5 呼称
翌朝の花梨の起床時間は、いつもよりも三時間も遅かった。就寝が三時間遅れただから当然といえば当然かもしれない。
“帰りは七時ぐらいになると思います。出かけるときは鍵をかけてください。冷蔵庫に回鍋肉。彼女によろしく”
ダイニングにある大きな木製テーブルの上に、叔母の書き置きがあった。仕事に出かけたようだった。彼女というのは、もちろん三坂怜亜のことだろう。その彼女のことで訊きたいことがあったのにな、と花梨は叔母がいないことを残念に思った。
花梨は、ゆっくり時間を使って身支度を済ませた。ご飯に回鍋肉を乗せて食べ、お風呂場で体を念入りに洗い、新しい服(叔母さんに買ってもらったやつ)に着替えた。
それから近場の洋菓子店に行って、チーズケーキを2つ購入した。二十分たらずで家に戻ってきて、冷蔵庫にケーキをしまった。これで全ての仕度が終了。あとは時間になるのを待つだけだ。
「あと四時間か」
花梨は、ベッドに仰向けに倒れて天井を見上げた。携帯電話を開いてメールの受信箱を見る。
“秘密をばらします”
花梨は、そのメッセージを長いあいだ見つめた。一体、どういう意味だろう。
タイミングから考えれば、これは花梨に宛てられたメールに違いない。普通に考えれば、花梨に対して何らかの秘密を明かすということだろう。
問題は、これが通話の後に送られてきたメールだということだ。彼女は何故、わざわざメールでこの文章を打ったのだろう? 口で話せば済むことだったのに。通話の後に、たまたま思い出したのだろうか? あるいは文字として残したかったのだろうか。メールは消去することもできるけど、逆にいえばそれをしなければ残り続ける。そうすれば、このメール文は、叔母も見ることになる。
多分、彼女はそれなりに大きな秘密を握っているのではないだろうか。そう花梨は予想した。ただの思わせぶりや小事であるとは考えにくい。それは花梨が抱いている彼女のイメージと合致しない。彼女がそんなことをするとは思わない。
だけど、それ以上に分かることはない。推理の材料が集まっていないから、予測や予想はできても裏づけがとれない。想像の通りになるのか、それとも考えつかないようなことが起きるのだろうか。彼女は秘密をばらすというが、花梨から見れば、彼女の全てが秘密だともいえる。未知の場所に踏み込み、未知の人と出会う。なかなかの冒険だ。
花梨の胸が高鳴っていた。そのときの花梨は、自分の気を静めたいのか、あるいはそうでないのかが分からなかった。だが、少なくても悪い気分ではなかった。完全にイニシアチブをとられているが、それこそ花梨が望んでいることだ。こういうスリルは、何ものにも代え難い。
彼女と再会することで頭がいっぱいで、他のことには手がつけられなかった。時間があるので読書をしようと試みたが、文字が頭の中に入るだけで、その意味まではとどがなかった。家の中をうろつき回ったり、顔を洗ったり、冷蔵庫を物色したりした。
時間の進みは遅かった。なんとか約束時間の一時間前まで持ちこたえると、花梨は、とうとう我慢をするのをやめた。携帯電話を取り出し、彼女を呼び出したのだ。今回は比較的に早く通話できる状態になった。
「まだ早いけど、会いに行ってもいい? 私、待つのが苦手でさ。あっ、そうそう。叔母さんが出かけちゃったから場所が分からないの。場所を教えてくれる?」
口で説明する方が面倒だということで、花梨たちは互いが知っている場所で落ち合うことにした。昨日の川原だ。花梨は冷蔵庫からケーキの箱が入った茶色のビニール袋を掴み、嬉々として家を飛び出した。
五分も経つと、花梨はすでに川原に着いていた。以前と変わりなく川は飛沫を立てて流れていた。彼女はまだ来ていなかったが、花梨はかなり急ぎ足で来たので当然だろう。
彼女は何処からやって来るのだろう。と花梨は考えた。昨日のように川の対岸からだろうか。もしそうであったのなら、今日も同じことをやってみてよ、とか言って唆してみようか。そうしたらきっと、今日はあなたがやりなさいよ、などと彼女は言い返すだろう。その次は……
花梨が、そんな空想に耽っているときだった。突然、何者かが花梨の右肩に触れた。花梨の心臓は跳ね上がり、体を翻して地面に倒れこんだ。その際に、右の手のひらを強く擦り、軽い痛みが走った。
「あら、どうしたの?」
花梨は、擦りむいた手をもう片方の手でなでながら、気を落ち着かせようと呼吸をした。後方にいたのは三坂怜亜、その人だった。しかし……
「いま、いきなり現れなかった?」
「はあ?」
「だって…、だって、いま……」
花梨は、寸前の記憶を手繰り寄せようとした。十秒ほど前のことだ。周りには誰もいなかった。いなかったはずだ。それが十秒前だ。
「意味、分かんないわね」彼女は、長い髪を掻き上げながら言った。「普通に歩いてきただけよ。一体、何を言ってるの?」
花梨は何とか気を取り直そうとした。確かにそばに木々があり、そこに隠れることはできる。きっと、上手く花梨の不意をついたのだろう。だが、何かが腑に落ちなかった。
「足音がしなかったような……」
「聴こえなかっただけでしょ。何か考え事でもしてたんじゃない?」
「そりゃあ、そうだけど……」花梨は記憶を辿ろうとした。考え事。確かにしていたかもしれない。「いいえ……。いきなり驚いたりしてごめんなさい」
「全くよ。むしろそんなに驚かれて逆にこっちが驚いたわさ」
「ほんと、ごめんなさい。私、ぼーとしていたのかな?」
「もういいわよ。私も悪かったわ。肩に手を置く前に一声かけるべきだった。さっ、早く行きましょ」
彼女の口調や振る舞いには何の不自然さもなかった。むしろ、花梨が驚いている理由が分からない、そんな態であった。花梨は、いつもの調子をなかなか取り戻せなかった。不思議なこともあるものだ。そんなにすぐに外側への意識が途絶えるものだろうか。
「あの人……、リラ先生は、何か言ってた?」先頭を歩きながら、彼女が言った。石だらけで歩きにくい道だったが、彼女の方は慣れているようで、すいすいと歩いて行く。「私の悪口とか言い触らしてたんじゃない? あなたの方も色々と詮索したんじゃなくって?」
「そりゃあ、まあ、話の種にはしたよ」花梨は、急ぎ足で、かつ転ばないように注意しながら彼女についていく。「あまり詳しいことは訊けなかったけど、名前とか、もともと叔母さんの教え子だったってことぐらいは。えーと……三坂怜亜さん、ですよね? なんて呼べばいいですか?」
「何でいきなり、敬語チックなのよ」彼女は呆れたような声で言った。「好きなように呼んでくれればいいわ。さんづけは勘弁願いたいけどね。あと、苗字で呼ぶのも止めて。この辺り、おんなじ三坂って苗字ばかりで、それがすっごく嫌なの」
「好きなように、と言うわりに条件が多くない? 年齢差を考えれば、怜亜さんって呼ぶのが自然だと思うけど」
「なに言ってんのよ。ずっとため口で話してるくせに。なんなら呼び捨ててくれても構わないのよ」
「それは、さすがにできないよ」
「どうして?」
「そんなの当たり前じゃない。だって多分、私より三つぐらい年上でしょ?」
「歳がどうしたって言うのよ」彼女は、ため息交じりの声で言った「そういうことに捉われているから、みんなバカなのよ。……うん、決めた。その方が面白そうだわ。さっきの言葉は訂正。呼び捨て以外では、受け付けないわ」
「本気で言ってるの?」
「本気も本気よ。逆に訊くけど、どうして年上を呼び捨ててはいけないの?」
花梨は、歩きながら考えた。当たり前だから、それが普通だから。そんなのは、もちろん答えになっていない。バカだと言われても仕方ないほどだ。花梨が逆の立場でも、そう思っただろう。
「絶対にダメだと言うわけじゃないけど……」花梨は慎重に言葉を選んだ。「でも、そっちは本当にいいの? 私、まだ十一歳なのよ?」
「私だって、まだ十五歳よ」
「四つも年上じゃない」
「あっそ。じゃあ、もういいわよ。好きにしたら?」
そんな言い方しなくてもいいじゃない、と花梨は言いそうになって言葉を飲み込んだ。彼女の口が悪いことは百も承知だったはず。喧嘩するメリットもない。
「怜亜……、ううん、やっぱり無理よ。まだ、知り合って間もないんだもの」
「あら、できたじゃない。その調子よ。慣れればどうってことないわよ、きっと」
「そうかなあ?」
「そうよ。ふふ、面白い」
「もう。人を使って遊ばないでよ」
その時から、花梨の中で、彼女=怜亜になった。初めのうちは、やはり抵抗があった。習慣というものが、人をどれだけ縛っているかということを花梨は知った。同時にまた、言葉を変えたときに変化すのは言葉だけでないということにも気がついた。実際、彼女を呼び捨てているうちに、彼女が年上だという事実は、意識の中から薄れていくことになったのだ。
「何をしてるの? 置いていくわよ?」
肩越しに振り返って、怜亜はいつもの気取った声でそう言った。