第三話 あらゆる小さな集合体
ドミト……幻想的な浜に立つ不思議な老人。幾多の生まれ変わりを経験し、その記憶を持つという。
クェス……その場に居合わせたよそ者。老人に興味を持ち、その物語を聞く。
犬……老人の傍らで座り続ける白い犬。飼い主に完璧に従順で、動かずに海を見続けている。
「はじまりの記憶はひどく曖昧だ」浜の老人、ドミトは話し出した。「どこを彷徨っていたのかも、なんの生物だったのかも定かでない」
唯一の傍聴人である青年クェスは、ドミトのこの独白に驚いた。
「ちょっと待ってよ。前世の記憶って、人間じゃなかったのか」
「人間であったことは一度もない。現在の、この老いた肉体のドミトのみだ」
「いったい、どれくらいの命を経験してきたんだ」
「数えきれないほど」
短く答えるドミトの声はほとんどため息のようだった。
「ある宗教じゃあ、あらゆる生命は死んだ後に他の誕生した生命に転生するって聞いたことがある。あんたはそれを何度も証明してきたってわけだ。なにかの間違いであんたにはずっと記憶が残ってしまっているんだな。死後の世界でふるいにかけられるべき、魂の記憶を」
「もしかしたら、それもあり得る」
「はっきりしないな」
「輪廻などは存在せず、私は記憶そのものだけの存在かもしれないということだ」
クェスには、ドミトの言葉をはっきりと理解することができなかった。
「私の明証性を保証する者など、どこにもいないのだ。ただ、きみの言った『なにかの間違い』とは、確実に私の存在につながっていることだろう」
それに続けてドミトは長い回想の物語を始めてしまったので、クェスはひとまず考えをまとめるのを止めた。
「原初の私の意識は――」
――原初の私の意識は、煙のように実体のないものだった。何一つ考える意思さえ持たないくせ、自身がここにあるという意識だけはぼんやりと保っているだけだった。
何も見えず、聞こえず、動けない。正確には、目や耳や神経をまるで持っていなかったのだが。分かるだろうか? 目がないと言うことは、見えないのとは別のことなのだ。
私は時おり、外から加わる圧倒的な熱量で身体を揺らめかせるだけの生物だった。
後からして思うと、私はなんらかの微生物だったのだろう。
あらゆる命は宿命によって死ぬ運命にある。100年後にはこの星の生命はほぼ総入れ替えとなる。
小さい魂の宇宙では、この100年は100日に。さらに小さい宇宙ではは100日は100秒となる。
私の旅のはじまりの場所は、命のサイクルが1秒にも満たない死の渦の世界だった。
私は生まれた次の瞬間には死んで、また別の生へと着地していた。繰りかえす私の魂はいつも光のように飛び交っていた。そのような働きは、より大きく複雑な生物への礎となり、やがては星全体を動かす歯車となる。我々は最も小さな歯車だ。自我などあるはずもなく、泡沫のような時に身をゆだねているだけだった。
もちろん、私も彼らの一部として役割を果たすだけだったが、私はどこかがおかしかったのだ。
最下層の生物に共通してあるのは、「私は、いる」という単純で唯一の意思だけだったが、私に芽生えた感情は『疑問』だった。その時点で気づいていなかったが、恐らく幾千の生まれ変わりを経た上での『疑問』の芽生えだったのだ。
『疑問』も、ここはどこだ? とか、私は誰か? という難しい問いではなく、「なんだ?」という埒のない考えだった。何かが違うのではないか、という異変を感じたのだ。そして感じた次の瞬間には、例によって死の波に飲み込まれていた。
死の瞬間に意識はなく、次の身体に成り代わった瞬間もおぼろげだ。生まれてからしばらくして、はじめて意識が光が息を吹く。
いく度かの運命を経て、『疑問』は形を変え、心はより明確に進化していった。
なんだろう?
何かが変だ?
私はなんだろう?
なにかがおかしい?
ついに、大いなる発見をした。つまり、自分の身体の成り立ちがしばらく経つと変化してしまう、という発見だ。しばらく経つとは、死ぬたびに、ということだが、それが分かるのはまだまだ先のことだ。
そして、そのわけの分からない変貌は、繰り返すたびに心地よくなった。単細胞時代には考えも及ばなかった新しい器官の出現、外的な要因なく自分の身を便利に動かす実感。今までの疑問は感じつつも、私はひとまず本能の虜だったのだ。
自分と同じような姿をした仲間や、その他の動くものが認識できる時がやってきた。まだ目と耳に該当するものはなかったが、人間や高等生物には想像もできない素晴らしい感覚器が備わっていた。説明が難しいが、強いて言うなら共有する触覚だ。周りの意思の集合が全身に伝わり、行動を決定づけた。私たちは偉大なる水棲微生物の一端だった。
そうこうして生と死を結ぶうち、敵が現れ始めた。
私は仲間との能力を用いて敵を取り込み、私たちの能力によって取り込まれた。本能によって逃げて、本能によって死んだ。
敵は私たちを捕食する場合もあれば、ただ単に殺す場合もあった。その頃の私にはもう、天敵に取り殺されても次の幕開けがあることをなんとなく分かっていたので、恐れずに宿命に従うことができた。
また、それまでの記憶は生きる手助けもしてくれた。経験が、闇に続かない道を指し示し、私は導きによって不慮の死を避けて、予感によりいち早く逃げて、多くの仲間たちよりも生き延びた。
そのようにして、私の最底辺の時代はもっとも永く清らかに続いたのだ――
ドミトの饒舌な口調から、それは最良の時代でもあったのだとクェスは気づいた。そして、この恥知らずとも言えるような、途方もない話を信じ込んでしまいそうなるのだった。
「つまり、あんたは、どんどん進化を続けてきたわけだ」
「そうとは思えない地点もあったのだが、人間となった今、概ねそうだと言わざるを得ないだろう。他の動物たちとは一線を画すところがある。だが、清冽な美しさは損なわれ続けてきた。このドミトで最後だとは思わない」
「結局、そのときのあんたはなんと言う微生物だったんだ」
「分からない。まだ未知のものだろう。後のほうになると、これではないかという生物をあげることはできる、いずれも海のものだ。あるいは生物の体内の一部か、菌に近いかもしれない。いずれも水の中で生きてきた」
「想像もできないな」
そのとき、ドミトはそっと目を伏せた。足元で、小さなシオマネキがすばやく這っていた。傍らの白い犬ははじめて反応して、わずかな興味を持って砂にもぐろうとする蟹を見ていた。
「やがて私に」シオマネキが消え、地面に残った穴を眺めるドミトは感慨深げだった。「さらなる跳躍が訪れる」
「聞くよ。日が暮れても、最後まで聞いてやる」
クェスはそう言ってドミトを見ると、もはや彼は無表情に戻っていたが、幾分の優しさで海の煌めきを見つめながら言った。
「次に目覚めたとき、私は一匹の魚だった」




