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用務員さんは勇者じゃありませんので  作者: 棚花尋平
第七章 舞い上がる砂塵
134/144

126-流れ始める砂漠

 



 塩砂漠に出現した遺跡から帰還したのは集落を出てから、三日目の早朝のことであった。

 ヨランダの無事な姿を見た瞬間、メフリは抱きついた。

 騙し討ち同然のケイグバード侵攻で家族と死に別れ、ヨランダに守られながら砂漠に逃れた。砂漠の先に人の住まう土地があるなど伝説で、バーイェグ族に拾われたのは運が良かっただけである。

 だからこそ、そんな旅路を共にしてくれたヨランダはもはや家族同然の存在であった。

「おやおや、まだ泣き虫が直ってないようだね」

 腰元に抱きつくメフリを抱え上げ、肩に乗せるヨランダ。

 メフリは子供の頃、同じようにしてもらったことを思い出して、恥ずかしそうにするも、それでも嬉しげにヨランダの頭に抱きついた。

 しばらくそうしていたが、周囲の視線に気づくと、ごほんと一つ咳払いをしてから告げる。

「――お客人の歓迎とヨランダの無事、そして母娘の再会をお祝いしましょうっ」

 メフリの掛け声に集落の骨人種が歓声でもって応えた。





 日が暮れ始めた頃、歓待は始まった。

 集落の長の家に案内された蔵人たちは色鮮やかな絨毯の上に座る。蔵人の横にアズロナ、背後に雪白。さらにイライダとヨビがその横に並ぶ。

 遺跡の魔獣に武具を溶かされてしまったイライダとヨビであったが、イライダは母親であるヨランダから、ヨビはバーイェグ族から服を譲り受けていた。


 腰元を絞った赤い貫頭衣を母親から貰ったイライダは、いつもは縛っている赤髪を下ろし、その上から黒い薄布を大ざっぱに被っている。まったく顔は隠せていないが、厳密にいえばアスハム教ではない巨人種ならば問題ない。

 服を譲り受けた際、これがレシハームの巨人種がよく着ていた服だと言って、ヨランダとメフリにあれこれと世話を焼かれ、イライダはすでに気怠い感じで座っていた。


 布を巻きつけ腰元を細い帯で縛ったバーイェグ族風のヨビも、バーイェグ族の女衆に世話を焼かれ、灰色の長い髪をゆったりと編んで結い上げ、花の布飾りや青石の首飾りで着飾っている。


 どちらも日常的な服装であるらしいが、見慣れた二人が見慣れない格好をしているというのは、蔵人としては見逃せるはずもなく、先程からちらちらと二人を窺っていた。

 だが、何も心を入れ替えてちら見しているわけではない。

 正面にこの集落の長、その息子であるメフリの夫、氏族長、そしてバーイェグ族の面々が座っている状況下で、いつものように凝視することができないだけであった。


 そんな蔵人としては少し居心地悪くもある歓待の場に、膝を折って座る馬ほどもありそうな塩の塊が運び込まれた。

 でんと蔵人たちの前に置かれたのは、塩釜焼きにされた魔鳥の丸焼きである。

 湯気に混じて立ち上る香草と肉の脂の匂いに雪白とアズロナの鼻がふすふすと動く。

 この獲物は塩砂漠の塩を舐めにくる魔鳥を罠にかけて獲ったものである。ヨランダが無事に帰ってくると信じて、蔵人たちが出発した日から準備していたものであった。

 

 長によって切り分けられた肉が、それぞれ蔵人たちの前に差し出された。

 蔵人は差し出されるままに受け取り、なんともいえない場の雰囲気に呑まれてされるがままになっていると、イライダが脇腹を小突く。

 ふと横を見ると、イライダの視線は入り口のドアの隙間に向けられていた。

 うっすら空いたそこから、いくつもの視線が注がれている。

 お腹が空いている、というよりはご馳走に興味津々といった様子の骨人種の子供たち。そもそも骨人種は煙木を好む。怪盗スケルトンことジーバは料理を好んでいたが、栄養補給というよりも、どちらといえば趣味に近い。

 そこでようやく、ファルードに教えられたことを思い出して、蔵人は慌てて言った。


「歓待感謝、します。ただ、食べきれません。皆で分けたらどうでしょうか?」

「我らの歓待にご不満か?」

 長が不愉快そうな顔をする。

「いや、満足しています。えー、あ、余したらもったいないと思いますので」

 ファルードに教えられた文言とは少し、いやかなり違っていて、歓待側として並んでいたファルードが困ったような顔をし、ニルーファルの眉間が少し狭まる。

 

「遠き西の果てよりの客人が富を分かち合おうと言うておる。どうだろうか」

 骨人種の長は蔵人は遠くから来たから仕方ないという風に断りつつ、お決まりの言葉を告げると、そこに並ぶ骨人種とバーイェグ族も大きく頷いた。

 すると、外から一斉に歓声が上がり、一気に騒がしくなる。

 最初の問答も、蔵人の言葉も、長が不愉快そうな顔をしたのも、すべて形式上の儀礼であった。

 この後は、ひっきりなしに人が訪れ、それぞれに肉を分けられると蔵人たちに感謝と祝福を告げていく。


 外の集落の中心には大きな焚き火が起こされ、骨人種と警戒当番以外のバーイェグ族が集い、楽しげに笑っていた。

 宴とはいっても、水だけはアナヒタがふらふらになるまで大盤振る舞いしてくれたが、配布された魔鳥の塩釜焼きとバーイェグ族が運んできた果物が少しばかりあるだけで、一人一人の受け取る量は少ない。

 しかしそれでも、笑顔は絶えなかった。

 酒もない、食い物も少ない。だが――。


 トトンッ、と小さな太鼓を叩くような音が響く。

 それを皮切りに、弦が弾かれ、誰かが歌い出した。

 歌い、奏で、踊る。

 酒も食い物もなかろうとも、芸術が、音楽があった。

 

 儀礼から開放され、肉をちびりちびりと噛みながら、宴の様子を眺めていた蔵人たちであったが、この楽しげな音に雪白の尻尾は上機嫌に砂地を叩き、アズロナもそれを真似して尻尾をぴたんぴたんと動かす。

 アズロナの尻尾の拍子が微妙にズレているとヨビは気づいたが何も言わず、ただ微笑んでいた。

「――しょうがないねえ、これも呑んじまおう」

 イライダがわざわざ勇者の船で運び、舟団にまで持ち込んだ酒樽。割って呑めば、僅かながらも全員に行き渡る。

「娘がいるってのはいいもんだね」

 そう言いながら真っ先にカップを差し出したのはヨランダ、そして雪白であった。

 


 

 しんと静まり返った室内に外の宴の華やかな賑わいが聞こえていた。外はすでに凍てつくような寒さであったが、骨人種やバーイェグ族にはあまり関係ないらしい。

 そんな宴から中座した蔵人たちは、長の家の奥の部屋に通されていた。

 ヨランダ探索前にメフリと約束したように、蔵人は己が知る限りのケイグバード、現レシハームのことを語っていた。

「……とまあ、俺が知るのはこんなところだ」

 蔵人は事実のみを話した。途中、イライダが捕捉し、それを蔵人がさらに翻訳するなどあったが、嘘偽りはない。

 ケイグバードの現状、無差別攻撃に怯える自治区とケイグバードの復興を目論む無差別なテロ。自治区以外でも二級市民にすら迫害、差別が横行しているが、現在は強行派のトップが失脚し、穏健派が権力を握っている。決して迫害する者だけではないが、楽観視もできない。そんな状況を隠すことなく、ストレートに告げた。


 話を聞いたメフリは目に見えて落ち込んでいた。

「あの頃のあんたにはなんの権限も力もなかった。死の砂漠に逃げ込んで、たまたま命を拾っただけさ。王族の責務は陛下と王妃様、先代様に殿下たちが果たした。あんたの責務は生きて、血を残すこと。立派に勤めを果たしてるよ」 

 ケイグバードの国王と王妃、国王の息子と娘たち、さらには先代の国王は斬首されていた。唯一生き残っているのが、当時幼かったメフリである。


 ヨランダの慰めにもメフリの表情は変わらなかった。

 こうなったらお手上げなんだとヨランダが困ったような顔をする。

 そこで娘が、イライダが助け船を出す。

「――で、アンタはなんでこんなところまで流れたんだい? アンクワールからマルノヴァ、レシハームまでちらほらアンタの噂らしいのを聞いたけどさ」

 蔵人はイライダの気遣い乗り、アンクワールを出発してからのことを話す。

 雪白が緑鬣飛竜の鬣を毟ったり、アズロナを拾って飛竜の主を黙らせたり、バルティスの自治区で薬草採取をして治療師の婆さんに扱かれたり、忘れられた神に呼び出されていつも遺跡の落とし穴に嵌まったりと、一般的な冒険譚からは少しズレた旅路をその土地土地で描いた絵と共に語った。


 不可思議な現象が多々あるこの世界でさえも蔵人の旅路は奇妙なものであったらしく、次第にメフリの表情が緩んでいく。

 だが、ヨビは違った。

 話が進むほどに表情が暗くなっていき、最後には俯いてしまう。

 そんなヨビをアズロナが心配そうに見上げていた。

 




「――申し訳ありませんでした」

 夜どおし話をし終えた蔵人が明け方近くに自分の小舟に戻ると、一人だけでついてきていたヨビが跪いて、頭を下げた。

 突然のことに蔵人は眠そうにしながら、困ったように頭を掻く。

「……マルノヴァの決闘以外にも、バルティスでルワン家の娘ファンフが、ご主人様(ナイハンカー)と諍いを起こしたと推測しております。私のせいで大変なご迷惑をおかけしてしまいました」

 ヨビの思わぬ言葉に、蔵人は息を呑んだ。


 ヨビは先程の蔵人の話をきっかけに、ファンフの事に気がついて、表情を曇らせていた。

 すでに情報の断片は持っていた。マルノヴァの協会で起こった鳥人種の少女ファンフと蔵人の決闘騒ぎの噂。バルティスを襲った暴徒に殺されたとされるその少女、ファンフという名にも聞き覚えがあった。

 そこに、蔵人が語ったバルティスでの暴徒との戦いと雪白の女性救出話。

 蔵人はバルティスで鳥人種の少女と何があったかなど一言も言っていないが、ヨビがイライダと共に収集した情報を合わせると、バルティスにて蔵人と鳥人種の少女の間に『何か』あったと考えないほうがおかしい。

「……ご主人様?」

 だが十分、十五分となんの反応もない蔵人に、さすがのヨビも顔を上げて蔵人を窺った。


 そこには、自分と同じ表情があった。

 かつて蔵人が描いてくれた、月を見上げたときの自分と同じ表情が。


 月に向って飛ぶ小さな蝙蝠を、小舟の縁に座って見上げる横顔。

 かつて蔵人が描いてヨビに渡し、そのままヨビが貰い受けた絵。

 もう何度見返したかわからない。

 死んでしまった子供を見送ることが悲しいのか、共に逝くことができない自分が情けないのか、かつて守れなかった無力さに嘆くのか。

 答えはいつまでもでなかったが、数え切れないくらいに見つめたその絵は目に焼きつき、今、蔵人の表情に重なっていた。

 だが、なぜそんな顔をしているのか、ヨビにはわからなかった。



「……気にしなくていい。首を突っ込んだ自分の責任だ。こうして無事だしな」

 蔵人はどうにかそれだけ応えるも、不意に蘇った感触に内心で戸惑っていた。

 あれ以来、女を買ってもいなければ、抱いてもいない。そのせいか、エスティアの肌触りまでもがこの手に生々しく蘇っていた。

 閨での熱い身体と、大火傷を負ったあとの熱く、そして氷で冷やされた冷たい身体の固い感触が。



 さすがにヨビがいくら調べようとも、バルティスの住民ですら口を噤んでいる名も無き娼婦、エスティアと蔵人の関わりまではわからない。

 それでもなにがしかの『傷』の存在を察したヨビは、どこか途方に暮れたような蔵人を無性に抱きしめたくなったが、そんな資格はないような気がして躊躇ってしまった。

 だがそんなヨビの逡巡など知ったことかと、雪白が尻尾を伸ばして蔵人、そしてヨビをまとめて捕獲。その懐に引っ張り込んで、あとは知らんと、そっぽを向いて目を瞑ってしまった。


 ヨビも蔵人も呆気に取られ、ほんの微かに相好を崩した。

 そして雪白と同じように、二人は目を瞑った。

 そんな蔵人とヨビの元に、一緒に寝るーとアズロナも這ってきて、ヨビに抱きつき、同じように目を瞑った。




 ヨビはハッとして目を覚ます。

 朝方近くに眠ったとはいえ、今はもう昼過ぎどころか、もう二時間も経てば夕暮れであった。

「……寝過ごしてしまいましたね」

 雪白のあまりにも心地よい白毛と絶対的な安心感、さらには氷鵺の双盾によって保たれた適度な室温が快適過ぎた。慣れない環境に疲労も溜まっていたのかもしれない。

 ふと隣を見ると、蔵人がまだ寝入っていた。

 昨日の表情はなんだったのか。

 そんなことを考えていると、ヨビにぴたりと寄り添って眠っていたアズロナが、寝惚け眼で首を持ち上げた。

――ぎゅぎゅ?

「もう少し寝てましょうか」

 ヨビが小さな声であやしながらアズロナの鬣を撫でると、寝惚け眼のアズロナはヨビの翼膜をあぐあぐと甘噛みしてから、再び目を瞑った。

 ヨビはアズロナが寝入るのを見届けながらも、あの絵と寝る前の蔵人の表情の意味を考えていた。





 夕暮れの少し前、目を覚ました蔵人は横で眠るヨビとアズロナを起こさぬよう立ち上がり、薄目を開けた雪白の小耳の裏をカリカリと掻き撫でてから、外へ出た。

 夜通し騒いで疲れ果てたのか、集落の骨人種たちの姿はまばらで、それが昨夜の宴の名残を感じさせる。

 日暮れと共に灼熱の外気が少しずつ緩みつつあるのを感じながら、蔵人は家々の壁に描かれた白や黒の絵を眺め歩いた。

 白色は塩砂漠に転がっている塩の塊で、黒色は火蝶という不可思議な自然現象に長い年月炙られて焦げて固まった黒い塊で描かれているという。

 多くが幾何学的な文様画、たまに魔獣を模写したものなど技術的には古めかしいものが多いが、技術うんぬんなどというよりも、こんな辺境でそれでも絵を描こうという気概が嬉しかった。


 一通りの絵に目を通した蔵人は、メフリの家の裏に向う。

 メフリに聞くと快く家の裏の壁を貸してくれた。

 辺境の絵に感化され、蔵人は衝動のままに描き始めた。

 白塩を精霊魔法で壁一面に圧縮して固め、白いキャンパスとした。思いつきでやってみたが、塩砂漠があるせいか、ここの塩は土精魔法で魔力任せに固めることができた。

 そこに、白と黒の濃淡を描いていく。

 心の赴くままに、エスティアの絵を。

 あの夜、バルティスのレイレやエカイツと微笑んで話す女の笑顔を。



 そうして日が完全に落ちきる前に絵を描き上げた蔵人であったが、じっと絵を見つめてから、立ち去った。

 すると、家の影からするりとヨビが姿を見せ、蔵人の背を見送りながら、描かれた絵を見つめる。

「……綺麗な(ひと)

 でも、どうして哀しいのか。


 ちらちらと舞う粉雪。 

 微笑んだ女の横顔。

 どこか遠くを懐かしむように、見つめている。

 

 絵に、夕日が差し込んだせいだろうか。

 ヨビはそう考えながらも、それだけではないような気がして、じっと絵を見つめた。


 蔵人の願い、そして巻き込んでしまったという後悔。それが蔵人の意図しないところで、絵に滲んでいた。ヨビが感じ取ったのはそれであったが、わかるわけもない。

 この絵を描いた蔵人もそれを意図したわけではない。いつのまにかそうなってしまったのであって、なぜそうなったのかはわからない。だから、わからないまま胸の内にしまい込んで、立ち去ったのだ。

 死者の言葉を勝手に代弁してこれでよかったなどとは思えず、かといって直接手を下したわけでもないのに自分のせいだなどと悲劇のヒロインぶることもできず、しかして自分になにも責任はないなんて開き直ることもできず。

 蔵人はエスティアの事どころか、自分の事すらよくわからなかった。

 蔵人にできたのはただ衝動のままに描き、それを残すことだけだったのである。

 

 そんな蔵人の心情を少しでも理解しようとしているのか、ヨビは日が暮れて絵が完全に見えなくなるまで、エスティアの絵を見つめ続けていた。

 


 

 その夜の蔵人はいつもの蔵人であるように、ヨビには見えた。

「――アンタのお陰で母さんと無事に再会できた。礼を言うよ。ありがとう」

 ヨビと共に蔵人の小舟を訪れていたイライダが蔵人に頭を下げた。

「通訳しかしてない。気にしないでくれ」

「バーイェグ族は警戒心の強い部族だと聞いた。アンタが仲立ちしてくれなければもしかしたら母さんと会えなかったかもしれない」

 いつも世話ばかりかけているイライダにそう言われて蔵人はむず痒くなりながらも、イライダの感謝を受け取った。


「で、アンタはこれからどうするんだい?」

 明日の朝、舟団は再び出発する。

「しばらくこの砂漠にいようかと考えてる。しばらくすればレシハームに戻れそうだが、あんまり戻る意味もないしな。どこかに適当な家でも作って、ぷらぷらしようかと」

 この砂漠は確かに法などない。人権など鼻で笑い飛ばすような慣習が今も生きている。

 ただ、だからといってレシハーム、ミド大陸のほうがマシということもない。サレハド、アンクワール、マルノヴァ、レシハーム、表向きは法も倫理も存在したが、一皮剥けばこの砂漠と大差なかった。

 龍華国には大星たちがいるが、あの国に君臨しているのは龍人種の皇帝である。いつその権力の矛先が蔵人、いや雪白に向くかわからない。レシハームのリヴカのことは気になっている気もしたが、もう終わったことである。


 ならば、まだこの砂漠のほうがいい。

 以前は砂漠のどこかで隠棲しようとも思ったが、アルワラ族を黙らせた今、その必要もなくなった。

 雪白という力がきちんと抑止力として働き、バーイェグ族というコネもあるし、砂流の行き来も雪白とアズロナがいれば問題ない。絶対的な権限を持った王もいなければ、個人など容易に踏みつぶしてしまう国家もない。

 この世界に召喚される前ならば絶対にしなかったであろう選択であるが、それが最善のような気がした。嫌になればまたどこかに流れればいいという部分もある。

 そしてもう一つ、気になっていることがあった。

「それにあいつらが来て、ここがどうなるか、少し見ておきたい」

 あいつらとは勇者、そしてそれを追いかけてきたミド大陸の連中である。

 他の勇者たちに蔵人の事が知られてしまった。秘匿を約束したが、漏れない情報などはなく、これからどうなるか注視しなければならない。事と次第では、やるべきことがある。

 それに、ケイグバードを侵略したレシハームのことを考えれば、このまま穏便に異文化交流が持たれ、平和的に交渉が始まるなどあり得ない。それに目を瞑って、この地を後にするのは不義理な気がした。例え何も出来なかったとしても。


「そうかい。アタシもしばらくは砂漠見物でもしようかと思ってる。母さんと同じ集落にいるってのも悪くないけど、あそこに篭もりきりになるのはちょっと窮屈だしね」

 情は薄くないが、自立心の強い巨人種らしいイライダの言葉。

「……ご主人様について行ってはダメでしょうか? ご恩返しもしたいですし」

 ヨビは心底からそう言っているように見えた。

 蔵人は『絶対に裏切らない奴隷も欲しい』など言ってヨビを買ったことを思いだし、顔を逸らしたくなる。

「そんなもんいらん」

 蔵人の愛想のない言葉に、ヨビが残念そうにうつむき、さらにはアズロナもしゅんとしてしまった。

「ああ、それいいね、アタシもそうしようかな。ニルにあんまり迷惑かけるのもあれだし、街に住めば情報も入ってくる。ニルたちにも悪いことじゃないはずだ。アンタだって戦力は多い方がいいだろうし、雪白も一緒に酒が飲める奴がいたほうが楽しいだろ?」

 イライダがヨビの心情を慮ったように援護射撃をし、酒という言葉に雪白がのそりと蔵人の頭に顎を置く。

 のしっとした重みに雪白の要求を感じた蔵人は諦めて頷いた。そもそも明確に嫌な理由などない。恩返しというヨビの言葉が蔵人の面映ゆさを刺激するだけで、それ以外はむしろ歓迎している。

「……しばらくアズロナの面倒でも見てくれよ。随分懐いてるみたいだしな」


 蔵人の同意に、アズロナが甘えるようにヨビの膝へ首を伸ばすと、ヨビはその首を撫でた。


「ご主人様の面倒を見させていただいてもいいのですけど?」

 少し冗談めかしてはいるが、蔵人が頷けばそのままお世話してしまいそうなヨビの雰囲気に、蔵人はくらっといきそうになりながらも、――自制した。

「……機会があったらな」

 いや、ほとんど自制できていない。

 蔵人の偽らざる本音を聞いたヨビがクスリと笑うと、蔵人はいつぞや言われたように、いいように転がされているような気がして、今度こそヨビから顔を逸らした。

 そして八つ当たり気味に雪白の尻尾を結んでやろうと画策して、呆気なく制圧されてしまった。

 それを見てヨビがまたクスリと笑い、イライダも何やってんだかと呆れかえっていた。




 翌朝、蔵人たちは話し合ったことをニルーファルとファルードに話すと、わざわざ族長に相談してくれたニルーファルから提案があった。

 蔵人たち一行はバーイェグ族の同盟者という形で、アルワラ族の勢力圏ではない、比較的中立的で大きなオアシスに顔つなぎしてくれるという。

「これまでは我が止められたが、これからは違う。その行動次第では同盟破棄ということもあり得る。汝の性質(たち)は理解しているが、慎重にな。それにイライダやヨビはまだ言葉が不自由だ。すべては汝にかかっているんだからな」

 ニルーファルはじっと蔵人を見据えた。

「……善処する」

 蔵人のなんとも不安な答えにニルーファルは眉間に皺を寄せるが、蔵人の後ろにいた雪白に目を向け、近づいた。

「……よろしく頼む」

 任せて、というように雪白はその長い尻尾でニルーファルの腰をぽんぽんと叩き、これまでの苦労を労った。


 こうして蔵人たちは居住予定地のオアシス到着するまではバーイェグ族に同行して、砂漠と砂流を巡ることになる。

 今年は蔵人を拾ったり、マルヤムの嫁入りなどがあったため、予定が大幅に遅れているということで、オアシスへの移住は月が新たに生まれた頃、つまりは来年の頭ほどになる。

 砂流の流れが目的となるオアシスの方向に向いていないという季節的な問題もあったが、既に一年の終わりを迎えるための準備が始まっていたのであった。

 骨人種の集落で塩を積み込んだのもその一環で、砂流の中の孤島といっても過言ではない地域を巡り、そここで物資と水を交換する。交換したものをさらに交換することで、各集落にも物資が行き渡っていく。

 蔵人たちも舟団を離れるまではと、狩りの手伝いをして食料確保に貢献する。溶けてしまった武具の素材も同時に集め、以前立ち寄った場所ではないダークドワーフ、ドゥオフの隠れ里で武具の作成を頼んだりと忙しい日々を送った。


 そんな風に慌ただしく時は過ぎていき、白月も終わりが近くなった頃。

 バーイェグ族はとある砂漠の街に本年最後の停泊をした。

 水を配り、物資の補給を済ませるともう日は暮れ始めていたが、そこでこの砂漠では異質な、しかしミド大陸で育ったイライダには見慣れた一団がバーイェグ族に接触を求めてきた。

「――アルバウム王国所属特務監察官のラファルだ。責任者と話をさせてもらいたい」

 一団の責任者らしいラファルの言葉を、隣にいた『大地の眼(ユニバースアイ)』の加護を持つコースケが通訳した。

「――武装を解除し、交渉者とその護衛一名のみならば族長との面談を許可する」

 警護担当の男衆が前もって族長から伝えられていたとおりに答えると、ラファル一行は躊躇うことなくそれを呑み、すぐに族長との会談を許された。





 紺色の軍服をかっちりと着込んだラファル。その鮮やかな金髪は短く刈り揃えられ、鋭い碧眼に眉間に寄った皺は如何にも軍人らしい。

 隣で通訳するコースケもラファルに似た灰色の制服を着ているのだが、地味な面立ちも手伝って新兵かそれこそ通訳にしか見えなかった。

「――友好、そして砂流の航行に関する協定を結びたい」

 名乗り合いから始まった交渉を要約すると、この一言に尽きた。

「こちらにも成すべき事がある。そちらとの良好な関係はこちらとしても望むところであるが、遭難船の救助に必ず向うとは約束はしかねる。無論、砂流で遭難船を見つければ救助しよう」

 壮年の美丈夫である族長のグーダルズが媚びも威嚇も見せず、淡々と答えた。

「面倒な駆け引きをする気はない。カネか?」

「カネではない。我らの生き方の問題だ」

「承知した。だが、それでは我らも同胞を助けられぬ。砂流の知識と地図を譲ってほしい。それがあれば事故も減り、より多くの遭難船を救える。そちらの手を煩わせることもなくなる。カネ、いや財貨はいくらでも支払おう」

「――譲れぬ」

 ラファルはじっとグーダルズを睨みように見つめ、グーダルズもまたそれを無言で見返した。


「……わかった。救助協定に関してはそれでいい。我らの間には信頼を築く時間が必要だな――」

 ラファルがあっさりと退いた。

「だが、アルバウム王国は東端に領土を持つこととなった。今後のことを考えれば信頼を築くべきだろう」

「無論だ。東端の地に到達したと聞いたときは驚いたが、そこに原住民がいなかったのならば、貴国と友好関係を結ぶことに否やはない」

「お疑いなら今度お招きしよう。ああ、ちょうどいい、互いに友好使節を交換し合うというのはどうだろうか。バーイェグ族はなかなか連絡のつかない部族と聞いている。ある程度判断出来る者がお互いの近くに常駐していれば何かと便利だろう」

「――出来ぬ」

 グーダルズはここでもきっぽりと否定した。

 ラファルもそこで頷くとは思っておらず、もう一つ提案する。

「であれば、必ず連絡のつく方法、ないしは場所というものを決めてくれ。救助船の合流場所も必要だろう」

「――出来ぬ」

「……ならば光精魔法とモールス信号を覚えてほしい。それである程度遠くとも合図ができる」

「――必要ない」

 再びラファルとグーダルズの視線がぶつかり合い、両者の間でせめぎ合う。

 だが、グーダルズは一切退かなかった。どの提案を呑もうとも、アナヒタと部族の安全を損なう可能性がある。精霊魔法が使えないことをわざわざ今教える必要もない。

 遭難船の救助はアナヒタの御心を考えれば拒否する必要もないが、それ以外は譲れなかった。


「……わかった。あなたたちの条件を呑もう。だが、もう完全に日が暮れてしまった。細かいことはまた後日――」

「明日にはここを出る。決めるのならば今日決めてもらいたい」

 交渉の通じる相手ではない。ラファルはそれを収穫に、グーダルズの言うとおりに協定の細かな部分を決めていった。





 翌朝、夜通し協定の内容を詰めていたラファルとコースケが舟団を下り、街で待っていたアルバウム王国の一団と合流して去っていった。

「……やっと帰ったか。長いな」

 蔵人は雪白の背中に背を預けて、まるでブリッジでもするかのように背を伸ばす。ストレッチ器具扱いされた雪白は、少しばかり背筋を曲げてやって蔵人の顔と脚を両端からぐいぐいと押してやった。

 ぐぇっ、という蔵人の呻きに、雪白はさらに身体を揺すり、まるで楽器でも鳴らしているかのように、蔵人を玩具にしていた。


 そんな蔵人であるが、グーダルズとラファルの交渉の間に何をしていたかというと、交渉している部屋の隣でずっと耳を澄ませていた。

 聞いている限りではおかしなところは、まったくない。

 そもそもバーイェグ族の首脳陣はハヤトやトール、そしてイライダとアルバウムを筆頭とする北部三国のやり口を研究していたのである。蔵人が口を挟む余地などあるわけもなかった。

「……来年の黄月の終わり頃には入植の第一陣が来そうだね」

 蔵人が聞いた交渉内容を聞いたイライダが言った。

「そんなに早いのか?」

 およそ二百日後のことである。

「ある程度ルートは確定してるだろうしね。アルバウムだって伊達に三十年以上も足踏みをしちゃいないさ。それに本当の目的地はさらに東だって言うからね。まあ、当分は東端の開拓に力を入れるだろうさ」



 




 

 ミド大陸でいうところの隠れ月と産ぶ月の二日間、砂流が完全に止まる。

 月ごとにそういうことは何度かあるが、極めて短時間で、二日丸々止まるなどということはない。

 さらに、この二日間は陽光が一切差し込まない。

 舟団が動けず、アナヒタの水も凍りつく。そのためバーイェグ族は砂漠から遠く離れた砂流の上で、年越しを行うのであった。

 蔵人はぽかんと口を開けて白い息を漏らしながら、隠れ月の夜空を見上げていた。


 空の三分の一を埋め尽くす巨大な白月がそこにはあった。

 白月は満月から徐々に欠けているところである。


「いやあ、見事なもんだ。月ってのはこんな風になるんだね」

 イライダは長いハンター生活で不可思議現象には慣れているのか、驚きは小さい。

 だが、ミド大陸でこんな現象は起こらない。

 外国経験の浅いヨビなどは完全に目が点となっていた。まるで月に押しつぶされるような圧迫感すらあるのだから度肝を抜かれてしまったらしい。


 極寒の砂漠に、巨大な白月。

 それがゆっくりと、じわじわ欠けていく様は壮大、いや壮大すぎた。

 ちっぽけな己が、否応なく突きつけられるようで、蔵人もまた気圧されてしまう。隣では雪白、そしてアズロナも目をぱちくりして、壮大な月の動きを見上げていた。



 だがそれも二日目ともなると慣れるもので、雪白はいつものように、いやいつも以上に歓喜してこの二日の夜を楽しんでいた。なんせ暑くなることがないのだから、雪白としてはどれだけ寒くなろうが、快適この上なかった。

 ただ、よりいっそう凍えているため、蔵人とアズロナはまあ熱いよりはマシかという程度で、二人揃って毛皮を被り、ぬくぬくと小舟に引きこもり、ときおり外にでて白月から消え、蒼月が生まれる瞬間を見たりしていた。

 イライダとヨビも他のバーイェグ族と同じように小舟でじっとしていた。

 この二日間はバーイェグ族にとって神聖な日であり、儀式以外は外に出ることなく、掟を忠実に守るべきだとされている。お互いに感謝し合い、質素な食事を共にするなど、年越しの行事のようなことも舟内で行われていた。

 蔵人たちもそれにならい、小舟に引きこもっているのである。雪白以外は。

 もはや雪白は守護獣以上の存在である。多少夜の砂流で駆け回ろうが、何をしようが、そもそも魔獣である雪白に掟は関わりなかった。

 


 そんなアズロナと蔵人が毛皮に包まれて団子になっているところに、ニルーファルとファルードが姿を見せた。ちょうど蒼月が生まれて半月になったときのことである。

『――黒賢王様の導きと神樹の流す慈悲の涙に感謝を捧げん。いつまでも汝らの頭上で色鮮やかに輝くことを願わん』

 黒い布を頭から被ったニルーファルが古い言語でそう告げると、ぼけらっとそれを見上げていた蔵人とアズロナの額に、ファルードが赤い水を一滴垂らした。

 これも儀式の一環で、船頭たちがそれぞれの舟を見回り、きちんと掟を守っているかを確かめ、掟を守っているようならば今年一年の無病息災を祈念していく。

 

 これで儀式は終わり、ニルーファルたちは次の舟へと行くはずだったが、二人はそうせず、蔵人の小舟に入る許可を求めた。

 蔵人がよくわからないまま許可すると、二人は蔵人の対面に座る。

「今年は世話になった。こんなものでは礼にもならんが、受け取ってくれると有り難い」

 ニルーファルが抱えていたものを蔵人の前に差し出した。

 黒布であった。

 骨人種の集落で使われていた防雷防炎の大布で、いつぞや蔵人が物欲しげに見ていたものである。

 蔵人は戸惑いながらも素直に礼を言って、黒布を羽織る。すでに龍華風の外套を羽織っているが、その上からさらに黒布を纏った。

「……ん?」

 この黒布は二種類の魔獣の革を織り込んだだけの黒布ではなかった。妙に丈夫そうな毛皮が内側に張られており、蔵人の偏執的な防御偏重主義を考えて作られただろうことは容易に想像できた。 

 ファルードが蔵人に身を寄せて囁く。

(……ニルーファルが編んだ)

 貞操観念の強いバーイェグ族である、おいそれと家族以外にこんなものを編んで渡すことはない。それが恋愛感情かどうかはさておくとして、ニルーファルの強い感謝の表れであることは確かであった。


 これは予想しておらず、蔵人はあることに思い至り、焦った。

 常識的な意味でのお返し、そして砂漠の文化としての返礼、さらにニルーファルには色々と面倒をかけてしまった事を思いだし、何かお返しはないかと考えたのだが、ほぼ身一つであるわけもない。食料リュックに肉はあるが、それを貰って喜ぶのは雪白やアズロナだけである。

 蔵人は必死に考え、そして思いつく。


 部屋の隅に立てかけておいたブーメランソードを取り、そしてニルーファルの前に置いた。

 一緒に作ったもう一本はファルシャにやって、そして折れてしまってもうない。感傷はあった。だが、もうほとんど使っていない。

「お返しだ。まあ黒布なんかと比べもんにならないが」

 それになにより、ニルーファルならファルシャと同じように、何かを守るために使う。使いもせずに持っているよりは、そのほうがいいような気がした。

 何故か、ニルーファルが息を呑んだ。

 蔵人の手にある剣をまじまじと凝視している。

「……握りの使い込み方を見ればわかる。大事な物だろう」

「俺が持っててもまともに使えない。あんたなら無駄にはしないだろ。まあ、大したもんじゃない、使い潰してやってくれ」

 引き下がる気配のない蔵人の手から、ニルーファルがうやうやしくブーメランソードを受け取った。

「刃が小さくなるまで使わせもらおう」

 ニルーファルがそう言って立ち上がるとファルードも立ち上がり、そのまま蔵人の部屋を出て行った。



 そして蒼月が生まれ、夜が明ける。

 地平線の彼方から上がる太陽が妙に久しぶりのような気がして、蔵人はそれを船尾からじっと見つめていた。

「……来るぞ」

 ファルードがそんな蔵人を見つけて近づき、警告した。

「来る?」

 蔵人はファルードに顔を向けて聞き返すも、ファルードは地平線に視線をやったまま。

 仕方なくファルードの視線の先、蔵人がつい先程まで見ていた地平線の先に目を戻すと、――太陽が消えていた。

 よくよく見ると、太陽を隠すほどの何かがあった。


――ぐぉんっ


 夜通しどこかに出かけていた雪白が慌てた様子で戻ってきて、小舟に飛び込んだ。

 蔵人は首を傾げながらも、再び地平線に目をやり、そして固まった。

 砂嵐が押し寄せてきた。

 まるで山脈そのものが覆い被さってくるような砂の大波に、蔵人もすぐに部屋に飛び込んだ。

 次の瞬間、小舟が揺れる。

 舟団すらも横になぎ倒してしまいそうなほど暴力的な勢いに、蔵人は床を転がり、雪白の腹で受け止められる。すでにアズロナは尻尾で確保されていた。


 しばらくの間、舟団は砂嵐に翻弄された。

 こんな砂嵐の中でもバーイェグ族の男衆たちが外で作業しているらしく、ときおりニルーファルやほかの船頭たちの怒鳴り声も聞こえていた。


 それからどれほどの時間が経ったか、蔵人が不意討ち気味の船酔いを発症させ、今にもオロオロと口から悲劇を生産しようとしていると、舟団の揺れがピタリと止まった。

 これ幸いと、蔵人は外へ向いながら、ようやく思い出したかのように身体強化を行って、船酔いを抑えにかかる。だが、一度催した吐き気はひかず、小舟の縁からオロオロと撒き餌をばらまいた。

 改めて久しぶりに見る太陽は妙に明るかった。


――ぼてり


 蔵人は雪白の尻尾が頭に乗ったのだと思い、それを握った。

 だが、なぜかうにょうにょと蠢いている。しかも妙に固い。

 蔵人は手に持ったそれを見て、慌てて放り投げ、空を見上げた。

「ぶっ」

 さらにもう一つ、顔に落ちてきた。

 千年万足。食べて良し、舟の素材にしてよし、猫じゃらしにしてよしの万能素材である。

 それが、降り注いでいた。

「勘弁してくれ」

 船酔いに不意討ちのムカデトラップに、蔵人の心はあっさりと折れ、船室にとんぼ返りした。


 砂嵐に巻き上げられた千年万足。

 蔵人は逃げ出したが、バーイェグ族は違っていた。老いも若きも外に飛びだして、一斉にムカデを捕まえ始める。

 蔵人の身体から美味しいムカデの匂いを嗅ぎつけたアズロナは、ぺたんぺたんと跳ぶように這って外へ行くと、空から降ってくる獲物にぱくりと食いついて、バリバリと噛み砕く。

 しかもまだ口の中にムカデある内に、さらなるムカデに食いつくものだから、ついにはリスのように頬を大きく膨らませてしまった。


――キシャーーーッ

 

 巨大な千年万足が、舟団に大きな影を作る。

 ニルーファルたちが迎撃する前に、白い影が飛びだし、交錯。

 ムカデの頭部と胴体を一瞬で二つに割ってしまった。

 しかしそれでも蠢く千年万足であったが、ニルーファルを含めた四人の船頭が飛び上がり、一閃。

 千年万足はさらに分割され、中舟の甲板にそれぞれ落ちていった。



 男衆と女衆、老人と子供が楽しそうにムカデを拾う。

 イライダ、ヨビ、さらにはアズロナと雪白もそれを手伝っていた。

「……」

 それをぼぅと眺めていた蔵人に、ファルードが無言でカップを差し出した。

「苦いな」

 進められるままに呑んだソレは、いつもの赤い水に見えたが、違っていた。

「……今日しか飲めない」

 新たに月の生まれた日にしか飲めないお茶らしい。

 コーヒーや煎茶だと思えば飲めないこともないと、蔵人はちびちびと飲み始めた。


 千年万足を拾い集めるバーイェグ族。

 小さな子供が、手伝っているアズロナに千年万足を餌付けし、アズロナも喜んで食べている。

 イライダとヨビが拙い言葉でニルーファルと話し、そこに近所の噂好きな女衆が現れて、ニルーファルの女衆らしくないことを愚痴り、ニルーファルが珍しく戸惑っていた。

 

 なんとものどかな光景に、蔵人は縁側で茶でも飲んでいるかのような錯覚に陥りそうになるが、ファルードの放った言葉に茶が喉で止まる。

「……剣は婚約の証」

 日頃文化衝突を起こしている蔵人は、自分がニルーファルに贈ったブーメランソードのことをすぐに思い出していた。

 結婚するそのときまで、その剣で貞操を守れ。万が一のときは汚される前に自害しろ、という古い意味合いはあったが、現在は汚されるくらいなら最後までその剣を振って足掻けという意味であるらしい。

 剣を渡す意味をファルードから聞かされ、蔵人は詰まっていた茶をごくりと飲み込んだ。


「……ニルはわかってる」

 ファルードが珍しく、茶目っ気たっぷりに笑った、ような気がした。

 ニルーファルが剣を貰ったときに驚いていたのは、もう貰うことはない思っていた『剣』を突然贈られ、少しばかり不意をつかれてしまったからであり、すぐに蔵人のしたことだと理解したという。

 ファルードが言いたいのは、安易に女衆に剣を贈らないことだ、ということであった。

「もっと早く教えてくれ」

「……一族になるのも悪くない」

 ファルードの本気か冗談かわからぬ言葉に、蔵人は参ったなと天を仰ぐ。

 そこには、突き抜けるような青空が広がっていた。

 それも悪くないか、と思うほどには気持ちの良い空であった。




  

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