2 あっという間の出来事
確かに夏休みは、終わってしまう。最高の夏休みを過ごしたとも思えない。でも、じたばたしたって仕方ない。
いつまでもグジグジしているほど、花梨は後ろ向きな性格ではなかった。氷水のように冷たい川の水で顔を洗い、すぐさま気持ちを切り替える。
良い方に考えよう。何もできなかったわけじゃない。今年は今年で、意義のある夏休みだった。特に、知識面の向上は、自分でも実感できるほど大きかった。やり遂げられたことも少なからずあるし、新しくできるようになったこともある。もっと言えば、まだ夏休みが全て終わってしまったわけじゃないのだ。
「よし!」
花梨は、転がしてあった竹竿を拾った。焦りや苛立ちが無くなった今ならば、魚が掛かるような気がしたのだ。ともあれ、試してみようと思った。
両手で竿を握り、背負い投げを決める柔道選手のように竿を振るった。気持ちを込めた一振りだった。しかし、あるいはその気持ちがいけなかった。餌のついた針が、川に落ちることはなかった。
「えっ、なんで!?」
すぐさま、最悪の事態に陥っていることを知る。後ろを振り返ると、釣竿の糸が大木の枝に引っかかっていたのだ。ゆっくりと竿を引き、糸を引っ張る。するりと解けてくれれば良いものの、そんな奇跡のようなことは、もちろん起こらない。どうやら、厄介なことになったらしい。
「ちょっと、もう。勘弁してよー」
花梨は、木や糸と格闘するはめになった。もう一度、角度を変えて引っ張ってみたり、折れ枝を探してきて突っついてみたり、石を投げてみたり、木に頼んでみたり、ありとあらゆる手段を試みてみたが、糸は解けなかった。
五分もすると、花梨は自分の力ではどうにもならないことを悟った。しかし、だからと言って叔母を呼んでくるのも癪だった。叔母は、花梨のことを悪く言わないだろうが、心の中では、花梨のことをまだまだ子供だな、と思うに違いない。
諦めきれずに、折れ枝を持って何度も何度も跳躍しているときだ。後方から誰かの声が聞こえた。振り返ると、川の対岸で一人の女性が口を押さえて笑っている。それも、人を不愉快にさせるような嘲り笑いだった。ともすれば、指差しでもしそうだ。
「なにが可笑しいのよ?」
花梨は、少し非難の気持ちを込めて言った。人が必死になって頑張っているのに、それをみて笑うだなんて失礼にもほどがある。
「だってさあ……」対岸の女性は、気取った感じの声(しかも大声と両立している)で言った。「あなたみたいなマヌケは久々にみたもの。蛙みたいにピョコピョコ跳んで面白いったらありゃしない。無理に決まってるじゃない。そんな小さい生りで。あなたみたいに極端なチビだと苦労するんでしょうね。自動販売機の上のボタン、押せないんじゃないの?」
ひどい言い草だった。花梨は、自分の身長のことを気にしていたので、なおさら頭に血が昇った。言われっぱなしでは、腹の虫が治まらないので、花梨も何か言い返すことにする。
「言っておくけど、蛙のショーはお終いよ。もうわたしは跳ばないんだから。それから、あなたは、わたしの身形をバカにしたけど……」花梨は言葉を紡ぎながらも、視力検査でA判定をもらった両眼で、彼女を観察した。「あなたは、背丈に対して痩せすぎなんじゃない? まるでモヤシみたい。海上で船が沈んで遭難したら、まっさきに死ぬタイプね。顔色が悪いし、感じはそれ以上に悪い。みているだけで不愉快だわ。さっさと消えて」
「言われなくたって、そのうち消えるわよ」
彼女が急に真顔になって言ったので花梨はドギマギした。言い過ぎたかもしれないと思ったのだ。いいや、お互い様だ。気にすることはない。
「だけど困ってるようだから、助けてあげようかなって考えているんだけど。私の身長なら、とどくかもしれないでしょ?」
意外な申し出だった。だけど、花梨は油断しなかった。もしかすると、助けてあげようと考えただけで助けない、なんてオチが待っているかもしれない。
「別に助けなんていらない」
「意地っ張りね。その竿、自分の物じゃないんでしょ。違う? 人が助けてあげるって言ってんだから、素直に受け入れなさい」
どうも、彼女の方は本気らしかった。花梨は、少しだけ考えた。この人に手伝ってもらえば、何事もなかったかのように、叔母に竿を返すことができるかもしれない。手伝ってくれると言っている以上、解決できる自信があるのだろう。だけど、一つ問題がある。
「でも、どのみち、こっちに来られないでしょ? わざわざ、回り道をしてまで来てくれるの?」
そう。二人の間には、川があった。ゆうに六、七メートルはあるだろう。足場の条件も悪く、濡れずに渡ることなど、走り幅跳びのメダリストだってできやしない。上流か下流に行って渡れる橋でも探せば済むことだが、少なくても花梨の視認できる範囲にはそんなものはなかった。何処まで行けばいいのかは、検討もつかない。
花梨は、女性の顔をみつめた。すると彼女は、うっすらと笑みを浮かべた。それから、一歩、二歩と川に歩みよった。
「え? ちょっと……」
どうやら、川を渡るつもりらしかった。確かに彼女は手ぶらで、濡れて困るような物は持ってはいないものの、服や靴と、それから一番大事なものであろう生身の体を持っているのだ。
「あのさ。いいよ、そこまでしてくれなくても。自分で何とかするから」
「バカね。何とかできそうにないから、手伝ってあげるって言ってんのよ」
少しの躊躇いもみせないまま、女性は靴を履いたまま足を水の中に踏み入れた。だが、もう片方の足は、なかなか踏み入れなかった。水が予想以上に冷たかったからだろう。花梨も、初めて川の水に触れたときは、その冷たさに驚いたものだ。
しかし、彼女は引き返さなかった。一瞬、留まったものの、徐々に足を踏み入れていき川に侵入していく。次第に沈み込んでゆく彼女のことを、花梨は、ドキドキしながらみていた。川の水が、さっきよりも激しく流れているようにみえた。
川の半ばほどで、すでに立ち泳ぎの状態になった彼女が、少し動きを止めたようにみえた。ついに頭が隠れてしまい、花梨は思わず慌てふためいた。大声で彼女に呼びかけると、彼女は川から顔を出した。
彼女は無事に川を渡りきった。花梨は彼女が陸にあがるのをみて、ようやく胸を撫で下ろすことができた。彼女が川を渡っている時間は三十秒足らずだったのだろうが、その間、花梨は気が気ではなかった。
「あんまり無茶なことをしないでよ。こっちまで、ヒヤヒヤしたじゃない。……そりゃあ、そっちは文字通りヒヤヒヤしたんだろうけどさ」
川渡りという偉業を成し遂げた彼女は、花梨の言葉には答えず、犬のように首を振って水を飛ばし、髪を揺らした。彼女の髪は、ずいぶん長かった。それから対岸にいたときに花梨が罵倒したように、彼女の痩せ具合は相当なものだった。手の甲を観ると、ほねが薄っすらと浮き上がって見える。
「さあて。ちょっと、私でも届かないかな?」
彼女は、何事もなかったかのように、早速、木に絡まってしまった糸の件にうつった。爪先立ちになり、腕を思いっきり伸ばてジャンプした。高さは足りているようにも見えたが、彼女は手を引っ込めた。
「だめね。ここからだとよく分からないけど、多分、針が枝にくい込んでる。どうせ、誰かさんが考えもなしに糸を引っ張った所為でしょうけど」
「何よ、それ。また、私のことをバカにしたわね?」
「あなたじゃなくて、あなたの行動をバカにしたんだけど」
「ほとんど同じことじゃない」
「ほとんど同じは、違うの一部よ」
五秒ほど考えて、それはそうだな、と花梨は思った。もちろん、そんなことは新発見でも何でもない。だけど、何となく、そんな気持ちになったのは何故だろう?
「えっと、それは、まあいいんだけど、もうお手上げってことなの?」
彼女は、腕を組み黙り込んだ。おそらくは、次の作戦を考えているのだろう。親身になって考えてくれているという点で、花梨は嬉しかった。だけど同時に、すぐにでも帰って欲しいという気持ちもあった。あるいは、彼女をリラ叔母さんの家まで連れて行きたかった。本当は彼女だって、はやく帰って熱いシャワーを浴びたいに違いない。
「あっ、そうだ。肩車をすればどう?」
花梨は、自分の閃きを、すぐさま口に出した。肩車をしても、単純に二人の身長が足し算されるわけではないが、枝に届くぐらいの高さには確実になるはずだ。
「そうね、それならとどくもしれない。だけど……」
「だけど?」
「あまり気が進まない」
「なによ? 私を担ぐのがそんなに嫌?」
「そうじゃなくてさ……」 彼女は、地面に爪先をコンコンぶつけながら言った。「私、肩車なんて一度もやったことがないから。上手くできるかどうか自信がないの」
「なんだ、そんなこと。わたし、そんなに重くないから大丈夫よ。痩せ型ではないけど、体重そのものはクラスで一番、軽いもの」
「きっと脳みそも、一番、軽いんでしょうね」
「肩車をしてくれるの? してくれないの?」
花梨は、彼女を早く帰してあげるためにも、彼女の口の悪さに付き合わなかった。彼女は、少し渋ったものの、結局は、花梨を上に乗せることに同意した。二人は、拠り所にするために、大きな木のそばに寄った。
「ほら、乗るなら早く乗んなさい」
彼女は、柔らかそうな髪を、邪魔にならないように揃えてからしゃがんだ。花梨の方も、ためらいがないわけでもなかった。花梨もまた肩車されたことがなかったからだ。どうやって、バランスをとればいいのか分からない。初めて自転車に乗ったときのように、大きく転んでしまうのではないか。そう思うと、ちょっぴり不安だった。
だけど、やってみるしかない。花梨は、女性の濡れている肩に足をかけて跨った。眼前にある大木に手をあてて心理的な支えにした。
「いいよ。ゆっくり上げて」
花梨の体が、少しずつ持ち上げられていった。視線が徐々に高くなっていき、着席してるときの視線、中腰になったときの視線、起立しているときの視線と、変化した。しかし、そこから先は未知の世界だった。花梨の視線は、自分の限界点を越え、さらに上昇を続けた。
空を飛んでいる気分だ。視界は、通常時より遥かに広く、ずっと遠くまで見渡せる。普通では考えられない角度で、下の世界を眺めることができる。
「ねえ、上、大丈夫? 歩くよ?」
「うん。もうちょっとだけ、前に進んで」
彼女は、花梨の言う通りに動いた。目的の枝は、すぐそこにあった。下からでは見えなかった釣り糸の状態もよく分かった。枝に巻きつくようにして絡まっていたのだ。これでは、いくら引っ張ったところで外れないわけだ。花梨は、急いで針を抜き、絡みついていた糸を取りはずした。
「やった、とれたよ!」
花梨は、針を地面に落とした。さんざん苦労したこともあり、よろこびも大きかった。
「じゃあ、おろすわよ」
ゆっくりと高度が下がっていき、花梨は地上にもどされた。空を飛んでいた気分だったので、いつもの大地が、少し特別なものに感じられた。でも、この感覚は、すぐにでも消えてなくなるだろう。もう少し、空の旅を楽しみたかったが、そういうわけにもいかないか。
「あの、ありがとう」花梨は、礼を言った。「それから、さっきはごめんなさい。あなたのこと悪く言ったりして。本当は良い人だったのね」
「その言い方、まるで人を、善人と悪人に、きっぱり分けられると考えているみたいね」
「そんなつもりはないけど」
「だったら、勘違いされるような物言いをするのはやめなさい。元々、おバカなんでしょうけど、よりいっそうバカに思われるわよ」
「そっちも言葉には気をつけた方がいいよ。よりいっそう嫌われるだろうから」
「ふん。口だけは達者なのね。じゃあ、私はもう行くわ。誰かさんのおかげで、びしょ濡れになってしまったから」
「ありがと。本当に助かった」
花梨は、彼女の背中を見送った。すたすたと歩いていき、あっという間にいなくなってしまった。楽しい経験だったなと、花梨は思った。初めて出会った人に対してあそこまで激しく言い争ったことはなかった。無論、彼女の口が原因だったのだろう。でも悪い気はしなかった。もしかしたら、田舎の人が特有で持つ美点なのかもしれないな、と花梨はなんとなく思った。
彼女の気配が完全に消えると、花梨は感傷もそこそこにして、釣りを再開することにした。しかし、今度は必要以上に後ろを振り返って、慎重に竿を振るのであった。