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第二夜ノ寅刻 聖霊の杯、調伏の戴き(1)

 視界がぶれる、鼓動が疾走る。霞を散らして迫りくる鉤爪――。無明の渕より瞬き光る、鈍色の矛先を愚者アキへと向けて、視線の隙間に振り下ろされる。

 ――死線の軌跡は弧をなぞりざまに、喉笛目がけて差し迫る。佇む愚者など塵に同じと、賢者の閃きは機先を飛翔かける。

「ぁ――、――――あ」

 打ち寄せる眩暈に、遠ざかる世界を目で追っている。現ではない、夢なのだ――迫る、夢幻ゆめではない現実なのだ、光景せかいは。

 地が沈み、木々のさんざめき―――再び手にした意識を眼前に恐怖の根源が素肌を泡立たせる。

 白の顎髭、瞳の赤光、黙した翁面に歯牙の羅列――

「――――」

 消音、肩肘をひどい衝撃が貫き、絶句の痛みが悲鳴を帯びる。 

 鉄臭い血の香りに舌を蹂躙され、喉元過ぎぬ間に大きくむせ返る――。

「――リコリス」

 うずくまる、強張る身体の自由を感じて、彼女の姿が無いのに気付く。肩に、打ちつけられた地面に思いを廻らし、赤茶の体躯の行方を捜す 。

 見積もる、投げ出されてしまった己の居場所から――行方を、どうして、伏し様に、己の在り方に――疑問を抱く。

 襲いくる鋭利な爪ノ先を見た、血潮に色付く瞳の輝きを見た、能面に裏打ちされた歯牙の色無きを見た、鮮血を噴き上げる己の姿、儚きを、見ていない――。

 

『どうしてここにいる』


 獣は問い掛ける――否、問いなどではない、唯発せられた言葉の内に疑問を呈する意思などない。思考など無い、意味などない、介在する……思惑など無い、けれど虚ろのしがらみに手をひかれる。


『なんでここにいる』


 童子の問い。獣は声を変え、調子を変え……童子に、淑女に、老人に、闇間を背負い語りかける。


『なぜここにいる』


 人面獣心、胴獅尾蛇の獣は――頭を振り向け此方こなたを見やる。

 羽を擡げた獅子の体躯と蛇の尾を持った獣の姿は、えられた首を掲げて白髪白眉の老人を騙る。


『なにゆえおるかは』


 ――知らない。

 ――夢かと思う、違うと分かる、では『なぜ』ここに居るかを秋分は知らない、賢者の問いなど意味を成さない。無知を知らぬは徒人ただびとの常や、と。


 希人まれびとの言をば求むるを得ず、答えを探りて暗中を分け入る。茶色の毛並の柔かきは何処いずこ、憂えの境地に翁面の具足ぐそく

「――野――郎」

 闇の走狗は涅槃を越えて、巨躯の四肢翅翼を唸らせる。矮小なる其人それびとの身にまつわり、天を覆うはその身の巨体。暗澹とするは惑いの頂上――。


 ――無謀だ。獅子と稚児程にも平を欠く両者、優劣雌雄の理は当然。まばたきも狂わす目と目の先、錯綜する瞳と赤き血の結集けつじゅう、冥府の迎えと九死の折、藁をも掴む秋分で――何れと手にしたそれを振り回す――


 獣の跳躍は岩盤を打ち砕き、つぶてを巻き上げ、宙へとひるがえる。岩壁を足場とし、闇夜を転じて、降り立つ枯れ木の幹をし折る。断末魔の悲鳴は天を焦がし、されど、獣の不遜なる剛の腕に――爪の軋轢に押し潰される。

 耳にまつわる音を聞く。礫の飛弾に脇を抉られ、息も絶え絶えに辺りを見回す。地獄の瘴気が鎌首をもたげ、怨嗟の音をし夜霧を木霊す。

『痛――痛――苦――痛』、口々に叫ぶ灰色の果実、悲鳴を苦悶に滞らせる。地に縛られた根を迫り上げ、秋分に助けを請い願っている。獣の四肢にと追い縋るが、実の内赤きを撒き散らすと、叫びも途絶えて地の底で果てる。

「……どこだよ、ここ」

 呟くも秋分はただ独り。肩を抱くが相棒も消えた……。首を傾げる老人の面貌――込み上げる吐き気が咽頭を打つ。獣の、頬を擦り上げる仕草につけて、ただ、口の端に赤く血の流れを見、かしら失せる梟木きょうぼくの骸にしたたりて、地表に跡引き瘴煙へと色付ける、ただならぬ景色を目に焼き付けている。

「リコリ……」

 獣が歯牙を抉じ開ける。咀嚼、臼歯を、すり潰す、獲物の先と……秋分を捉えて、翁面は騙るのだ、淑女の問いを――『どこにいる』、虚ろう霧霞、血泡あぶく湧きつ……滾る顎下、口腔こうくうの闇に――


『ここにおる』


 ――暗転、

 ――歯牙の檻、口蓋のへきが、襲い来る――。

 


     ※*※



 ざぷん、トプン……ぎぃきぃと揺れる船首の先端さき、鎖の尾を引く鋭利な切っ先光る、逆鉤あぐの無作法にも突き出すやじりの節様に……ずっしりとしたそれを掲げ持ち、青年は苦もなくと法衣の裾を散らしてみせる。

 空には翼を広げた大鳥の一群、蒼の雲間を優雅に渡り、小船の遠く遥か向こうを、荒波に惑うこともなく、風立つ切岸の迎える渓流のさなか、自由の広原、大海原の空を……一陣奔放に、――飛んで見せる。


 青年、名をレツィニールという。訳あって、昨夜、閑寂の夢路……涅槃の折に、玄海……大海原のを臨まんと、一念発起では毛頭ないが、ただ有耶無耶の投げやりとて……つかぬ身ひと時赴くままに、四肢裁量縛りつけられ、一夜を越えつつ……心地安寧を求むる胸裏に達するを良しとして、その身狂えるを戒めん業を担うところが、その任、たちどころに解除めされるを黙して見守る程にあって、なんともまぁ爽やかなる朝の陽光……憂い、喉元しかと燻ぶる苦悩懺悔を吐き出したまうべくもありや一心にして已む無く看板窮地の縁に沈まん愚、体を欲する。船底へばりつく顔ばせ持ち上げて見れば、空を仰ぎ、ともなく眉根顰める御二方の遺憾の念、面持ち、垣間見ることもあれ、しこうして幸先……雲居に光あらざればと、大層訝しく、もの思いに捉われる……

 

 青年の胸中をばいざ知らず、空はみるみる澄み渡る蒼に照らされ、一行の門出を祝うが如く……「見えましたわ――」、あれよあれよと誰ぞの思し召しあってか、ついぞやくだんの目的地、くんだりにまで異に赴く次第となってしまっていた……と、青年、つらつらその語る由あり。


「あれが白塋はくえいの洞穴、霊畤れいじの宮なのですね……」

 御堂の青年、淑女の背後より忍び寄り、……語る。その身のこなし、幽鬼の類にも通ずる程。

「レツィニール、あら、お身体の具合はもうよろしいのですか? なんなら、もう一晩とは言わずに……お好きなだけそこに寝転がって、一つ一つお星様でも数えながら、私達が無事還ってくるのを御舟の番などをして‘のほほん’と待っていればよろしいではないですか? どちらにしようとも、そう簡単なものではないのでしょうけれど」

 淑女は応える。いつにもまして、ピリピリと、つっけんどんな物言いではあった。彼女、名をシスカ……いと高き聖殿の娘である。ただもう一人、‘とてとてて’と舟の揺動に足を掬われつつも懸命に体駆を振るわせる小さき姿がそこにはあり……。彼女……其は必然、ともなくシルベイラである。こちらは終始自然体な御様子で、和やかな雰囲気が何よりも目先立つ。世界は決まってお花畑にあると、そう思わせてはくれる身ぶり手ぶりで……一人放っておくようなことがあろう折には、進んで厄介事を引き連れて帰ってくるという……ただ今は舟の板敷に寝返りを打っているところではあるのだけれど、とにもかくにも目が離せない問題児であることには相違ない。それはともあれ、一つ気にかかっていることがシスカにはある。

「波が少々、高いわね。以前、京華けいかの畔でも……このようなものだったかしら」

 レツィニール、船べりに臨み翳す手の方より、

「……あのような絶壁が聳えるところでは、波も自然と荒々しくなってしまうようですよ……と耳にしたことがあります」……など、申し立てはするのだが、かような淑女の顔色をは窺い知ろうにも甚だ容易ならざることではあるので、ついそのような時にも段々と口すぼみになってしまいがちの、青年の悪い癖をはそこに見受けられる。

「……そうね、レツィニール。――では、早く舟を彼岸かがんに寄せなさい、上陸します。シルベイラも……」

「はいッ」と焦りを顕わに声がして、青年を含めた一行の、舟依る旅路は終わりを迎え、陸路――聖地に及ぶところと移り変わる。


 白砂の流れに足跡付け、聖なる地の門前に寄せる……浅瀬の白波に素肌を濡らすと、見上げる……天を衝こうかと切り立つ絶壁の縁を。それは限りなく垂直に天上を目指して、ある境にてぱたりと切り取られ、鋭利にも角を見せる程となり……そうして、弧を描き連ねては、続く地平より消えていく、されど悠久の如くに……そんな神仙の為す業、全なる造形の威に魅せられるように……。ただ、程なくしてそれも掻き消されて……胸射す感慨に取って代わられるのは、その時、目の当たりにする一つの不可思議な光景……。

 

「お嬢様方、見てください、あれ……」


 小狭い舟の囲いを抜け出して、浅瀬の冷たき飛沫にり、後の始末を彼に任せて、二人は岩壁かたわらまで来たのだが、彼の頓狂とんきょうな声を耳にして、くさび穿うがたれた御舟の波と揺り合う……その上空遥かを射抜く眼差しに感じ入り、目を凝らして……その辺りを漸く見やると、驚きと瞬き、ひとえに視線をなぞらせ追い掛ける……‘それ’は、雲居の彼方より現れて、陽の光を従える尾を持ちながら、さらには空の蒼さを潜り抜けると、此方の大気に翼を打ち広げ、さらい、颯爽と滑空を繰り返して、彼女達の眼前、縫うように通り過ぎ、彼の洞穴、その入り口深くへと飛び去っていくのだ……その背中には一人、少女を乗せていて。


 ぽうっと翳す手を揺り動かして、軌跡の行方を目で追っていると、‘パシャパシャ’と駆け寄ってくる少女に気付いて、『どうしたのかしら』と目配せすると、「レディ=シスカ、あちら、あちらへ」と少女がそう言うものだから、「……そうね」と一つシスカは応える。すると、舟止めはもう済ませたのだろうか、彼、レツィニールの方も加えて、急ぐ足で駆け寄ってきては、彼女を訪ねること風雲急に、‘事の次第’と確認するよう……。


「……最悪、錠前が機能しなくなっているものと見て差し支えないでしょうね。とにかくそれはそれは古いものですから……」

 ため息と、諦念の情をつかえさせてレツィニール……御二方より一歩後れて躊躇いがちに、その背中……伏し目をつり上げ見守りつつ、小舟が、浮と沈む波間に流れていってはしまわないだろうかと、恐る恐るや脳裏に描くこと……振り払って、渚に残す足跡を見、そして彼もまたその跡を習い……続いていくのだった。

 



長くなりそうなので、三つくらいに分けました。ややこしいサブタイトルがさらにややこしく……。追って、上書きやら統合やらされると思いますので、よろしくお願いします。ちなみに久しぶりの更新です。綺麗目に舞台を調えてきたつもりでしたが、そろそろ沈む予定となっています。

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