第二話 ドミトの告白
「今なんと言いました」女は老人に尋ねた。「最後の日と?」
「あなたにとっては関係のないことだ」
「どういうことですか」
「あなたは」老人は独り言のように答えた。「聞きたいことがずいぶん多いようだ。興味が満たされないうちに、次の興味が乾いて首をもたげてしまう」
もちろん老人は怒っている素振りも見せなかったのだが女は、いきなり心の奥底が晒された気がして恥ずかしい気持ちになった。
「すみません。でも、話をしてくれるんでしょう」
「シンプルな理由でいいのなら、すぐに答えよう。つまり、ここに立つ理由とは、その目的も変わりはしないと」
女は混乱した。老人の言葉はたしかに簡素なものだったが、多くの解釈を探る必要があったのだ。女の求める内容とも違っていた。彼女がそう告げる前に老人は再び口を開いた。
「結果のための結果だ。この浜に立つために立つ、それがシンプルな理由だ。お互いにな」
「できれば、シンプルでないほうのお話を尋ねたいのですが」
「長い時間がかかってしまう。それに、あなたは途中で聞くのをやめてしまうだろう。好奇心が尽きたとか、暗くなってきたという謙虚な原因で」
「そんなことありません」女は強く反論した。しかし老人の、これは決定していることだとでも言うような説得力ある口調は、女の自尊心を試すように揺さぶった。「とにかく、お願いします」
老人は何も語らずにゆっくりと右腕を上げ、空のある一点を指差した。そこは灰色の寂しい灯台のやや左の空間だったが、何もなかった。
女の視線は、皺のある細い指先の方角を必死にさまよっていたが、発見できるめぼしいものはなかった。雲さえない、ただの空だ。その一面には、間もなく夕映えの赤みがにじもうとしていた。
「あなたには見えないが」焦りはじめた女をよそに、老人はのろのろと話し出す。「あの辺りに、間もなく星が現れる。くすぶった一番星。薄い緑のスピカだ」
ふいに、老人の不可思議な青い瞳が女を覗き込むように見たので、女はのどが熱くなり、やがてくる動悸の乱れを抑えなくてはならなかった。
「そ、それが何か」
「あなたは信じるだろうか」老人の手はいつの間にか下げられていた。「私が、地球の人間ではなく、あのスピカからやってきたと告白したら」
その瞬間、女の心拍は一度大きく跳ねたが、それが最後の興奮だった。女は、平常心を思いなおす機会を見つけ、急激に気分が冷めていくのがわかったのだ。
「本当ですか」
「あなたは信じるとは思わないが」
老人に対する畏敬の念も薄れ始めていた。その転換に、女自信も驚いていた。
「悪いけれど、とてもわたしには」
女は後ろに立っていた男に向き直った。男はずっと一言も発さず二人の成り行きをつまらなそうに見守っていたが、女の戸惑った顔を見てはじめて口を開いた。
「早く道を聞いてくれよ、きみが言い出したんだろ」
その言葉に答えたのは老人だった。
「陸沿いにあの灯台へ向かうがいい。そこからは浜の全てが見渡せるし、道路も敷いてある」
彼はもう海の向こうへ向き直っていた。女には、その声がさっきまでと違いずっと親近感ある、言うなれば人間味のあるものに聞こえた。
「ありがとう、おじいさん」
女は礼をいい、男に耳打ちした。「ごめんなさい、やっぱりおかしな人だったわ」
「そうだろうね」男は無関心に返事をしたが、続けてこう言った。「先に行っててくれないか。今まで気づかなかったけど、ここは随分いい眺めだ。写真を撮りたい」
女は眉をしかめたが、男が持っていた袋を砂の上に落としたのを見ると「早く来てよね」とだけ答えた。
「これを持って行って」
男がタオルを女に渡すと、彼女はそれを肩から被って、老人に再び礼を言って立ち去った。
残された男、そして老人と犬は押し黙ったまま、白銀色の波の奥を見ていた。沖では子供たちがゆらゆらと泳ぎ回り、遠くの画家はこちらを向いた三本足のイーゼルとカンヴァスを前に筆を振っていた。
「じいさん。さっきの話の続き、聞かせてよ」
男は力のない声で老人の背中に声をかけた。
「さっきの話、本当なのかい。おとめ座から来た宇宙人だって」
男は老人の横に立った。犬とは反対の側で、老人は挟まれる形となった。この青年は痩せぎみで褐色の肌をしており、黒くやや乱れた髪は眉を隠していた。大きな瞳は声色とは裏腹に、ぎらぎらと燃えるように気迫があった。
「私に興味を抱く人間は多い」老人は相変わらず感情の起伏もなく呟いた。「たいていは、さっきの言葉で熱を失うが」
「やっぱりわざとあんなことを言ったのか。でも、おれはまだ気になるね」男は老人の足が時たまそっと重心を変えているのに気づいた。「ずっとそのまんまで疲れないのかい」
「疲れない。身体は少し痛むが」
「まあいいけどさ」男は先ほどの連れの女のように、老人を畏れる必要はないと思ったが、その慈しみや悲しさのある不思議な雰囲気は十分に感じていた。
「ところで、名前を教えてくれないかな」
「意外だ。名前を聞かれるのは珍しい。私の名はドミトと言う。これが名づけられた名前でいいのなら」
「それ以外にあるのかい」
ドミトと名乗った老人は首を振った。彼には何事の動きや言葉も遅く伝わってしまうようだ、と男は感じていた。
「なんだかあんた、言葉が少しずつおかしいぜ。致命的にずれてるわけじゃないが、どうも変だ。じゃあその犬の名前はなんて言う」
「彼女に名前はない」
「ほら、犬に『彼女』なんて言った。名前がないというのも分からないな」
「名前は不思議だ」
ドミトは寂しげにそう呟いた。だが、そうした彼の言動は男の好奇心をより大きくした。
「おれはクェスって言うんだよ。なあ、聞かせてくれよ。途中でつまらなくなっても、最後まで聞くからさ」
「たしかに、最後には飽きてしまうだろう」
クェスの心もまた女と同じように興味の虜だったので、ドミトの言葉に少しだけ苛立ちを感じた。
「話してくれるかい、ドミトさん」彼は自然と早口になった。「違う星の住人だなんて、嘘だろう」
「嘘だ。もちろん断定はできないが、あんな遠いところから来た覚えはない」
「引っかかる言い方、やめてくれよ」じれったくなって、クェスは笑った。「わけが分からなくなる」
「いいだろう、クェス。話そう」
ドミトはそっと、泡立つ波間に目を伏せた。クェスは唇を軽く噛み、唾を飲み込んだ。
「前世、というものをあなたは信じるか」
クェスは黙っていたが、身体に走る緊張を認ざるをえなかった。あながち、スピカの話も突拍子のないことではなかったのかもしれない。
「魂の生まれ変わりのことだ」クェスを横目にするドミトの風貌からは、穏やかさが弱まっていた。「私には、前世の記憶があるのだ。ずっと、ずっと。気の遠くなるほどの命を経験してきた」
まさか、と言うクェスの声はかすれていた。
いま、クェスは宣誓書のない無類の誓いを強いられていた。代償も褒賞もない覚悟だが、重く汚れのない決心が必要だった。彼は、今や遠くなり消えてしまいそうな女の後姿を仰いだ。
「数限りない永遠の物語だ。その記憶の輪廻をきみに話そう」
老人の小さな目には写りこむ太陽が浮かんでいる。それはまるで静かな炎のようだった。




