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逆幽霊  作者: tetu
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3 一幅の絵


 夕方の五時ごろ。花梨は、左手にバケツを下げ、右手に竹竿を持ち帰路についていた。結局のところ釣果はあがらなかったが、嫌な気分ではなかった。たぶん、困っていたところを助けてもらったからだろう。バケツは空っぽだったが、花梨の心は優しい気持ちでいっぱいだった。

 ところで、花梨は帰るべき場所に真っ直ぐ向かっていたものの、その場所は自分の家ではなかった。今の花梨は自分の家には歩いて帰ることができない状況にあった。目指していたのは叔母の家だった。

 叔母の家は、花梨の家から二十キロ以上も離れている。何かと騒がしい花梨の家の付近とは違い、静けさと自然に包まれた穏やかな田舎である。一応の交通機関があり、一応の道路がひかれているので完全無欠の田舎だとは言い難いが、ウグイスの歌や蛍の光を堪能できると考えれば、それなりのものであると言ってもいいだろう。何にせよ、緑に溢れているというのは、たいへん結構なことであった。

 夏休み、冬休み、春休み。つまりは、まとまった休みになると、花梨はママと一緒に、というよりはママが花梨をつれて、叔母の家に訪れる。いつもは一日か二日ほど泊まり、その翌日には帰ることになるのだが、その夏は、花梨一人だけで、すでに四日間も滞在していた。花梨が提案して、それがあっさりと受諾されたのだ。

「じゃあ、わたしは一度、帰るわね。花梨、あんまり勉強ばかりやってちゃダメよ。叔母さんに、何か危ない遊びでも教えてもらいなさい」

 ママは、そう言い残して去っていった。叔母はクスクスと笑い、そんなに勉強ばっかりやっているのかと花梨に訊いた。じじつ勉強魔である花梨は、否定することもできず、ぷぅーと頬を膨らませるしかなかった。

 叔母の家で寝泊りして四日間。予想通りに良かったこと悪かったこと、予想外に良かったこと悪かったことがそれぞれあった。しかし総合的にみれば、やはり残って良かったなと花梨は思った。理由は色々あるが、一番大きな理由は、叔母との親睦を深められたことだろう。

 叔母は、花梨にとって大切な人であり、常に良い関係を保っていたい人でもあった。彼女が花梨と同じものを持っているからだ。前にも簡単に述べたが、叔母は日本人ではなかった。カツラもコンタクトも無しに、髪はアーモンドのようなツヤのある茶色、瞳は深い緑色だった。花梨のママも同じような風貌だ。パパはちがう。日本人だからだ。だから花梨も半分だけ叔母やママと同じ特徴を備えていた。

 叔母になら、何でも気軽に相談できた。容姿のせいで、クラスメートにちょっかいをかけられていると悩みを打ち明けたこともある。すると叔母は、何も言い返さずにいるのが一番良くない、などの具体的なアドバイスを幾つかくれた。それらの助言の全てが功を奏したわけではないが、頼りにできる相手がいるという事実そのものが、花梨を勇気づけてくれていた。

 もちろん、ママだって同じ条件を持っているし、相談するだけならパパや先生や友達にしても構わないはずであった。しかし、だんぜん頼りにしたいのは叔母なのである。叔母の方がママよりも常識人だったし、(ママには内緒だけど)頭が良さそうに思えた。

 叔母は一人暮らしであったが、それもまた、花梨の関心を引く要因にもなった。叔母は、花梨が産まれる以前に、年長の配偶者を失い、未亡人となっていた。叔母の夫は、元々が病気持ちだったらしく、当然、叔母には子供がいなかった。

 しかし叔母は、最愛の人を失った後も祖国に帰らなかった。このことは花梨の運命をも大きく変えていた。というのは、叔母の姉、つまり花梨のママを、日本にとどめさせる理由になったからである。叔母がもし祖国に帰っていたとしたら、花梨のママは日本で結婚することもなく、花梨は、エミリーとかステファニーとかいう名前になっていたかもしれないのだ。(生まれてこなかったと考えることもできるかもしれない)

 叔母が日本を離れなかった理由は分からない。叔母に訊いても、はっきりとした答えが返ってこないのだ。ただ、一つには趣味のためなのではないかと花梨は踏んでいた。叔母は絵を描いたり観たりすることに多大な関心があり、特に四季折々の自然を愛しているようであった。また、変わったところでいえば、叔母は日本の漫画文化にも強い興味を持っていた。

 叔母について記すべきことは、大体こんなものだ。続けることはできるが、その話は、ひとまずこのぐらいにしておくことにする。さもないと、話が一向に進まないからだ。ともかく、花梨は川で釣りを終えたあと、とことこと歩いて、叔母の家に帰ってきた。

 花梨は、自分が帰ったことを叔母に伝えるために、やや大きめの声で、ただいまーと言いながら、木製の扉を引っ張って、家の中に入った。叔母の家はレストランみたいだ、と花梨はつねづね思っていた。玄関の戸を開けると小部屋があり、そこに傘立てが置いてあるのだ。そして、さらに奥に進むと、そこがダイニングなのである。

 そのダイニングに叔母はいた。およそ単身の人間には不釣合いな巨大テーブルに右肘をつき、左側にいる花梨をちらりと見て、おかえりなさい、と言った。右半分が写真で占められている料理本を、気だるそうに眺めていた。もちろん、川原でしていたサングラスは外していて、柔らかな緑色の瞳を見ることができた。

「おかえりなさい。案外、早かったわね。道具は、その辺りに置いといて頂戴。首尾はどうだった?」

 それほど、興味がなさそうに、叔母は訊ねた。分かってはいるけど一応ね、といった感じだ。

「くたびれ損の骨折り儲けよ」花梨は、バケツと竿を床に置きながら答えた。「こんなことなら、家の中でじっとしてるんだったな。長靴一つ釣れなかったもの」

「あら。そのわりには機嫌が良さそうね」

「まあね」

 花梨は、部屋の左奥にある扉のない入口からキッチンに入った。まず、流しで手を洗い、それから冷蔵庫を開けて麦茶を取り出した。それをコップになみなみと注ぎ、ちびちびと飲んだ。花梨は、体が小さいせいか、冷たいものを一気に飲むと、必ずお腹を壊す。だから冷たいものを飲むときは、胃にショックを与えないように少しずつ飲むことにしていた。

 それから花梨は、シャワーを浴び、読みかけだったエッセイを読み終え、叔母の作った夕食(親子丼、味醂入れすぎ)を食べた。食後は、特にすることもなく、ただ熱いお茶をゆっくりと飲みながら、幸せな気分にひたっていた。昼間にはしゃいだせいなのか、少し眠気があった。そこで、ふと彼女のことを思い出した。

「そういえば、叔母さんが帰った後にね……」

 花梨は、二時間ほどの前の出来事を叔母に話した。初めは、釣り糸を木の枝にひっかけてしまったことや、彼女が川に入ったことなどを黙っていようかと思ったが、眠気のせいか面倒くさくなってしまって、結局は事実をそのまま話すことになった。叔母は表情一つ変えずに聞いていたが、ときどき聞き返すなどをして、関心がないわけでもなさそうだった。

「ほんと、おかしい人だったなあ。田舎の人って、みんなあんな風に話すものなの?」

「それは違うんじゃないかしら」

「あっ、やっぱり? でも、ああいう話し方も悪くないと私は思ったな。そりゃあ、最初はイラっとしたけどさ。嫌いになれなかったもん」

「どうして?」

「どうしてって言われても。多分、新鮮だったからじゃないかなぁ。初対面だとどうしてもぎこちなくなっちゃって、楽しくお喋りできないでしょ。彼女と話しているとき、そういうのが全くなかったから」

「彼女ともう一度、会いたい?」

「うーん。どうかな。あっ、お茶をもう一杯もらえる? そうね。うん。会えたらいいかな」

 花梨は少しだけ、その状況を想定してみた。再開するや否や、彼女は何か言うだろう。“あっ、この前のチビ”、だとかなんとか言って。そうなった場合、花梨も負けじとカウンターをするだろう。“あっ、このまえのミイラ”とかなんとか言って。そして、その後は、この前のお礼をする。“あら、何のことかしら”だとか彼女は言うだろう。その後は、どうするだろう? どうにでもできるな、と花梨は思った。彼女のことを聞いてみるのもいい。まずは歳でも聞いてみようか? 同い年ってことはないだろうけど、それほど差があるとも思えない。おそらくは中学生、あるいは高校生、そのどちらかに違いない。

「彼女の容姿を教えてくれる? 人相書きを作ってあげるわ」

 叔母は出し抜けにそう言って、広告の束から裏面が白紙のものを一つ選んで抜き出し、それをテーブルに置いた。また、カベ掛けのカレンダーに横にひも付きでつけられていたメモ用の鉛筆をとった。

「何をするの?」

「だから、人相書きよ。この前、テレビでみたの」

「そんなの作ってどうするの? コピーしてばらまくつもり?」

「冗談でも、そんなことはしないわ。さあ、後ろを向いて」

「えー、なんで?」

「完成してから見た方が面白いでしょ。彼女の姿かたちを口頭で伝えて。私が絵を描くわ」

「口だけで? いくら叔母さんでも、それは無理だと思うけど?」

「まあまあ、とにかく言うとおりにして」

 突然の叔母の提案によって花梨は混乱させられていた。むろん叔母が絵を得意としていることは承知している。だけど、口で伝えられることには限界がある。そもそも、花梨だって彼女の容姿を鮮明に思い描くことはできないのだ。

「ほらほら。後ろを向いて」

「ああ、もう。分かったってば」

 なんのつもりかは分からなかったが、叔母は乗り気だった。花梨の座っている椅子の背を持って、くるりと反転させようとした。花梨は、湯飲みを置き、立ち上がって叔母にしたがった。

「じゃあ、始めて」

「何から話せばいいの?」

「何でもいいわよ。身長なり体重なり」

「ええと。身長は百六十前後かな。叔母さんより少し低いぐらい。びっくりするぐらい痩せてたわ。五十円を賭けてもいいけど、叔母さんより十キロは軽いわね」

「あら。それって私が太っているって意味かしら?」

「ううん。叔母さんはグラマーよ」

「そのとおり。じゃあ次は、顔立ちとヘアスタイルを教えて」

 こんな感じで、花梨は次々と彼女の容姿を言葉だけで伝えていった。髪は長い、やや歯並びが悪い、服装がボーイッシュ、などと言葉を紡いでいくものの、はっきり言って、こんなやり方でまともな絵がかけるはずもなかった。痩せていると一口にいっても、人には千差万別の痩せ方があるはずだ。

 しかし五分もすると叔母は、できたわ、と完成の宣言をした。それも自信満々の声であった。

「もうできたの? 嘘でしょ?」

「本当よ、こんな感じでどうかしら?」

 花梨は、叔母から広告用紙を受け取って、その裏面を見た。一秒放心して、その後に、呆れ笑いをしてしまった。

「もう、叔母さんったら。意地が悪いんだから」

「どうやら正解だったみたいね」

 叔母の描いた絵は、彼女本人を知っていない限り、絶対に描けないものだった。それは腕を腰に当てて偉そうに見下している人の絵で、痩せ具合、目つき、鼻の形、口の形、髪の質、胸の膨らみ方、全体の姿勢、仕草、雰囲気、それら全てが彼女特有のものだった。さらにもう一ついえば、それは漫画のようにデフォルメされていて、かつ左横の空白に「バカね」と吹き出しが書き込まれていた。明らかに、叔母は彼女のことを知っていた。

「まったく。回りくどいやり方をするんだから。知ってるなら、知ってるって言えばいいのに」

「あの子であるという自信はあったけど、絶対ではないからね。一応、確認してみたのよ」

「叔母さんは彼女とどういう関係なの?」

「そうねえ。まあ一口で言えば、教師と生徒ってところかしら。最近は、めっきり交流が減ってるけど」

「英語を教えてたの?」

「まあ、教えることもあったわね」

「ふーん」

 きっと手のかかる生徒だったんだろうなーと、花梨は予想した。そもそも、あの彼女が誰かに教えを請う姿が想像できない。

「三坂怜亜って言うの、彼女」

「みさかれいあ」

 花梨が復唱すると、叔母は、さっき描いた絵の下に漢字でフルネームを書き込んだ。

 三坂怜亜、か。それらしいと言えば、それらしい名前かもしれないなと思った。“怜”の響きが何となく高慢っぽくて、その下に“亜”がつくのがいかにもそれっぽい。後ろについた文字が“花”や“奈”だったら、可愛げが出てしまっただろう。“亜”の場合、余計なものがつかず、混じりっけなしの高慢さが現れてる。

「彼女、どういう人なの?」

「口で説明するのは難しいわ。外見を説明するのと同じぐらいね」

「人にはやらせておいて。大体の感じで構わないのだけど」

「あらあら。大体の感じなんて、あなたはもう知っているんじゃないかしら?」叔母は、優しい声で言った。「傲慢で口が悪くて、誰もかれをも見下している。でも根は優しくて、とても良い子。それだけ知っていれば充分じゃないかしら? あんまり勝手なことを言いたくないしね。彼女が聞いたら、きっと怒るでしょうから」

 それはそうだな、と花梨は納得した。

「叔母さんは、彼女の住所、知ってるってことよね?」

「ええ。知っているけど。まさか、会いに行くつもり?」

「うん。ちゃんとしたお礼もしたいし。近所なんでしょ?」

「そうねえ。五百メートルってとこかしら? だけど住所より、先にこっちじゃないかしら?」

 そういうと叔母は、置いてあった手提げカバンの中から何かを取り出した。白くて四角い電子機器。折りたたみ式の携帯電話だった。

「叔母さん、そんないいものを持ってたんだ」

「つい最近、手に入れたの。あなたがここにいる間、貸してあげるわ」

「ほんとに?」

 花梨は、内心飛び上がりたくなるほど喜んだ。それは花梨がいま一番、興味を持っているアイテムだった。自分のものじゃないから自由に使えるわけじゃないが、それでも嬉しいことには変わりはない。

「言うまでもないけど、大事に扱ってね」

「うん、ありがとう。大切にするよ。あっ、だけど知らない人から電話がかかってきたら、どうすればいいの?」

「言ったでしょ。つい最近、手に入れたばかりだって。私の番号を持ってるのは、彼女と、あなたのママよ」

「あっ。なるほど。ていうか、あの人もケータイ持ってるんだ。ちょっと意外かも」

「使い方は分かる?」

「うん、大丈夫。ママのをいじったことがあるから。わあ、最高。夢みたい。……ねえ、早速、使ってもいい?」

「どうぞ、ご自由に」

 花梨はテーブルの上の広告用紙をとって、じっくりと見つめた。その絵を見てると、なんだか彼女を身近な人に感じた。実際、携帯電話を手に入れた花梨にとって、彼女はもう遠い所にいる人物ではなかった。

「彼女にかけるつもり?」

「うん。いいでしょ?」

「もちろん構わないけど、先にあなたのママを使って、練習しておいた方がいいんじゃないかしら?」

「いいよ、別に。ママとはいつでも話せるんだし」

「よかったら、私が取りついであげましょうか? いきなりあなたの声がしたら、彼女もびっくりするでしょうから」

「大丈夫よ。上手にやるから。むしろ、びっくりさせてあげたいし。叔母さんってほんと過保護ね」

 花梨は、ゆっくりと折りたたみ式の携帯電話を開いてみた。すると、画面やボタンが、まるで花梨を祝福するかのようにピカピカと輝いた。時計も内蔵されていて、十八時四十五分であることが分かった。

 真ん中についているボタンを適当に押してみる。着信履歴が出てくる。ママの名前がずらりと並び、その一番下に、三坂怜亜の名前が乗っていた。カーソルを下に動かし、三坂怜亜という文字に合わせる。合わさった。あとはボタンを一つ押せば、もうつながる。

 電話を持つ花梨の両手はカタカタと震えていた。眠気はとうに吹っ飛んでいた。不思議なものだ。新しいことをするときはいつだってドキドキする。おかしなものだ。新しいことをするのは、別に新しくないはずなのに。

 気を静めるために大きな息を吐く。話す中身について考える。まずは、用件。お礼が言いたくて電話をかけたの、と言う。それから、もう一つ。明日、会えないかと訊こう。お礼の品として、ケーキでも持っていくのはどうだろう? うん、そうだ、それでいい。いきなり、こんなことをするのは失礼かな。ううん、大丈夫。まずは訊くだけだから。ダメだったらダメで、諦めるだけだ。あとは成り行きでなんとかなるだろう。

「よし」

 花梨は勢いよく、ボタンを押した。叔母は、部屋を出て行き、花梨にエールを送るように手を振った。



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