンのような場所があったり、作った大きな棚に調味料が置かれていたり、壁に沿った机とスツールなんかもあった。
今も、そしてこれからも雪白やアズロナと一緒に居間で寝起きするのは変わらないが、雪白の機嫌が悪い時もある。そのとき避難できるように地下にはベッドも作って備え付けてあったが石造りのそれは寝心地がいい訳もなく、基本的には研究室の仮眠室のようなものである。
蔵人は試験のついでに布団や毛布などを買ってこようと決めていた。
雪白の白毛をブラシで梳く蔵人。
現在は既に第三ブラシであり、雪白はこっくりこっくりと舟を漕いでは目を覚まし、ブラッシングタイムをのがしてなるものかという様子で睡魔と闘っていた。
ズシン
大型の獣が倒れたときのような音が洞窟内に響き渡り、雪白が跳ね起きた。
音がするまでまったく気付かなかったことを恥じているかのように、雪白は蔵人にアズロナをポイと渡し、音のした露天風呂のあるほうに飛び出していった。
蔵人も未だ寝ぼけているアズロナを抱えて、その後を追った。
この時ばかりは、朱い月明かりの夜が鬱陶しかった。
血を予感させて、気分が悪い。
露天風呂に出ると雪白が臨戦態勢で牙を剥き、唸りを上げていた。
その双眸の先には、骨がいた。
まさしくアンデッドの人型スケルトンと呼ばれるだろう存在が一人。
そしてその背後に飛竜よりも一回り大きな飛竜の骨、ボーンワイバーンとも呼べそうな一頭がいた。
人型スケルトンは色彩の鮮やかな布を幾重にも纏い、腰にはレイピアがあった。
夜空に浮かぶ朱月がスケルトンの背後の岩山に差し掛かり、その下にいるスケルトンが仄かに朱く照らされていた。
骨というものに対する、本能的な恐怖を感じた。
よく考えれば侵入者に対して襲いかかるであろう緑鬣飛竜たちが頭上にすらいない。
蔵人は背に冷や汗を感じながら、片手で懐の魔導書を握り締めた。
「――敵対する気はない」
アンデッドが喋ることはない。
だがこのアンデッドは喋っていた。
雪白を前にしても余裕のある、割と高めの声だった。
雪白は未だに警戒を解かない。
「なんのようだ」
蔵人はなんとか表面上平静を保ったまま、答えた。
スケルトンの顎骨が上下に動く。
「こいつを洗ってやる約束でな。ちょうどいい場所を探していたら、ここを見つけた」
スケルトンが背後に首を振った。
背後のボーンワイバーンが微かに口を開いて、それに返事をしたようだったが、声と呼べるようなものは発せず、ガタガタと大きな骨の動く音だけがあった。
「ここは俺の家だ、他所にいってくれ」
スケルトンが考えるそぶりを見せる。
「ここで洗わせてくれないか。なんせこの巨体だ、まともに洗えるところが少ない。それにせっかく温泉があることだし、ここで洗ってやりたい」
「……精霊魔法は使えるんだろ?どこか他の場所で適当に洗い場を作ればいいだろ」
「……なるほど。オマエは骨人種を知らないのか」
初めて聞く種である。
「大方、アンデッドのスケルトンか怪物だとでも思っているんだろうが、ワタシは骨人種だ。そして骨人種は精霊魔法を一切使えない」
「あんたがアンデッドではないという保障も、敵ではないという保障もないだろう」
「光でも聖霊でもぶつけてみるといい。そんなものはなんの意味もないがな。それにどうにも警戒心が強いようだが、オマエを殺すつもりなら有無を言わさずに襲っている」
アンデッドならば『光』、怪物ならば『聖霊』を嫌う。
蔵人は言葉通り、聖霊を纏わせた無害な光精をスケルトンの前に浮かばせた。
出来るだけ、刺激はしたくなかった。
「……ほう」
そう言いながら自らを骨人種というスケルトンは聖霊を纏った光精に指で触れた。
何も起こらない。
アンデッドならば指が溶けだして煙を上げるし、怪物ならば聖霊に触れるだけでもがき苦しむ。そもそも両者が自ら光や聖霊に触れようとすることはない。
「これでワタシがアンデッドでも怪物でもないと証明されたわけだが」
「……この場所と俺たちのことを誰にも話さないなら好きに使っていい」
蔵人は雪白のそばに寄って、逆立った毛を撫でてなだめる。
「約束しよう」
骨人種の返事を聞いてから、蔵人と雪白は洞窟内に戻っていった。
あの巨体を洗い終えるまでジッと見ているのもたまらない。
居間に戻ってきてから、どことなく落ち着かなかった。
ボーンワイバーンを洗っている音が、洞窟の居間にまで聞こえてくるような気がした。
骨人種とボーンワイバーン。
どちらか片方ならば雪白が対処できたかもしれないが、残ったほうを蔵人が相手取るのは難しかった。
それがわかっていたため雪白は威嚇以上の行動をしなかったし、蔵人も平和的に終わるのならと露天風呂の使用を許可した。
アズロナも幼いながら野性の魔獣らしく、奴らを見てからは緊張しっぱなしで眠る様子はなかった。
どれだけの時間が経ったのか、骨人種が通路から姿を見せた。
「助かっ――」
洞窟内の、蔵人が手掛けた部屋を見て、骨人種は無言になった。
表からみた洞窟からはまったく想像できない内部構造に言葉を詰まらせたらしかった。
しかし骨人種は何事もなかったかのように、
≪助かった。約束は守る≫
調子の違う言葉でそう言って、去っていった。
蔵人は狐につままれたような気分だった。
夜半に骨が現れて、露天風呂で骨を洗い、礼を言って帰っていく。
冗談のような話である。
蔵人は立ち上がって、通路から外に出た。
乗った人が見えないほど遥か先を、ボーンワイバーンが飛んでいた。
蔵人を追いかけてきた雪白もまた、珍しく呆気にとられたような顔でそれを見つめていた。
骨人種にかかされた汗が、ひんやりとした山の風でさらに冷える。
蔵人はぶるりと肩を震わせると、洞窟に引き返した。
洞窟の通路の端に、何かが置かれていた。
何かの入った小袋である。
洞窟を出るときはまったく気付かなかった。
雪白がフンフンと匂いを嗅ぎ、それを咥えて蔵人に突き出す。
蔵人はそれを受け取り、中を見た。
金の粒。それがぎっしりと詰まっていた。
礼のつもりだろうか。
蔵人は不思議なこともあるものだと、その金粒の詰まった小さな袋を見つめた。
部屋に戻るとアズロナがぎぷーという寝息を立てて、妙な寝相で眠っていた。
首があられもない方向を向き、胴体がねじられ、四翼があべこべに上下していた。
いったいどうすればこうなるんだかと蔵人は苦笑しながら、アズロナを持ち上げると布に包んだ。
「……寝るか」
蔵人がそう言うと雪白もいまさらブラッシングをしろと言う気はないらしく、尻尾でしゅるりとアズロナを受け取ると、居間にゴロリと横になった。
蔵人は洞窟の入り口を土精魔法で蓋をすると、雪白の柔らかな腹を枕に眠った。
尻尾を掴まれ、逆さまでぷらんぷらんしているアズロナ。
何故かギーギーと喜んでいる。
一番最初に目を覚ました蔵人がいつもの悪戯心を起こして、寝ているアズロナの尻尾をつまんで持ちあげたのだ。
楽しそうなアズロナをくすぐりながら、昨日は不思議な夜だったと思い起こしていた。
この世界に来て、一番不可思議な夜だったような気がした。
のそりと雪白が起き上がる。
またアホなことをしてという呆れた目で蔵人を見る雪白。
蔵人はアズロナを雪白の頭にぽてりとのせる。
「移動で一日、試験で四日、帰り道で一日、まあ余裕をみて八日もあれば帰って来られると思う。その間、アズロナのことを頼む。アズロナも雪白のいうことをちゃん聞いてくれ」
蔵人がそう言うと雪白が喉の奥で小さく唸り、アズロナもわかったーとでもいうようにギーと鳴いた。
蔵人はフル装備で、この間売りそこなった素材と新たに手に入れた素材を突っ込んだ布袋、食料リュックを持ちあげた。
調味料は作った棚に入れてあったし、肉のほとんどは氷精で凍りつかせた貯蔵庫に入れてあった。
蔵人は雪白の耳裏を軽く掻いてやり、アズロナの喉元をくすぐってやった。
ギッギッと喜ぶアズロナ。
雪白も満更ではなさそうだった。
そうして蔵人は二匹に見送られて、日も昇らぬ、朝霧の立ち込める竜山を降りて行った。
竜山は、降りるほうが蔵人としては容易だ。
なんせ崖や絶壁の多い急峻な山だ。強化して飛び降りながら進めばいいのだから、わざわざ迂回したり、土精魔法で絶壁を登るよりも楽で、何より早かった。
太陽が真上に登る前には竜山の麓に辿り着き、そこから闇精魔法で気配を薄めながら森を抜け、そこから強化して走り続けた。
途中、マルノヴァに向かって走っていた魔獣車に交渉して乗せてもらった。
日も落ち切り、歓楽街が賑やかになる頃、蔵人はマルノヴァに到着した。
蔵人はそのまま門を潜って、協会に向かう。マルノヴァの門は、大きな港街であるせいか遅くまで開いていた。
日を跨いではいないが、こんな夜遅くに協会へ来るハンターは多くない。
受付では並ぶ必要もなかった。
「九十五日の昇格試験だが、受けられるか」
白系人種の女性職員が手元で何かを確認する。
「可能です。タグをお願いします」
蔵人はタグを取り出して、渡す。
「……条件も満たしていますね。では朱月の九十五日にこの協会で行われる講習からご参加ください。この講習に参加することも昇格の条件ですのでご注意を。
それと支部長から話があるそうで、明日の午前中に協会に来て下さい。時間は大丈夫ですか?」
決闘を仕掛けてきたファンフのことについてだろうとなとあたりをつけて、蔵人は頷いた。
「問題ない。ついでに、依頼があれば適当に受注して、残りは買い取ってくれ。受注書と買取書も頼む」
そういって蔵人は持っていた魔獣素材や竜山下層の素材が入った布袋を受付カウンターに置いた。
もちろん前回よくわからない交渉を持ちかけられた朧黒馬の皮は除外してある。
「わ、わかりました。少々、お待ちください」
それなりに重い布袋をよっといって持ちあげ、奥に持っていく女性職員。
塩漬けも含めて依頼達成数は五つ、五千ルッツにも満たない額だったが、残っていた素材を協会に買い取ってもらうと一万ルッツほどになった。素材の難易度こそ高くないが、ラッタナ王国から北上してきたのでこの辺りでは珍しい素材もあったようだ。商会に買い取ってもらえばもう少し高いだろうが、面倒であったし、そこまで金にこだわる必要もない。協会で売れば、僅かとはいえ協会への貢献にもなる。
骨人種からもらった金粒は売らずに、緊急用として取っておくことにした。紙幣の通用しない地域もあるかもしれないのだ。
報酬は全て口座にいれて、蔵人は協会を後にした。
適当な宿をとって、その日は久しぶりにベッドで寝た。
翌朝、蔵人はすでに協会にいた。
とっとと用事を済ませてしまいたかった。
朝の喧騒に包まれるロビーを抜け、支部長室に通される。
まだ現役だといっても通用しそうな身体の支部長は蔵人をソファーに誘い、向かい合う。
そして支部長は重々しく、口を開いた。
「呼び出してすまないな。用件はあの決闘のことだ。
結論からいえば、あの少女はジョゼフ氏の預かりとなる。
……公的な罰則は、ない」