月の夜
1
その日は満月だった。歩道脇に生えている草木はゆらゆらと風で揺れている。
目の前の公道を駆け抜ける車の音が、小喧しく耳元に鳴り響く。肌寒い夜である。私、小説家の御影吉秋は、誰もいないバス亭のベンチで一人腰掛けていた。
バス停の横にある外灯には名前も知らぬ虫達が嬉しそうにたかっていて、何だかひどく痒くなるような光景である。
何かをしたかったわけではない。
私は焦燥していたのである。
今日の朝一から小説のネタになりそうな出来事は無いかと、町に出てみたものの、これといった収穫は無く、渋々最終バスに乗って帰ってきたはいいが、歩き疲れたのもあり、バス停から動けずに休んでいたのだ。この村にはバス亭が一つしか無く、自宅まではここから更に二十分は歩かなければならない位置にあるのだから、本当に溜息の一つでも零したくなるほどに田舎だ。
そしてなにより私を焦らせる事は締切が近いという事だ。
このままでは遅れてしまう。しかし、新作のネタが全く浮かばないのもあり、原稿は全くの白紙だった。それだけでは飽き足らずに、出版社から届いている、九月刊行予定の校正ゲラにも目を通さないまま、自宅の書斎に放りっぱなしにしているのだから、私は心底、小説家という商売に不向きなのかもしれぬとこの時思った。
締切の事など考えても仕方がない。
肌寒い夜風に時折震えたりしながら、上を見ると、そこには星が沢山あった。闇一色のキャンパスに、光の粒が一面にばらまかれている。
あぁ、なんとも美しい。
私はしばらくの間、この星空を独り占めしたい衝動に駆られた。
それはまるで音の無い映画のよう。
私は近くにあった自販機で缶コーヒーを一本購入し、再びベンチに座って、星空を見上げる。
「子供のころは、よく空を見上げてたっけな」
私がそう呟いた時、唐突に男の声が聴こえたのだった。
――お兄さん。バスはもう来ないよ。ここ一時間に一本しか来ないから。今日はもう終わり。
ふと横に首を向けると、中学生くらいの少年が立っている。
長袖のボーダーシャツにデニム姿。卵型の端整な顔立ちをした少年は、その特徴的な二重瞼の目をまっすぐこちらに向けて無表情を貫いている。低くて透きとおった声。やせ型の体型は、どこか中性的であった。
その少年の黒くて長い髪の毛は、夜風に乗ってさらさらと靡いている。
なんだろう。
この少年を一言で例えるなら――
美男子とでも言うのだろうか。
私は少年に見入られて、しばらくの間、沈黙してしまった。
「あぁ、知ってるさ。僕もこの村の住人だからね。ちょっと休憩してただけなんだ」
「休憩? 家に帰ってからすればいいんじゃないの? わざわざこんな場所で」
少年は面白い生き物でも見るかのように、微笑んでいた。
「そうだね。でも今日は朝から取材に出掛けていて、一日中歩いていたから、流石に疲れてしまってね。溜まらずここに座ってしまったというわけさ」
「取材?」
少年は小首を傾げる。
私はこの少年に出来るだけ分かりやすく簡潔に自らの正体を説明した。
小説家という異端な職業についてのこと。
題材がなければ物語は書けないということ。
私がまだ二十そこそこの歳だということ。
その説明が少年の好奇心をくすぐったのだろうか。彼はゆっくりと私の隣に座って、
「お兄さん小説書いてるんだ。凄い」 と言った。
「凄くなんて無いさ。所詮、僕なんて世間からはみ出した異端者だ。小説が書けなきゃ、ただのフリーターかボンクラさ」
「いたんしゃ? まぁ、いいけどさ。兎に角凄いじゃないか」
少年は食いつくように私に質問ばかり投げてくる。
それにしてもこの少年、一体ここに何をしにきたのだろうか。今度は私の方が少年の事が気がかりになった。
「そういえば君は一体ここに何をしに来たんだい?」
「え。 あぁ、散歩だよ。僕、ほぼ毎日のようにこの時間にこの道を通るんだ」
なるほど。
その散歩の最中で私を見つけたというわけか。
「へぇ、散歩ねぇ」
「僕の話はいいからさ。もっとお兄さんの話聞かせてよ。どんな小説を書いてるの? もしかして国語の教科書に載ったりしているの?」
馬鹿を云う少年である。
教科書に載る小説というのは江戸、明治、大正、それよりももっと古い歴史を持つ偉大な文豪達が遺した作品だけだ。
私の小説など、ただの趣味の延長上にしか無い娯楽小説。
ホラー小説だ。
教科書に載るだけの価値など全くない。
ましてや私は新人小説家だ。
私の書いた本など、精々書店の片隅で埃を被るほどの価値しかない。
漱石や、志賀などの足元にも及ばぬ。
「載ってるわけないよ。デビューしたのはつい最近だしね。まだまだ出している本の数も少なくて、挙句の果てに、今はスランプってやつさ」
私は溜息を一つ零した。
「スランプ? ネタが無いって事?」
「そう、今日まる一日取材しに町に行ったけど、結局、収穫はひとつもなし。最悪だ」
「そうなんだ」
ここで会話が途切れる。
再び車が走り抜ける音が響いた。
少年は何かを考え込むように俯き、何もない地面を見ていた。本当に不思議な少年である。その白く、中性的な横顔には相変わらず表情が無かった。
それから三分ほど経過した頃、少年は固く結ばれた口を開くのだが、彼の口から出た言葉に、私はただ耳を疑うばかりであった。
2
「――ねぇ、小説のネタになりそうな話あるんだけど、教えて欲しい?」
そう言ったのだ。少年は。
口元に弧を描き、不適に微笑む少年が何故だか酷く妖艶に見えた。
「どんな話だい?」
「そうだな。缶ジュース一本で手を打とうじゃないか」
少年の甘い誘惑に乗り、私は彼にミルクココアを一本奢った。ネタが無くて四苦八苦していた私は藁にもすがりたい想いで少年の話に耳を傾ける事にした。
彼はココアを一口啜ると、淡々とした口調で話を始める。
――僕の両親がね、去年の夏に殺されちゃったんだ。
突然少年の口から飛び出した重苦しい言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「殺された……?」
少年は頷き、その時の状況を克明に説明し始めた。
事件が起きたのは七月二五日の夜の事。
その日彼は早朝から友人達と近所の川まで泳ぎに行った。そのまま夕方まで遊び、友人達と別れた彼はそのまま、真っすぐに家に帰ったらしいが、そこで彼を待ち受けていたのは余りにも悲哀な出来事だった。
台所の流し台の前で血まみれになって倒れている母親。
リビングのソファーの上。包丁で胸元を貫かれた父親。
彼はその光景を見るや否や、すっかり怖ろしくなってしまい、リビングの床の上でしばらくの間、動けなくなってしまったらしい。
「――君の両親は誰かに怨まれていたのかい?」 訊いた。
「いいえ、警察の人が言うには、物盗りだろうって。事実、リビングの棚に入っている通帳やカードとかは全部盗まれていて、父さんと母さんの財布もすっかり空になってたから」
「犯人は捕まっていないのか?」
少年は悄然として顎を引いた。
「捕まるも何も、警察は手掛かり一つ掴めていないみたい」
「そうか・・・・・・」
「しかし、だとすれば、君は今誰に世話をしてもらっているんだい?」
「父さんと母さんが殺された後、小父夫妻が僕の家に引っ越してきて、世話をしてくれるようになったんだ」
私は、少年の抑楊の無い話口調が時折大人びていたので、おかしな感覚に陥った。きっと、彼の両親が死んだ際に、彼の精神は、どこか壊れてしまったのだろう。
「――どうしてこんな話を僕に?」
「言ったじゃないか。小説書けなくて困ってるんでしょ。だから、僕がネタをあげるって」
「しかし……」
少年が語った哀しい過去が、もし世の中に小説として流布し、彼の目に再び入る事になれば彼はまた厭な過去を思い出してしまい、辛い想いをするのではないか。
「いいんだよ。――僕、ずっと思っていたんだ。いつになったら、警察の人はこの事件を解決してくれるのかなって。いつまで経っても容疑者も絞れない警察の人より、案外、お兄ちゃんみたいな人の方があっさり事件を解決できるんじゃないかって。もし、小説書いてる最中に犯人とか分かったら、教えてよ。お兄ちゃん、ミステリー小説とかも書くんでしょ」
確かに少年の言う通り、ミステリーと呼ばれるジャンルの小説は書いた事がある。
「まぁ――しかし、小説は所詮、小説だ。現実と一緒にしてはいけない」
「分かってるさ。でも、ここからが不思議な話なんだ。事件には続きがあってね。現金やカード類が全て抜き取られているというのに、家からは犯人の指紋らしきものが、全くなかったんだ。その点からして、警察の人は、犯人が手袋か何かをして犯行を行ったんだろうって言ってたんだけど、家はものすごく荒らされていて、殺人は突発的に行われたみたいなんだ。お金だけが目的だった犯人にとってお父さんたちに見つかった事をよっぽど驚いたんだろうね、だからわざわざ殺人なんて罪が重くなるような行為に走った」
違和感を覚えた。
この犯人は矛盾しているのではないか。
「変だな……」
「お兄ちゃんもそう思う? そうなんだよ。おかしいんだ」
「もし金銭目的で家に入ったんなら、わざわざ昼時に侵入するより、夜中に侵入した方がいい。君の家という正確なターゲットが定まっているなら、君の両親が出払っている時間を事前にもって調べればいいだけのこと。指紋を残さない為に手袋をするだけの用意周到な犯人にしては、随分と大胆な犯行時刻だ」
「そうなんだよ。だから、警察の人も頭を傾げてるみたい。夜に盗みを働けば、お父さんたちに見つからずに済んだかもしれないのにって」
「もしかして、物盗りは警察の捜査をかく乱させる為だけに行っただけで、本当の目的は君の両親を殺す事だったのかもしれないな」
少年はここで怪訝に眉をひそめた。
「お父さん達を殺す事が目的?」
「そう。犯人が、君の両親の顔見知りだった場合、昼間に君の家に侵入しても何ら違和感はない。この犯人は被害者の二人を怨んでいた。だから二人を殺した後に、家の金銭類を全て抜き取って物盗り目的の際に起こった突発的な殺人事件に見せかけたんだ。警察の捜査を混乱させる為にね。突発的な強盗殺人事件の犯人がまさか被害者の知り合いだったなんて思わないからね」
「なるほど……」
「犯人は二人の顔見知り。よって、君の両親は何の疑いもせずに犯人を真昼間から招きいれたんだ。殺されるとも知らずにね。だが、そこで悲劇は起こった。犯人は用意していた手袋を嵌めて包丁で二人を殺した。そして物盗りに見せかけるために家を散々荒らした挙句に、家を後にしたんだ」
「お兄ちゃん、流石に作家さんなだけあるよね。僕が話した事だけで、もうそんな推理をするなんて、驚いたよ」
少年は息を漏らした。
「大した事ないさ」
こんな小説を読んだ事がある。大した事はない。
だが、それは創り出された架空の物語だから大した事はないのだ。
こんな事件が現実社会で起こり得ていると思うだけで、なんだか悲しくなった。
「でもさ、そこまでは警察の人も掴んでいたみたいだよ。分からないのは、犯人がどこに消えたかってこと」
少年は人差し指を立て、口元に弧を描いた。
犯人が消えた?
3
彼の両親の死亡推定時刻は午後二時半だった。しかし、その日の午後一時から午後四時までの間、少年宅の前では下水工事がされていて、作業員達が家の前を囲んでいたらしい。そして少年が帰宅したのも午後四時だったという。
これでは犯人は殺人を行った後、家から抜け出すのは困難である。
もし、作業員に顔を見られてしまえば、すぐに容疑者として特定されるに違いないからだ。
「君の家に裏口はあるのかい?」
「ない。だから不思議なんだ。――でも僕が家に帰った時、確かに犯人はどこにも居なかった。そこにあったのは、冷たくなった父さんと母さんだけ」
少年は哀しげに地面を見つめていた。
裏口はないとすると、やはり犯人は玄関から入り、玄関から出た――と考えるのが筋だろう。
「窓から出たという可能性はないか?」
「家の窓にはアルミの柵がかかってる。人が出入りできるような窓はないんだ。元々は野良猫とかが入ってこれないようにってこの家を建てる時に母さんが大工さんにお願いしたらしんだけど、この辺、やけに野良猫が多いし、母さん猫アレルギーだったから。それにもし、その柵を破って犯人が出て行ったとしても、その痕跡が残るだろう。だから未だに未解決事件なんだ」
窓には柵。
裏口もない。
玄関の前では作業員が工事を行っている。
では犯人は、正しく煙のように消えてしまったとでも言うのだろうか。
頭が痛くなった。
ん――待て。
私の脳裏に一つの節が浮かんだ。
「ある――犯人が家から煙のように抜け出す隙が、たった一瞬だけ」
「え?」
「君が両親の死体を見た瞬間だ」
「僕が、死体を見た瞬間?」
「そうさ。君は死体を見た瞬間、どうしたんだ?」
少年が哀しげに考え込む。思いだしたくもない過去を脳裏に想い浮かべているのだろうか。
「僕、父さんと母さんを見て、怖くなって、動けなくなって、床にうずくまって……」
あ――
少年はここで短く声を挙げる。
「その瞬間さ。要するに君がその日家に帰ってきた時には、まだ犯人は犯行現場に居た。そして君が冷たくなった両親を見て動けなくなっている隙を狙って犯人は家を飛び出たんだ。当然、その時には工事も終わって作業員も解散しているだろうから目撃者はいない。これで摩訶不思議な物語は終わりさ。後は君の両親の知り合いを手当たり次第当たっていけばおのずと容疑者は上がってくるだろう」
「僕が動けなくなっている間に……確かに、あの時の僕は頭の中がまっ白になって、周りの気配なんて気にもしなかった。そうか……そうだったんだ」
少年は納得した様に、そうだったんだと何回も呟いていた。
私は空になった缶をゴミ箱に投げ捨てると、少年はその音に驚いたのかビクッと肩を上げた。気がつけば、もう午後九時を廻っている。
「さぁ、そろそろ帰ろう。わざわざ辛い話を聞かせてくれてありがとう。――でも小説のネタはやっぱり自分で探すことにするよ。他人の不幸話を小説にするのはやっぱり気が引けるからね」
私はベンチから腰を上げ、軽く背伸びをした。
少年は未だにベンチに座ったまま、地面を見つめている。
「お礼なんていいんだよ。けど、やっぱり小説にして欲しいな。僕自身の為にも」
少年はぽつりと呟いた。
「君自身の……為?」
「――忘れない為に。僕自身の罪を」
「何を言ってるんだ。君は? 君は被害者だろうに。さぁ、もう遅いから帰ろう。いいかい。これから君がやるべきことは、警察の人のさっき僕が言ったことを話す事だ」
「お兄ちゃん……やっぱり、お兄ちゃんは凄い作家にはなれないと思う」
少年が呟いた一言に、小首を傾げた。
今、何と言った?
「え?」
訳も分からず訊ねる。
「もしかして、お兄ちゃんなら、この事件の真相暴いてくれると思ってたのに、残念だよ」
額に冷たい汗がすぅ――と伝った。
寒気がする。
暗闇の中で、そう呟いた少年は妖しげに微笑んでいたのである。
「な、何を言ってるんだ? 事件の真相ならさっき僕が説明したじゃないか」
「ハズレだよ。ハズレ。惜しかったけどね」
意味が分からない。
「ハズレって……おい、君……」
少年は立ち上がり、ココアの缶をゴミ箱に投げ捨てる。ゆっくりと歩を刻み始めた。そのほそ長いシルエットは私の目の前から見る見る内に遠ざかっていく。
待って。
大声で少年を呼び止めたが、彼はこちらを見向きもしない。なんだというのだ? この態度の変貌ぶりは。私は錯乱状態だった。
そして、私と少年との距離が、十メートルほど離れた時、彼はゆっくりとこちらを見返って、妖艶な笑顔を向けた。
「――犯人はね、本当に消えたんだよ。いや、僕が消したんだ!」
それから一分後、彼の後姿は見えなくなり、残された私は、暗闇の中で地面に膝をつき、一歩も動けなくなってしまった。
4
深夜十二時。
キーボードを叩く指に急ブレーキを掛ける。自宅の書斎にて執筆に専念していた私は、あの不気味な少年の事を思い返していた。PC画面の中で規則正しく原稿の上に配列された活字を追っていると、私はなんだか悲しくなる。あの少年を襲った悲劇の事を思うと居た堪れなくなる。それでも私はあの少年との約束を守りたいと思った。
少年との別れ際、彼が最後に言った言葉が酷く頭に刻まれている。
つまり、少年はこういう事を言いたかったのだ。
犯人は、自分が殺してしまったのだと。
彼の両親が殺害された日。川から帰宅した少年が真っ先に見たのは両親の死体と――
犯人の姿だったのだ。
驚いた犯人は、きっと少年も殺そうとしたに違いない。
襲いかかる犯人。
逃げ惑う少年。
しかし、あろう事が犯人は少年に殺されてしまったのだ。
少年はきっと両親の命を奪われた犯人を心底憎んだのだろう。疎ましくて仕様が無かったのだろう。殺らなければ殺られる。そう思ったのだろう。
――犯人はね、本当に消えたんだよ。いや、僕が消したんだ!
少年が放った一言が何よりの証拠だ。
犯人を殺してしまった少年は、警察に偽りの証言をした。
そして警察は未だに容疑者すら特定出来てはいない。
いや。特定出来るはずがないのだ。
何故なら、犯人は、今もきっと少年の家の中にいるのだから。
それが床下なのか、はたまた天井裏なのかは分からないが、間違いなく犯人の死体は、あの少年の手によって隠された。
では彼は何故、私にこの事を話したのだろうか。
酷く頭が痛くなった。
本当に誰かに自らの罪を暴いて欲しかったとでも言うのだろうか?
どちらにしても、私にはミステリー作家としての才能も無いのだと心底自分の無能さを恥ずかしく思った。
書斎の窓から、満月が見えた。 〔了〕