四
日差しの暖かさが増しているのを感じられる頃。
「ねえ、セルカ。今夜は私の好きに過ごしたいの。いいでしょう?」
誕生日前夜、シエロは初めてセルカにわがままを言った。
「無事に朝を迎えたら、戻ってくるわ。帰らなかった時は、お父様たちに報告して」
「シエロ様……」
「もちろん、帰ってくるわ。でも、今日は一人でいたいの」
半ば強引に許可を勝ち取り、シエロは隠し通路で夜を明かす準備を始める。
毛布を抱えると燭台が持てず、足元が見えない。一段一段、確かめながらゆっくりと階段を下りた。
今夜を過ごす場所は決めている。
少し暖かい服を着た。毛布と飲み物、野菜や薄切りハムを挟んだパンを詰めたバスケットを持ち込んだ。
長い夜になるのか、それとも短い夜で終えるのか。
結果を想像すると不安になる。同時に、朝日を拝める期待で胸が高鳴ってしまう。
肩から毛布をかけ、壁に背中を預けて座る。
一人きりで過ごす夜など、迎えたことはなかった。けれど、今日だけは一人でいたい。たとえ明日の朝、目覚めなかったとしても。
明るくなった中で、真っ先に会いたい人がいるから。
†
いつの間にか眠っていたらしい。
無意識に目をこすった指の冷たさに、シエロの意識は一気に現実へ引き戻される。
手つかずの茶も、毛布から出ていた手も。一つ一つ触れて確かめると、すっかり冷え切っていた。
就寝から夜明けまで、時を知らせる鐘の音はしない。元から暗い通路の中では、今のおおよその時間はわからなかった。
(今は、まだ夜なのかしら?)
確かめようと、シエロはそっと毛布を落とす。立ち上がって、あちこち痛む体をさすりながら、外へ続くドアに手をかける。
とたんに動くドアに、既視感を覚えた。
「シエロ!」
ドアの向こう側から飛び降りてきたのは、一番に会いたかった人。
彼の名を呼びたいのに、声にならない。
「本当に、シエロだよね?」
大きな手が、まず髪に。滑り落ちて頬に触れる。
「どこも冷たいけど、でも、息はしてるから……生きてるんだね!」
自分のことのように喜ぶカイダの腕に、いきなり閉じ込められた。急な動きで、置いて行かれそうになった首が鈍く痛む。
抱き締めてくれる腕の温かさが、現実味を与えてくれた。温もりを感じられることが、生きていると実感させてくれる。
「もうすぐ、明るくなるよ。朝の鐘も鳴る。ねぇ、一緒に鐘を聞こう?」
カイダに手を引かれ、シエロは外へ出た。
夜が明けきる前の、清廉で凍てついた空気。生き物の気配がしない暗い森は、見慣れた森とは別の場所のようだ。
強く握られた手から伝わる熱が、一人じゃないと教えてくれる。辺りの暗さを怖がる心を、少しだけ落ち着かせて。
鐘は、決まった時間に街の教会が鳴らす。それを頼りに、人々は生活している。
「あっ」
カラン、カラン、とくぐもった鐘の音が聞こえてきた。太陽が顔を出し、街が薄明るくなったという知らせだ。
まだ森は暗い。だが、シエロたちのいる場所には、いずれ朝日が届くだろう。
「そうだ。シエロ、誕生日おめでとう!」
破顔したカイダから浴びせられた言葉に、シエロは目を瞬かせた。
「絶対に俺が、一番に言いたかったんだ。だから、いつもよりずっと早起きしたんだよ」
胸を張って自慢げに話すカイダに、自然と笑みがこぼれる。
心に素直になれるから。だから、彼の側にいたいと願ってしまうのだ。
「私は、今日最初に会う人を、カイダにするって決めていたわ。そのためだけに、一人で過ごしたいって、生まれて初めてわがままを言ってしまったの」
イタズラが成功した子供のように。シエロは笑顔を弾けさせ、カイダを見つめる。
無事に、十七の誕生日を迎えられた。呪いに打ち勝った喜びが、すがすがしい気持ちが全身に広がっていく。
右手をつかむカイダの手を、ギュッと握る。驚いて顔を見てきたカイダが照れながら、しっかりと握り返してくれた。
「今だったら、呪われてよかったと言えるわ。だって、カイダに出会えたんだもの」
当たり前に祝福を受けていたら。ごく普通の王女として育っていたら。カイダと知り合うこともなく、姉のようにどこかへ嫁いでいただろう。
もちろん、それも一つの形だ。けれど、今のシエロには考えられなかった。
たとえ許されなくとも、命が尽きる瞬間までカイダの側にいたい。永遠を共に過ごすのは、カイダがいい。
「本当はさ、このまま、シエロをさらってどこかに行きたいくらいなんだけど……バレたらきっと、王女を誘拐したって罰を受けるよね?」
「私は元々生死不明だけれど、さすがに空っぽの棺で葬儀を行うわけにはいかないでしょうね」
遺体がないけれど葬送する。そう言われて、セルカたちが納得するはずがない。希望を捨てられずに、いない現実を認めない可能性もある。
ずっと守ってくれた人たちに、不義理をするわけにはいかない。どこか遠くへ行くにしても、せめてセルカたちには話をしなければ。
「ああ、そうだわ。私、生きていたら戻ると約束している人たちがいるの。よかったら、カイダも一緒に行きましょう?」
「俺、も?」
不思議そうに首を傾け、瞬きを繰り返している。そんな姿までが、抱きつきたいほど愛しくてたまらない。
「みんなに紹介するわ。私の命の恩人で、誰よりも大切な人、って」
唖然として口を薄く開けていたカイダの頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。つられて、シエロの顔も熱くなる。
「で、でも、俺は魔女の息子で……」
「カイダはカイダよ」
わざと遮って、シエロは鋭く断言した。
「初めて会った日から毎日、あなたに会うことだけが楽しみだったの。あなたと会わないと決めた後、私は魔女の呪いで死ぬ覚悟を決めたわ。でも、ちょっとしたきっかけがあって、最後になるなら会いたいと思ったの」
ノルテのように、閉じこもったまま息絶えるなら。気持ちを押し殺して、我慢する理由などない。そのことに、シエロは気づいたのだ。
両手でスカートをたくし上げ、燭台も置き去りにして、暗い隠し通路を全力で走った。いるかもしれないなら、一歩でも早く会いたかったから。
「あなたが、私を、救い出してくれたのよ」
赤茶色の瞳を見つめ、シエロはひと言ひと言をはっきりと告げる。
限られた人以外には会えず、ほとんどを部屋で過ごした。漫然と時が流れていくのを、黙って受け入れていた。変化に乏しく、感情は波立つことがない。
死から遠い、けれど生からも遠く。
「生きていることが楽しいと、あなたが教えてくれたの」
眠って目覚めるのを、心待ちにすること。
共に過ごす時の速さが、別れのたびに胸を痛めつけた。
顔を合わせて、言葉を交わして、同じ時間を共有する。ただそれだけで、幸福な気持ちに包まれた。
「私一人で、この日を迎えられたわけじゃないわ。今日まで助けてくれた人たちに、感謝を伝えたいの」
乳母だったセルカ。彼女の娘リネアとエリセ。そして、ノルテとの確執が明らかになるまでは、愛し育ててくれた家族たち。
全員に、生きていることを報告をしたい。
「カイダをみんなに紹介したいの。あなたを傷つける人がいたら、私が守るわ」
信じている。そう思った人だから、信じて欲しい。
そんな願いを強く込め、揺れているカイダの瞳を真っ直ぐに覗き込む。
「……ん、わかった」
頷いたものの不安を隠さないカイダに、体をぶつけて抱き締める。後ろ向きな考えを振り払い、穏やかな心でいられるように。
†
畳んだ毛布はカイダが、飲み物とバスケットをシエロが持ち、隠し通路を歩く。いくつも踊り場のある長い階段を上った行き止まりで、他の場所と同じようにドアを開ける。
「シエロ様!」
三人分の呼びかけに、カイダが緊張する気配が伝わってきた。
残りを一気に開け、シエロは部屋に這い出る。荷物を邪魔にならない場所へ置き、まだ出てこないカイダに声をかけた。
「大丈夫だから、カイダも出てきて」
「シエロ様、誰かいらっしゃるのですか!?」
暗い隠し通路へ手を差し出すシエロに、セルカが声を荒げて問い詰める。見守るリネアとエリセの表情は硬い。
「私の、命の恩人よ」
「……は?」
素っ頓狂な声だと、セルカ自身も思ったのだろう。ごまかすように、軽く咳払いをしている。
「命の恩人とは、いったいどういうことですか?」
「言葉のとおりよ。カイダがいたから、私は今、生きているの」
恐る恐るといった動きで、まず毛布が渡された。受け取って横に置いたシエロは、もう一度手を差し出す。
今度は、カイダの手が乗せられた。グッと引っ張ると、抵抗されることなく、カイダが顔を覗かせる。
「シエロ様、いったい、何がどうなっているのですか?」
戸惑いと、困惑と、不審。複雑な表情のセルカたちに、シエロは笑みを向けた。
「お父様たちにも説明をしたいの。一緒に行きましょう?」
顔を引きつらせるカイダの手を引き、シエロは家族の食堂へ足を運ぶ。
結婚したルスは、別の場所で食事を取る可能性がある。その時は、居場所を知っている人に呼んできてもらえばいい。
何度も同じ話をしたくはないから、一度で終わらせる。それが、誰にとっても最善だ。そう信じて、シエロは動いている。
久しぶりの食堂は、シエロの記憶と変わっていない。
シエロがいなくとも、給仕をつけることはなかったのか。食事の並んだテーブルに、嫁いだ姉を除いた家族が全員そろっていた。
テーブルの上には、豆のスープにライ麦パン。シエロの席にはたっぷり注がれたミルクが、他はぶどう酒が置かれている。
「……シエロ!」
真っ先に立ち上がって駆け寄ってきたのはルスだ。抱き締めてくれる兄の腕は、小さく震えていた。
「十七の誕生日、おめでとう」
「ありがとうございます、ルスお兄様」
お礼に添えたのは、心からの笑顔。
二年半、互いに触れ合うことのなかった家族とは思えなかった。昨日までも、明日からも。毎日代わり映えのしないやり取りが続いていく。
そう、信じたくなる。
「どうか私の話を聞いてください」
シエロが切り出すのを待っていたのか。誰も遮ろうとしない。
「話したいことはたくさんあります。けれど、最初はどうか、私の命の恩人を紹介させてください」
繋いでいた手を勢いよく引き寄せ、カイダを隣に導く。
「カイダです。彼が、魔女にかけられた私の呪いを解いてくれました」
無事に誕生日を迎えたシエロがそこにいるから、呪いが解けているのは明白だ。だが、家族たちは一様に面白くないといった表情を見せる。
国内外の貴族でも、他国の王族でもない風体。そんなカイダを視界に入れて、いい感情を抱けなくても無理はない。
予想はしていたから、シエロは迷わず決断を下せる。
「こうして生きていますが、私を亡き者にしていただきたいのです」
「なっ……」
二の句が継げない家族たちを順に眺め、隣で固まっているカイダを見つめた。
王女だった自分が、市井で生きるのは難しいかもしれない。常識を知らず、苦労に苦労を重ねるだろう。たくさんの迷惑をかけてしまうに決まっている。
それでも、カイダと離されるくらいなら──すべてに耐えてみせる覚悟だ。
「私はカイダと生きていきたい。オルキデアの王女としてではなく、ただのシエロとして生きたいのです」
確固たる意思を宿した瞳で、シエロは家族たちを見据えた。次いで、セルカたちにも考えを変える気がないことを伝える。
「カイダは、王女じゃない私じゃ、嫌?」
ジッと目を見て問えば。
さらりとした真っ直ぐな髪の一部が、空気を含んでもつれて絡まる。そのくらい、カイダは勢いよく首を横に振った。
「シエロだったら何でもいいよ!」
何よりも欲しいと望む言葉を、絶対に返してくれる。
見たいと思う時に、温かな笑顔を見せてくれる。
だから、側にいたい。そして、必要とされたいと願うのだ。
「ありがとう」
心の感じるままに、伝えたいままに。ふわりと笑みが咲いて、言葉がするりと口から滑り落ちる。
顔を家族に向けたシエロは、カイダの手を離し、ドレスをつまんで軽く一礼した。
「これまで育ててくださったこと、私を愛してくださったこと、感謝しています。そして、対外的とはいえ、先立つ不孝をお許しくださいませ」
くるりと振り向き、今度はセルカたちと向き合う。
「リネア、エリセ、それからセルカ。今までありがとう。あなたたちがいてくれたから、私は今まで一人じゃなかったわ」
にじむ視界の中で、どうにか三人に微笑みかける。
そのままカイダの腕をつかみ、シエロは足早に食堂を出た。出口で一度振り返る。
「皆様、ごきげんよう。幸福をお祈りしています」
頭を下げたシエロは、それっきり振り返らなかった。