5-魔獣③
夕日に赤く染まった巨体は洞窟の入り口を塞いでなお、全体が見えなかった。
灰金色の瞳がジッと蔵人の瞳を見つめていた。
蔵人は瞳を逸らすことがすらできないでいた。
圧倒的な畏怖が蔵人を支配した。
理不尽に対して生じる怯えや悪意に生じる不気味な恐怖ではなかった。
自らの想像を超えた大きな生命に、自然に殉じてしまおうといった心であった。
蔵人はそんな心を自分が持ち合わせていたのだなとどこか遠い気持ちでいた。
そしてそれに納得してしまった蔵人は瞳を見返したまま、身体の力を抜いた。
魔獣が鼻で笑った。
確かにそんな感じであった。
その鼻先は蔵人を洞窟の壁に押しのけ、洞窟の入り口をくぐる。
壁と巨体に挟まれた蔵人は予想外の柔らかさに、子猫のような柔らかな身体とどこまでも埋没していきそうな黒い斑紋のある白毛に声もなく埋もれていった。
蔵人が通り過ぎていく魔獣に合わせて洞窟の壁が拡張されていたことにようやく気づいたのは、魔獣が最奥の部屋に顔を突っ込んだでときのことであった。
その後姿をただただ見送ることしか蔵人にはできなかった。
命はどこかに預けてしまった心持ちでもあった。
いつのまにか夕日が落ち切り、闇精が世界を漂いだしていた。
蔵人は闇精に追い出され始めた光精を具象化し、洞窟の通路を照らす。
そこには通路の中ほどに向かい合う二つの穴があった。
一つは蔵人が百八十日の間に土精魔法でコツコツ作成して蓋をしておいたトイレと浴室への入り口で、もう一つは魔獣が一瞬で作り上げた最奥の部屋に似た小部屋だ。
圧倒的な魔法技術の差に蔵人は苦笑いしか浮かべられない。
自分がこの世界において生後百八十日程度の人間なのだと思えば、慰めにもなった。
否、やはり比べることすらおこがましいのだろう。
小部屋を作った魔獣はぬっと洞窟から出ていくと、闇の向こうへと音もなく飛翔した。
光精の明かりがわずかに及んで見えた姿は、巨大なモモンガのようであった。
前足と後足の間にある皮膜を大きく広げ、見下ろした先にある向かいの山肌に溶けこむように滑空して消えた。
蔵人はあまりのファンタジーさにめまいを覚える。
尾が恐ろしく長いとはいえよく似た雪豹の延長線上の生き物だと勝手に思い込んでいた。
魔獣はまた音もなく洞窟に降り立つ。
氷の塊を尻尾に巻きつけ、そのまま新たに作った部屋へ放り込む。
そしてまた滑空していった。
それを幾度か繰り返した。
集中して観察してみれば、ホンのわずかしかない風精をかき集めているようであった。それでもってしてあの巨体を空中に浮かべているのだから意外に必死なのかもしれない。なぜ跳躍せず、滑空しているのか、そのへんはさっぱりわからないが。
人は空を飛べない。
それはこちらの世界も変わらないようだ。
それが原則である。高空ともなれば風精の少なさもあってなおさらである。
空を飛ぶには特殊な道具や調教した魔獣をもってしてようやく可能となるのだ。
蔵人は部屋に戻って、魔法教本を読んでいた。
もうどうにでもなれ、という心境である。
部屋に戻る際に小部屋をヒョイと覗きこむと、氷がいくつも鎮座し、部屋中がどこか白っぽく、ひんやりしている。鹿や猪に似た動物や見たこともないような動物が冷凍保存されていた。
見なかったことにして部屋へ戻ったのはいうまでもない。自分も食料として確保されているような気がしないでもかったが蔵人は考えないことにした。
戻ってきた最奥の部屋も置いてあったリュックサックの位置から考えると一回り以上大きくなっているようだったが、もう蔵人にはそんなことはどうでもよく、リュックサックを部屋の隅に移動してそれを背に本を開いたのだった。
―みっ、みーみぃーっ
聞きなれない鳴き声に蔵人は教本から顔をあげた。
蔵人の真反対に巨体で優雅に寝そべっているのはあの魔獣であったが、その顔の前で尻尾にじゃれついて鳴く子猫がいた。
尻尾がやはり異様に長いことからこの魔獣の子どもであろうことはすぐにでもわかった。
子連れの猛獣に近づくのが自殺行為であるというのはおそらく常識であろう。
蔵人もそれを知っていたので、一応近づかないことにする。近づかれたのは蔵人であったが。
今日はいろいろあり過ぎたなと蔵人は一つ伸びをしたが、また教本に視線を落とした。
腕時計を見ると、もう明日になりそうであった。
ナイフを出して一文字を削るのは慎重を期して明日の朝にする。ナイフを取り出して警戒され、マルカジリされてはたまらないと蔵人はごろりと横になった。
シュルシュルとふわふわした何かが巻きついた。
金縛りにあったように動けなかった蔵人はひょいと浮かぶと、ふかふかに埋められた。
蔵人の意思に反して、蝋燭の火が消されるように光精が散って消えた。
全て、魔獣の仕業のようだ。
もしかしたらマルカジリかっと蔵人は首だけでどうにかして魔獣を見ると、暗闇に双眸が一瞬だけ光ったようにも見えたが、すぐにそれもみえなくなった。
尻尾は蔵人の四肢に巻きついたままだったが、それでいて窮屈なわけでもない。
そのせいだろうか、誘われるような眠気に抗いもせず、目を瞑った。
蔵人は久しぶりに柔らかく温かな寝床で眠りについた。