アイラブユーはお呼びでない
名前を呼ばれた。私は、コンタクトをつけている右目を隠したまま振り返る。先生であることは分かる。スーツを着ていることも分かる。でも、輪郭はひどく曖昧で、先生がどんな表情をしているかまでは分からない。さほど遠い距離でもないのに、こんなにも視力は落ちていたんだな、と改めて思った。
「下校時刻は過ぎていますよ」
「知ってます」
時計を一瞥すると、七時三十分を過ぎていた。下校時刻は七時十五分。今学校に居る生徒は私だけなんだろうかと思うと、少しだけ不思議な気がした。
「どうして右目を隠しているんですか?」
先生の口が動く。その動きさえもいちいちぼやけてしまう。
「左目のコンタクトが外れちゃったので」
私が答えると、クスリと笑う音が耳を掠める。先生の笑顔は見たくて、右目を隠していた手を退かした。右目で補われた視力は、眼鏡越しの目が細められたときに出来る皺や、スーツのネクタイの緩み具合まで見ることができた。
「普通、逆でしょう」
「私、コンタクトをしてないときに見える景色が好きなんです」
「そうなんですか」
私は先生から視線を外して、さっきまで見ていた、すっかり日の暮れた夜の景色に目をやった。この学校は丘の上に建っているせいか、三階の教室からだと、丁度、街の景色を見下ろせるのだ。私の席は一番窓際。ホームルームが終わってから今まで、ずっとこの席を立っていない。一緒に帰ろうという友達の誘いは全て断った。コンタクトが見えるほうの目を隠して、水色が、薄いオレンジになって紫になって、そうやって、どんどん濃くなる空の色や、星がちらちらと輝くように増えていく街の明かりをずっと、ずっと眺めていた。ホームルームの途中で目を擦ったときに、たまたまぽろりと落ちたコンタクトは、水分を失ったまま、机の上に転がっている。
先生は、注意したのは最初だけだった。それ以上急かすこともなく、何故か歩み寄ってきて、私の一個前の席に座った。先生は黒縁眼鏡を外し、窓の外を見る。
また、先生はクスリと笑った。
先生の目は細くて、どちらかと言えばつり目だけれど、嫌な鋭さはない。わざと少し緩ませているネクタイとか、少しだけ跳ねている髪とか、きっちりとした中に柔らかさがある。先生の優しい敬語も、ゆっくりとした喋り方も好きだ。三十をとうに超えているだろうけれど、同級生の男子にはない綺麗さがある。眼鏡を外した今の先生の表情も、すごくいい。
私は先生が好きだ。もうとっくに気づいていることだけれど、急に鮮明に思った。
「確かに、ぼやけている夜景、綺麗ですね」
先生はそう呟いた。
私はいつだって、はっきりした世界よりも、ぼやけた世界のほうが好きだ。人間関係だって、ぼんやりとして曖昧で、好き嫌いも分からないぐらい不明瞭なほうが良い。友達や自分の、卑怯さやずるさに気づかないぐらい鈍感でいたい。でも私は、友達のちょっとした仕草や言葉で、すぐ、それに気づいてしまう。嫌なことに気づく洞察力だけは、2.0なのだと思う。
この先生のことが好きになってしまったのも、多分、私の性格のせいだろう。先生は、一人の生徒を特別扱いせずに、平等に接する。生徒とは仕事上の付き合いって感じで、心も必要以上に許してない。そのぐらいの距離感が好きだ。近づきすぎて何もかも透けて見える友達関係より、ずっと。
「先生」
「何ですか?」
「私、色んな本を読みました」
「そうですか。いいことです」
先生は、ふわりと笑った。先生の教科は国語だ。先生は夏目漱石が好きだと授業で言っていたから、鞄の中には図書室で借りた夏目漱石の本がいくつか入っている。
「先生」
「何ですか?」
「月が綺麗ですね」
ちらりと先生のほうを伺うと、先生はぼんやりと浮かぶ白い月を眺めているようだった。その表情からは、何を考えているのかは、それこそ、月に手を伸ばすかのように、ちっとも掴めなかった。
「漱石ですか?」
しばらくして、先生がそう聞いてきた。私は答えなかった。そうです、と答えたとして、私はその後の先生の言葉までは求めてなかったからだ。
私はまた、夜に目を向ける。コンタクトを外した、裸の目で見る夜の月は、ぼんやりと滲んで遠かった。
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