三
昨日まで、シエロは毎日楽しげに隠し通路へ下りていた。だが今日は、一向に向かう気配を見せない。
セルカもエリセもリネアも、心配でたまらなかった。しかし、理由を問うのは躊躇われる。そう思わせる表情で、シエロはソファに仰向けで転がっていた。
「……昨日は、騒がしかったわね」
独り言か。誰ともなしに呟いたシエロに、セルカが頷く。
「はい。フロル様の正式なお披露目がありましたから」
その名は知っている。次兄セレアルの婚約者で、エスカルラータ王国の第三王女だ。シエロと同い年で、今年十七歳になる。オルキデアとは間にいくつか国を挟んでいるため、片道でも十日ほどかかるそうだ。フロルは、夕焼けの色に似た長い髪と、赤茶の瞳の持ち主。セレアル曰く、少々子供っぽいところが可愛いらしい。
シエロが聞いて知っているのは、数年前の情報だ。
恐らく、今のフロル本人には、一生会うことはないだろう。
「どんな方なのかしらね」
「まだ滞在されていますから、お会いになられては……」
興味がないわけではない。けれど、会いたい気持ちにはなれなかった。
「顔合わせをしてすぐに葬儀になっては、縁起が悪くてよ」
一瞬、三人の表情が凍りつく。それに気づかない振りをして、シエロは天井をぼんやりと見つめる。
記憶にある頃から、自室と食堂、行き来する人気のない廊下しか知らなかった。
この一角はすべてシエロのもので、セルカたちの部屋も向かいに並んでいる。最も奥まった位置にあるため、他人と会うことはまず考えられない。
そんな生活の中で、偶然とはいえ出会ったカイダと過ごした日々は格別だった。
朝、目を覚ました時から、楽しみで心が弾んでしまう。少しでも早く会いたくて、昼食を少し急いで食べる。夕方も、ギリギリまでカイダの側にいたくて。
生まれて初めて、心の底から楽しいと思えた。何にも代えがたい。どんな時間よりも、キラキラと輝いて見えた。
記憶に従って鮮やかに思い描けば、本物に会いたくなる。
(……思い出しても、仕方がないのに)
心の声を、唇だけが拾う。
そっと目を閉じたシエロの耳に、昼の二刻を知らせる鐘が聞こえた。
こうして毎日、命が消える日まで、ここでこの音を聞けばいい。たったそれだけで、カイダとの縁は切れるのだから。
†
あれから、何日が過ぎたのか。自身の残り火を自覚するのが嫌で、シエロは数えることをやめている。
「そういえば、ルスお兄様の子はどうなったのかしら」
まだ生きていても、死んでしまっても、二度と表に出ることのない娘。顔を見たわけでも、声を聞いたのでもない。
気にかけている自覚もなければ、声に出しているとも思っていなかった。
「……ご存知、でしたか」
「ええ。少し前にみんなが忙しそうだったから、何があるのかと探検をして、偶然にね」
セルカの固い声に、少しだけ嘘を混ぜて答える。
何をどこまで知っているか。わからないからこそ、シエロは事実を簡潔に告げることを選んだのだ。
「祝福の儀が行われる前に、アルディリア王女は呼吸を止めていたそうです」
「そう……」
恐らく、まだどこかで生きているだろう。だが、もう彼女の行く末には興味はない。
「それから、アルディリア王女が亡くなって以来、ノルテ様のお姿も見られなくなったそうです」
「そうなの……」
祝福を与えられない王女を産んだのだから当然だ。アルディリア共々、どこかの部屋に閉じ込められているのだろう。
ただ、なぜ魔女たちが祝福を拒否したのか。今でもわからない。きっと、セルカたちに聞けばはっきりする。そう考えるものの、シエロの口は重かった。
ソファから身を起こし、ゆっくりと窓に近づく。窓の端から、レースのカーテンを持ち上げて外を眺めた。
ここから見える景色は、シエロに季節の移り変わりを教えてくれる。葉を色づかせていた庭の木々は、この数日で冷え込んだためか、葉を落とし始めた。いずれ、枯れ葉が地面を覆い尽くすだろう。
そうなれば、シエロの命も残り数ヶ月となる。
「冬が、待ち遠しいわ」
十七になる春は、どうでもいい。冬を越せるかどうかも、わからないのだから。
ふと、シエロは見るともなしに、壊れた城壁の辺りを眺めた。
(……え?)
シエロと同じ亜麻色が多いオルキデアの民と違い、わずかに赤みがかった茶色の髪。毎日見ていた色だから、記憶違いや別人のはずがない。
カイダの名をこぼしそうになって、シエロは唇をギュッと噛み締める。
誰かに、知られるわけにはいかない。
(まさか……あれから毎日、来ていたの?)
約束の時間はとっくに過ぎている。それでも彼は、諦めずに待っているのか。
今すぐ駆け出せば、会える。
過ぎった思考の強烈な魅力に、目を固く閉じた。
(まだ、行くわけにはいかないわ)
衝動に任せて駆けていくのは、この命を失っても惜しくないと思えた時。それまでは、湧き上がる衝動も感情も殺さなければ。
カーテンから手を、窓からもう一度見たがる目を離し、シエロはソファへと戻る。
冷めた紅茶を流し込み、シエロは長いため息をついた。
†
翌日から、シエロは隠し通路の探検を再開した。
窓の外を眺めれば、嫌でもカイダを見てしまう。視界に入れば、息苦しいほどに会いたくなる。不意に思い出されては、夜も眠れない。
クタクタに疲れて、カイダを想う暇もなく眠りに落ちたかった。
久しぶりの遊び場は、かすかに埃っぽく、かび臭い。だが、少し湿った空気を含め、懐かしさで胸がいっぱいになる。
ぼんやりした燭台の明かりで先を照らしつつ、シエロはゆっくりと階段を下りた。
(今日は、どこへ行こうかしら)
できれば、カイダの記憶につながらない場所がいい。
しばらく考えた末、普段はあまり足を踏み入れないところへ行ってみることにした。
頭の中に叩き込まれた地図を頼りに、『離れ』と呼ばれる建物へ向かう。離れは王城の近くにあるが、そこが何のための建物なのか、シエロは知らない。隠し通路で遊ぶ際に、用もないのに近寄るな、と言われた場所だ。
以前、一度だけ覗いたことがあった。かろうじてテーブルとソファはある。けれど、寝室はなかった。部屋の隅に置かれたベッドに天蓋はなく、使用人用の続き部屋もない。だが、掃除だけは欠かしていないようで、綺麗な部屋だった。
歩き続け、目的の離れに通じるドアに手をかける。
薄く開けたとたん、甲高く耳に痛い泣き声が溢れ出してきた。
「…………」
ボソボソと、覇気のない女性の声が囁いている。
(ノルテ王女……?)
自信に満ちていた頃とは、ずいぶんと印象の違う声だ。だが、多分間違いない。
姿を見ていないというノルテがここにいるということは、泣いているのはアルディリアだろう。
人を寄せないようにしている場所に、二人を閉じ込めている。地下牢でないのは、ノルテの身分に考慮しているのか。
この通路の存在に気づかれてはいけない。
シエロはそっとドアを閉めた。音を立てないよう、そこから離れる。
(私は、何も見なかった。見なかったのよ……)
侍女やまともな部屋を与えられた自分と、このノルテ。どちらが恵まれているか、比べるまでもない。
自室へ向かって歩きながら、照らす明かりがユラユラと揺れていることに気づいた。燭台に視線を落とせば、持っている手が震えている。
一所に閉じ込められ、他人とのかかわりを断ち、生死さえ知らされない。
たとえ、置かれた環境が多少恵まれていたとしても──彼女は、自分と同じだ。
(カイダだって、私の名を知らなかったわ……)
『呪われた王女』と言えば理解した。
いつかきっと、ノルテも何らかの通り名をつけられる。そして、その名でしか思い出されなくなるのだ。
崩れ落ちそうになる膝に力を入れ、左手を壁について体を支える。
今すぐ、カイダのところへ行きたい。顔を見た瞬間に、この心臓が動かなくなってもかまわない。
(どうせ死んでしまうなら、カイダの側がいいわ)
もう来ないで、と言ったのだから、彼が待っている保証はない。今日こそ、愛想を尽かして帰ってしまった可能性もある。
それでもシエロは、そこにいてくれることに賭けた。
鼓動一つ分でも早く着きたい。走ろうとする足に、ドレスの裾が絡まった。苛立ちながら左手でなるべくたくさん布をつかみ、強引に足を少し出す。
燭台も邪魔だ。走れば、火は消えてしまう。吹き消して、わかりやすい場所に置いた。誰かがここを通れば、見つけて回収してくれるだろう。シエロ自身がもう一度入ることがあれば、違う燭台を使ってここまで来ればいい。
両手でスカートをたくし上げた。これで、思う存分走ることができる。
森へ続く一本道。最後に通ったのはいつだったか。
ドアに手をかけたところで、急に呼吸の仕方を忘れてしまった。速度を上げた鼓動が、耳の中でうるさいほどに響く。
頭の芯からぼうっとして、今にも倒れてしまいそうで──。
「──っ!」
いきなり手が引っ張られ、シエロは慌ててドアから手を離す。暗闇に慣れきった目は、突然差し込んだ光でくらんだ。
とっさにドレスから離れた右手で目を庇う。
「シエロ!」
名を呼んでくれた声に、ほんの一瞬、心臓が止まった。鼻の奥がかすかに痛んで、何かがじわじわと目に押し寄せてくる。
瞬きするたびに視界がぼやけ、よく見えない。
「カイダ……」
どうにか声をしぼり出したとたん。堰を切ったように、温かな何かが頬を伝い落ちた。思わず両手で顔を覆う。
顔が見たい。でも、見られたくない。
シエロ自身にも抑えられない感情の波が、喉からもこぼれる。
「ねぇ……泣かないで?」
ドレスに気をつけて下りてきたカイダは、シエロに手を伸ばしかけては引っ込めることを繰り返す。やがて、意を決した表情で、カイダは両腕でシエロを抱き締めた。驚いたのか、シエロが小さな悲鳴を上げる。
今にもこぼれ落ちそうな涙を目尻にためたシエロが、呆然とカイダを見つめた。
「やっと会えた! 毎日待ってたかいがあったよ」
ふとした拍子に浮かんでは、ギュッと胸を締めつけてくれた笑顔。それが今、シエロの目の前にある。
泣きたいのか、笑いたいのか。シエロにもわからない。
「どう、して……」
気を抜けば崩れそうな体を、カイダの腕がしっかり支えてくれている。服越しに伝わる熱が、夢ではないと教えてくれる。
「だって、どうしてもシエロに会いたかったから。俺ね、毎日、帰る前にここを覗いてたんだよ。開ける前に、今日こそシエロがいますように、って願いながらね」
涙が輝く道を作るシエロの頬を、カイダが右手でそっと拭う。
「母さんがしたことは、絶対に許されない。俺の顔を見たくないってシエロの気持ちも、わかってるつもりだよ。でも、俺はシエロに会いたかった。毎日毎日、シエロのことばっかり考えてて、そのたびに、シエロに与えられた呪いが憎くなった」
どこか淡々としたカイダの声音が、シエロの耳に、心に、真っ直ぐ刺さる。見えない手に心臓をしっかりとつかまれているようで、痛い。
「シエロに「もう来ないで」って言われた日にね、帰って姉さんに聞いてみたんだ。何で母さんは、王女様を呪ったのかって」
背中に氷の塊を放り込まれ、頭から冷水をかけられた。そんな心持ちになり、シエロはカイダの表情を窺う。
怒りも悲しみもない。凪いだ海を思わせる、穏やかさ。
「シエロが聞きたいなら、教えるよ」
拒絶は簡単だ。けれど、聞かなければ先へ進めない気がした。
決めてしまえば、迷いはない。
「教えて」
短いが、力強い答え。それを聞いて、カイダの頬が緩む。
「ん、わかった。姉さんが言うにはね、シエロを呪ったのは報復だって言うんだ」
「報復?」
生後一ヶ月の身で、魔女に恨まれる真似をしでかしたのだろうか。
先を知りたい気持ちと、聞きたくない気持ち。両方に挟まれて、シエロの心は揺れる。
「今は嫁いだ第一王女様がいるでしょ? あの方が生まれるちょっと前にね、俺の姉さんが生まれてるんだ。その時、母さんは産後の回復が悪かったんだって。で、王城から手紙が来たけど、返事も書けないくらい体が悪くて」
何となく、シエロにも『報復』の持つ意味合いがわかった。
「もしかして、私の祝福の時、カイダのお母様は招待されなかったの?」
欠席の連絡もなく、当日も訪れない。人知れず倒れ、帰らぬ者となったと判断されてしまった結果なのか。
だが、別の疑問が過ぎる。
「……招待されなかった魔女が、どうやって祝福の日時を知ったの?」
知らなければ、来ることはできないのでは。
現に、アルディリアの祝福の際も、居合わせた魔女たちは全員招待を受けたはずだ。
「母さんの友達の魔女が、教えてくれたんだって。別の日にこっそり聞きに行ったけど、リアマさんは、母さんが祝福に行くって言うから教えたんであって、呪うとわかってたら言わなかったって」
教えてしまった魔女も、当日に相当驚いたことだろう。友人が王女を呪ったのだから。
「それから、シエロには母さんの呪いを弱めるために、何人かの魔女たちが特別な祝福を与えたらしいよ。シエロが十六で死なないようにって」
「カイダのお母様は、魔力のある魔女だったのでしょう? 残っていた魔女の半数は、太刀打ちできなかったと聞いているわ」
「うん。直接的にはできなかったって、リアマさんも言ってた。だから、リアマさんは間接的に、シエロを呪ったんだって」
「え……?」
祝福を与えた、ではなく、呪った。カイダは今、そう口にした。
「母さんは、シエロが十七になるまでに、恋い焦がれて死ぬって呪った。だからリアマさんは、十七までに愛した男の口づけを受けなければ、魔女の呪いは効果を発揮するっていう、新しい呪いを重ねた。母さんの呪いに反せず、条件を追加したんだって!」
シエロの中で、かすかな希望と疑問が生まれる。
「じゃあ、どうして、私は他人とのかかわりを断たれたの?」
救われる方法があるのに。
両親は、その場で聞いていたはずなのに。
「リアマさんが祝福を与えた時、大きな雷がすぐ近くに落ちたから、聞こえなかったのかもって」
全身の力が抜け、シエロは思わずカイダにもたれかかる。
わかってしまえば何ということはない。些細なすれ違いと偶然が重なっただけ。それがわかるまで、ずいぶんと無駄な回り道をしたらしい。
「だから、シエロは十六で死ななくても済むよ!」
自分のことのように喜んで、カイダは力説する。その姿に、シエロは小さく噴き出してしまった。
祝福した当人以外、誰も知らなかった事実。それがわかっただけでも、十分だ。
「嬉しいけれど、これからその条件を満たすには、時間が足りないわ」
城の木々はかなり葉を落としている。このままいけば、春の訪れを告げる風が吹く頃には、シエロの命も消える予定だ。
セレアルの挙式は、雪解けを待つことになる。恐らく、先に葬儀となり、彼らの式は延期となるだろう。
「お兄様には、悪いことをしてしまうわ。挙式に参列するどころか、延期させてしまうなんて」
「何で簡単に諦めるの!?」
突然声を荒げたカイダを、シエロは目を見開いて見つめる。シエロの視線に気づき、カイダは淡く頬を染めて顔を背けた。かと思うと、そこかしこに落ち着かない視線を投げつけ、何か言いたげに口を動かしている。
「カイダ?」
「……シエロは、俺を好きになってくれないの?」
呼びかけた直後の不意打ちに、シエロは瞬きも息をすることも忘れてしまう。
「俺は、シエロが好きだよ。毎日でも会いたいし、いつだって声が聞きたい。ううん、一日中ずっと一緒にいたいくらい、好きだ」
音が耳を素通りした。
台詞の内容を、頭で理解するより早く。
「だから、俺を好きになって」
今度は耳から直接全身に行き渡り、届いた端からシエロの体に熱を持たせる。
きつく抱き締めてくるカイダを、振りほどこうとは思わない。むしろ、心のどこかで、待ち望んでいた気分さえした。
腕の力強さに呼吸が苦しい。シエロは言葉の代わりに、両手をカイダの背中に回して服を握り締める。
顔から、腕から、背中から。伝わる温もりが、ひどく心地よい。
このままこうしていられたら。それだけでもう、他に何もいらない。
「……母さんが君にかけた呪いを、俺が解きたいんだ。他の誰かに、解かせたくない」
耳元で囁かれ、シエロは小さく頷く。
怖ず怖ずと顔を上げ、カイダの目をジッと見れば見つめ返してくれる。たったそれだけで、心臓が騒いで他の音が聞こえない。
ほどかれた腕のあった場所が、スゥッと冷える。温もりが恋しくなって、カイダの服を握る指に力を込めた。
左頬に、思っていたより大きなカイダの手が触れて。より強く引き寄せようと、背中に回された腕に力が込められた。
唇にそっと、熱が重ねられる。
今この瞬間に、鼓動が止まってもいい。
そう思ってしまうほど、シエロは幸福な感情に満たされていた。
†
シエロとカイダは、決まった時間の逢瀬を大切に過ごしている。楽しい時間はあっという間に通り過ぎ、雪が舞い落ちる季節になった。
期待と不安。どちらが多いとは言えない気持ちを抱えながら、シエロは日々を送る。
春になり、一斉に芽吹く木の芽や花々を、この目で見たい。十七の誕生日に、春の訪れを全身で感じたい。
一度は、生きることを諦めた。けれど今は、カイダを信じて春を待っている。




