1 夏休みの終わりと溺れた少女
夏休みが終わっちゃう。
陽射しの強い空の下。花梨は川の水に素足をさらしながら、考えても仕方のないことを考えつづけていた。すでに盆が終わり、八月の残り日数もわずか。これでは、いつもと変わらないじゃないか。小学校における最後の夏休みだというのに。
休みが始まる少し前、花梨は先制攻撃をしかけた。両親の目のまえで、その年の夏休みを最高に充実したものにしてみせると、高らかに宣言したのだ。そして、花梨は自分なりの価値観を持って、それを実行に移した。その広く自由な時間を使い、やりたいことをやれる限りおこなった。それまでの休みの間に、およそ六十冊の本を図書館で借りてきて読んだ。友達と一緒に計画をたて、四度、遠くまで出かけた。子供のために用意されたPC学習プログラムなど、さまざまなイベントに参加した。
一日とて無駄な日を過ごさなかったはずだ。大きく目をひらいて、時間という時間を強く意識した。自らのやりたいことを次々と実行に移した。自分を見張り戒めるための空想の妖精を、いつも肩の上に乗せていた。
なのに、どうしたことだろう? 妖精は一度も頬をつねらなかった。そうさせるチャンスをあたえなかったのだ。なのに、なのに……、花梨は、例年と同じように夏休みの終わりを嘆いているのだ。
もっと悔いの残らぬよう毎日を過ごすべきだった。もっと厳しい妖精を、しもべにすべきだった。もっとやりたいことを、やるべきだった。花梨は、そう思った、というより、そう思う他になかった。でも、具体的には何がいけなかったのだろう。花梨には答えがだせなかった。自分が満足していないという気持ちは明白であるのに対し、それを打破するための方法は、まるっきり見えてこなかった。
花梨は不安な気持ちに陥っていた。それに不思議でもあった。それまでにないほどの意欲を持って挑んだ夏休みだったのにも関わらず、その空しさが、むしろ、例年の休みよりも大きいものに感じられたのだ。なぜ……? これは、頑張りと達成感が比例するという、花梨が知っている公式に反するものだった。
胸の内にそんなことを秘めながら、その日の花梨は、ある人の手解きを受けながら、初の魚釣りに勤しんでいた。もちろんこれも、夏休み充実計画の一環だ。前々から、ぜひ挑戦してみたいと考えていたのだ。一匹でも魚を釣り上げ、その手ごたえを感じさえすれば、きっと空しさも消えてしまうに違いない。花梨は、そう信じていたし、信じたかった。
ただ、それまでのところ釣果はゼロだった。そして、このまま続けても、それは変わらないように思えた。座っている花梨の傍らには、水だけがたっぷりと入ったバケツが置いてあり、それが何とも嫌らしかった。一時間前の自分は、何故あんなに浮かれ張り切って、釣れもしない魚のために水を汲んだのだろう。どうしたって、そういう気持ちが浮んでくるのだ。
バケツが倒れた。
むろん、いくらか不安定な場所に置いていたとはいえ、水の入ったバケツが勝手に倒れるわけがないので、気づかぬうちに花梨が引っ掛けたのだろう。無気力状態になっていたので、触覚さえも薄れていたのかもしれない。それぐらいの気だるさが、花梨を包んでいたのだ。じっさい、バケツが倒れたとき、花梨はそれに気がつかなかった。しかし、バケツから水が流れ出て、それがズボンを濡らしたときには、さすがに気づかないわけにはいかなかった。汲んだときには氷のように冷たかった水だが、二時間もたったその時には、当然ぬるま湯になっていた。花梨は立ち上がって、お尻の半ズボンの被害状況を確認した。それから中身が無くなったために転がっていきそうだったバケツを、転がっていくまえに捕まえた。
「気をつけて。バケツと一緒に落っこちないでよ」
花梨に注意を促したのは、花梨の叔母であった。さっぱり釣果のあがらない素敵な釣りのやり方を教えてくれたのは、何を隠そうこの叔母である。叔母はゆったりと岩の上に座って、自分の竿を握り続けていた。
身も蓋もない説明をしてしまうと、花梨の叔母は異邦人だった。二十年ほど前に、とある理由で日本にやって来て、それからずっと、この国(もちろん、日本)で暮らしていた。やや、ぽっちゃりとした体型で、背丈は160ぐらい。アーモンド色の髪は、あごにかかるぐらいの長さ。そのときには見ることができなかったけど、瞳は深い緑色だ。叔母は、日差しに対抗するために、黒いサングラスをかけていたのだ。
「あらあら。ついに降参かしら?」
立ち上がって竿を放り投げた花梨に対して、叔母が訊いた。釣果がゼロなのは叔母も同じだが、それが当然だと言わんばかりに大人の落ち着きをみせている。しかし、そういった大人の素振りは、往々にして苛立った子供をさらに苛立たせるものだ。
「そりゃあね。私がやりたいのは魚釣りであって、竿を持つことじゃないし」
花梨は、虚空をみつめながら皮肉を口にした。叔母は、ごめんなさいねと小さく詫び、それから少し間を置いて、この前に来たときは釣れたんだけどね、と言い訳するように付け加えた。どうやら叔母は、魚が釣れないという理由だけで、花梨が怒っているのだと考えているようだった。
そして、さらに十分ほどの時間が経つと、叔母は、仕事と夕食とペットのために、家に戻るつもりだと言った。もともとそういう手はずだったのだ。当然、花梨はそれを拒むことはできず、またまた不満が募った。花梨は、自分はどうしようかと少し迷ったが、諦めきることができず、一人で釣りを続けることにした。しかし、叔母がいなくなれば、ますます退屈になるだろう。花梨は、愚痴の一つでも言わなきゃ収まらない気分になった。
「あーあ。リラ叔母さんが、何かもう少し工夫してくれればよかったのに」
「そんなこと言われても、私は素人同然なんだから、これ以上に良いやり方も場所も知らないわ」
「そうじゃなくて……たとえば、釣りをしながら、お喋りをするとかさあ。叔母さん、ずっと黙りっぱなしなんだもん」
「ああ、そういうこと。でも、あんまり騒がしくすると魚が逃げてしまうかもしれないでしょ?」
「そりゃ、そうだけどさ……」
「やれやれ、仕方ないわね。いまからでもいいなら、一つ目がさめるような、お話をしてあげましょうか?」
「うん。してして」
花梨は、期待して身を乗りだした。というよりは期待しているようなポーズをとった。
「この川はね、人を一人殺してるのよ」
「それって、誰かがこの川で溺れたってこと?」
そう尋ねると叔母はコクリと頷いた。花梨は、目の前に広がる川をみて、確かに死者がでても不思議ではないなと思った。その川は、確かにそんな条件を兼ね備えている。水温は低いし、白い飛沫がたつぐらいのスピードがある。幅は六、七メートルとそれほどでもないが、本当に流されてしまえば、そんなことは、あまり関係がないだろう。
「もう十年ぐらい前になるかな……」叔母は、大人が昔を語るときはいつもそうするように、しみじみと、懐かしむような声で話した。「近所に住んでいる人が、私にも知らせてくれたわ。一人の女の子が、この川の少し下流で死体になって出てきたって。みつかったときには、もう無茶苦茶になっていたそうよ」
「かわいそう」
花梨は、流され続けた死体がどんなふうになるのか知らなかったが、きっと酷いことになるんだろうなと思った。
「ええ。だから、あなたは同じ轍を踏まないようにね」
うん、分かった、と殊勝に答えながらも、花梨は自分が溺れることなんて絶対にないと確信していた。なぜなら、花梨は泳げないからだ。泳げないから泳がない。泳がないから溺れない。サーファーが登山家よりもたくさん溺れてるなんてことは、統計をとらなくたって、はっきりしてる。
「じゃあ、私は先に帰るわね。あなたも日が沈むまでには戻ってきなさい」
叔母は、そう言って去っていった。一応、信頼してくれてるんだなと思い、うれしくなった。叔母は少し過保護なところがあり、ともすれば、一人きりにさせてくれないのではないかと思っていたからだ。花梨は年齢のわりに背が低いので周りからは幼くみられ、そういう扱いを受けやすかった。
残された花梨は、溺れてしまったという子について少しだけ想いを巡らせた。叔母は、その子が溺れた理由について何も言及しなかったが、話の流れから考えれば事故だったに違いない。彼女は、死ぬ間際に何を思ったのだろう? 彼女には、何かやり残したことがあったのだろうか?
どうでもいいや。と花梨は考えるのをやめた。どのみち死んでしまった人、それも何年も前のことだ。彼女は、もう何も話せないし、何もできない。何かやり残したことがあったにせよ、もう叶いはしない。化けて出るというのなら話は違うが、それも幽霊が実在すればという話だ。
幽霊なんて絶対にいない。そう公言してしまうほど花梨は横着ではなかった。とはいえ、幽霊が自分の前に現れたらどうしようなどと、取り越し苦労をするようなタイプでもなかった。幽霊なんて自分には何の関係もない。そう考えるのは、いかにも自然なことであり、いたって普通の考えであるよう思えた。




