36-月の女神の付き人②
こんなに広い部屋だったのかと、今更ながら蔵人は思う。
雪白と二人で囲炉裏の片方に座っていると、向かい側にぽっかり穴ができたように感じた。
アカリはオーフィアを外で野営させて自分が洞窟にいるわけにはいかないと、外で野営している。
マクシームはアリーと数人を連れて、山を降り、村へ向かった。
『月の女神の付き人』の女たちが討伐した大棘地蜘蛛を担がされたマクシームは、一昼夜は空白になるといわれる討伐した大棘地蜘蛛の縄張りを通って行った。
煙木を吸う暇もないと嘆いていたが、せいぜいこき使われるといいと蔵人は思っている。
雪白の背にもたれながら、蔵人はふと、寂しさを感じている自分に気づく。
群れないから、寂しいのだ。
この寂しさは、自由の証明だ。
ならば自分は、自由を選ぶ。
そう、言い切れれば良かったのだが、人恋しい自分もいる。
それもやはり、手放せそうにはない。
アカリやイライダ、何より雪白といる時間が楽しくない、とは言えないのだ。
しゅるりと雪白の尻尾が蔵人の頬を、撫でる。
蔵人はふっと相好を崩し、無言で雪白の喉元に手をまわして、軽く掻いてやった。
「蔵人さん、起きてますか?」
アカリの声に蔵人はゆっくりと目蓋を開く。
雪白を背にしたまま、ただ目を瞑っていただけだった。
蔵人が目を覚ましたのを確認して、アカリは対面に正座をする。
夕暮れがアカリの顔に差し込んでいた。
「なにかようか?」
「……その、色々すみませんでした」
アカリが深々と頭を下げた。
蔵人は頭を下げるアカリが妙に小さいこと気づく。
元々小柄であるが、ずいぶんと華奢だ。
まだ十七歳。自身とはおよそ十歳違う。飛ばされた頃は十五か十六。
子どもだったんだな、と今更ながらそれが強く印象に残った。
「なにがだ」
アカリが顔を上げる。
「私がここに逃げ込んだこと。村で理不尽な目に合わなければならなかったこと。マクシームさんが私のために約束を破ったこと。蔵人さんと雪白さんの生活を崩してしまったこと、他にもたくさん……」
今にも泣きそうであるが、堪えているらしく決して泣かない。
「それは仕方ないだろ、マクシームにとって俺はいつのまにか現れた得体のしれない男なんだからな。俺とアカリを天秤にかけたら、アカリを選ぶさ」
うっすらとアカリとの関係からその出自くらいは気づいたかもしれない。よもや力を奪われた勇者だとは思っていないだろうが。
そういえばマクシームはどこまでオーフィアに話したのか。ただ山に捨てられた子がイルニークと住んでいる、それだけならまだ、問題はない。
「そんなことはっ……」
「……それでいいんだ。そうしなければ、アカリを失ったかもしれないんだ。まあ、俺にとっちゃ迷惑だが、逃げ道がないわけじゃないしな。マクシームに言ったか?俺が召喚者だって」
「言ってませんよ、約束ですから。マクシームさんもなんとなく察しているようですが、それはオーフィアさんにも言ってないみたいです」
蔵人は内心でホッと胸をなでおろす。
召喚者だと周囲にバレてはいけない。
そこが生命線である。蔵人が力を盗まれた召喚者だということが、この世界の人間に知られれば、国家を巻き込んでどんな騒動が起こるかわからない。
蔵人の力を欲して、ではない。ハヤトや他の勇者を貶めるために利用するのだ。
そして蔵人の生存を知った召喚者が何をするか。
どちらが起こるにしろ、蔵人の手には負えないものだ。
アカリは蔵人を見つめている。どこか申し訳なさそうである。
蔵人は言ってやる。
「なら、気にするな、とはいわない。一生気にして、約束を守り続けろ。――死んでも守れ」
生死がかかるならいいとはもう言わないし、言えない。
そしてそれをアカリも望んでいないだろう。
アカリは蔵人をいつもどこか後ろめたそうに見ていた。責任感が強いのだろう。
「それ以外は、思うままに生きるといい。俺もそうしてる」
アカリは目尻の涙をぬぐって、決然とした顔を向けた。
「はいっ。何があろうと約束を守ります」
少女が何かを決めて、まっすぐに歩き出す。
蔵人にはそれがひどく、眩しかった。
「……この雰囲気でなんなんですけど、みなさんにお風呂貸してもらえませんか?」
「…………」
「それに夕飯なんですけど、みなさん携帯食食べているみたいで。明日にはマクシームさんが食料をもってくると思うんですが、みなさん急ぎの長旅で疲れているみたいなので、温かいご飯を……」
「…………」
すっかりと日が落ち、洞窟の外には地球の月にも似た、黄月がひっそりと輝いていた。
さきほどまで夕飯と風呂の出入りで騒がしかった山も、今はひっそりとしている。
その月を見ながら、洞窟の裏手にある崖際で絵を描く蔵人。
その横には雪白が寝そべっていた。
雪白の耳がぴくりと動く。
「少しよろしいですか」
蔵人の背後に、深緑のローブを着たオーフィアがいた。
蔵人はかすかに頷くだけで、指を動かし続けていた。
「それは……月の女神ですか?」
日本の月に似た黄月を見て、蔵人のどこかにあった郷愁の念が、指を動かしていた。
雑記帳の葉紙に小筆を使い、墨の濃淡だけで、月とそこに寄り添う女を描いていた。
女はどこか遠くをみて、月はどこか儚げであった。
緻密なようでいて、抽象的な絵であった。
「白と黒だけでここまで……神秘的な絵ですね」
決して称賛されるようなものではない、意図のはっきりとしない絵。
オーフィアが横で、頭を下げた。
「招かれざる客というのはわかっています。そこを曲げて了承してくださったこと、感謝しています」
そうされたところでどうにもならないが、そうされたらもう怒ることもできない。
蔵人に対してまだ何かをしたわけではないのだから。
「ただ状況に流されただけです。あとはマクシームが裏切ったという、それだけです」
「それは私の責任です」
「事実は変えられない」
蔵人の口調が荒くなる。怒りが、あったのかもしれない。
「……事実と真実は違いますよ」
「そうなんだろうな。でも、その事実によって取り返しのつかないことが起これば、誰が保障してくれる?真実とやらはその事実の損害をなかったことにしてくれるのか?」
「確かにあの子は荒っぽいところもありますが、決して考えなしではありません。貴方がこんな山の中で人知れず生きていくことを惜しんだのです。その気持ちは――」
「――それで俺が殺されたとしてもか」
オーフィアが初めて、わずかに動揺する。
蔵人は筆をもったまま、その気配を感じていた。
アカリのついで、ではあったのだろうが、マクシームは悪意からこんなことをしたのではないだろう。そういう人物には見えないからだ。
勇者と自分を関係をしらないマクシームなりの、善意なのだろう。
だがその善意は、蔵人の欲したものではなかった。
別に指名手配されているわけじゃない、そう言って蔵人は指を動かす。
オーフィアは蔵人の横顔を見ながら考える。
山に捨てられたという割に言葉使いや絵を描くなどの教養がある。知られれば騒動になる王族や貴族のご落胤か、逃亡した上級奴隷か。
エリプスの主要国に奴隷制度はなく、廃止されている。だが、貧しい小国ではまだ奴隷制度が残っていた。
だが、そう考えながらも、オーフィアはどこかしっくりこなかった。
「それなら、世を捨てて、ずっとここにいるつもりですか?」
蔵人は初めて顔を上げ、うにゃうにゃと唸る雪白を撫でる。
「それもいいか」
雪白と一緒にいるのならば、この山にいるしかない。
それはオーフィアとてわかっている。そのためにここに来たともいえる。
蔵人は思いだしたように、オーフィアを見る。
「ああ、そうだ。まあ、口約束なんだがな。ここに俺と雪白がいることを含めて、俺に関する情報の全てを誰にもいわないと約束してくれ。まあ命に関わりそうになったら、勝手にするといい。マクシームとも約束したんだがな……あの野郎」
蔵人はあの野郎といいながら、いつも約束を求める自分の本心に気づく。
破られては困る約束。
そんな約束を破って敵対したのなら、心の底から、明確な敵として扱える。
そう考えているのだ。
それが自分の情を殺す方法の一つなのだと。
マクシームは約束を破ったものの、敵対まではしていない。だから、自分の中で明確な敵として扱えていないのだ。
「……ええ、約束しましょう。青き森の氏族が一つ、オーフィア・オル・ヴェルデ・ヴァ・クゥウフォルニア・エルィオァルが名のもとに、月の女神に誓って、その約定を生涯守ることを」
オーフィアは目をつむってさらに、言葉を紡ぐ。
≪DDetta liv är Tsukiyo oavsett vad, att de inte bryter eden. Vem hans oavsett hur fiende dock är denna kropp huggen, även kommer att bli smutsig, min orubbliga löfte.≫
エルフによる決して破れぬ誓言である。
「これでよろしいですか?」
蔵人はそれを知らない。知らないが、その言葉は侵してはならない何かだ。
そしてオーフィアの表情は、夕暮れに染まったアカリのそれと同じであった。
「よくわからないが、守ってくれるならそれでいい」
「私は生涯この言葉を使うことはないと思っていました」
オーフィアが悪戯っぽく笑う。
「この文言は、結婚の時に使うものですからね。ふふふ」
蔵人がポカンとした顔をする。
「まあ、そんな顔をするとずいぶん若くなるじゃないですか。あまり眉間に皺を寄せていてはいけませんよ?それと、これはお詫びです。これをマクシームに頼まれたのですよ。でも、これは私のお詫びです、受け取ってください」
オーフィアの身につけるローブと同じ色の環状の物体をオーフィアは蔵人に押し付けた。
蔵人が興味なさげにそれを手で転がす。
「それは『月の女神の付き人』の身元保証証明です。雪白さんと二人分」
蔵人は深緑色の環をぽろりと落としそうになる。
「ふふ、それがあれば、雪白さんを連れて歩いていたとしても問題ないでしょう。街は元々大型の魔獣が入れないので無理だとしても、理由もなく拘束されたりすることはないですよ。もしそんなことがあれば、『月の女神の付き人』を敵に回し、さらにはハンター協会も敵に回すことになるでしょうね、ふふふ」
オーフィアは厳格な女官長の顔で笑う。
「ただ、ドルガン地方ではイルニークが有名ですから目立つのは避けたほうがいいでしょうね。それでもやっぱり気になるのでしたら、幻影の自律魔法もお教えしますよ。これは取引ではなく、お詫びです」
「……なぜ、そこまで?」
蔵人はようやく声をだす。疑いつづけ、警戒しつづけた自分をなぜ、そこまで気にかけるのか。
そうですね、といってオーフィアは話しだす。
「月が巡るように、私たちも旅をします。
女神の狩りのお供として、狩りをします。
傷ついた心をもった女たちを引き連れながら。
それは、決して歓迎されることばかりではありませんが、それでも救いを求める女たちがいます。
ディアンティアは怪物に似た外見から今でも差別され、酷いところではコレクション扱いされています。
アリーは離婚の許されない国で夫の激しい暴力をうけていました。
でも、そんな日々を続けていると、ふと思うのです。
男もまた、傷ついていると。
差別され、奴隷として酷使され、戦争に駆り出され、殺し合う。
貴方も、それとは少し違いますが、傷ついているのでしょう?
だから、ここにいる」
謡うような、語りかけるような、そんな言葉。
「それでは、お邪魔しました」
オーフィアはそう言い残して、去っていった。
手元には深緑の環と自分の描いた絵。
蔵人は自問自答する。
自分はなにがしたいのか。
生存はどうやらできそうだ。
それから先は。
深緑の環が、蔵人の手の中で存在感を放っていた。