第一話 不思議な老人
浜辺は遠い潮騒に包まれていた。その音も、風や波さえもあまりに弱々しいせいで、この場所に訪れる時の流れが緩慢になってしまったようだ。
いま、太陽が夕陽になり代わろうとしていた。
波の中にちりのような泡が渦巻いていたが、海はどこまでも幻想的な青だった。
そんな、俗世と切り離されたかのような場所は、現地の人間のあいだで『ソムニの浜』と呼ばれていた。
浜の形は陸によって取り巻まれた入り江なので、水平線を両側から包み込むように湿った砂地の腕が続いている。右腕の側には背の高い灯台が乗せられていた。
そこらじゅうに茂るなつめやしや、スイセンやハイビスカスが彩るように浜を囲んでいたので、人が――特によそ者が――立ち入ることはほとんどなかった。
その隠された場所にいま、沖で泳ぐ数人の子供たち、迷い込んだ若い男女、木の陰で休みながら風景を捉える若い画家がそれぞれの事情で存在していた。
彼らとは別に、波打ちぎわには一人の老人と一匹の犬が、海に触れようとする太陽を眺めて立ち尽くしていた。
老人は相当に年をとっており、底の浅い灰色の帽子をかぶり、砂埃まみれの靴を履いていた。
犬は耳の立った中型の雑種犬で、全身が白かったが、ところどころに黄金色が混じっており、時おり吹く潮風にその毛並みが揺れた。
彼らは微動だにしなかった。犬は首輪もないのに老人の傍らで座ったまま、動く気配もない。
彼らは彫刻のように厳かでいたが、異質的ではなかった。不思議なバランスで海との調和がとれており、あたかもこの美しい景色の一部のようでもあった。
おぼつかない目線を辺りにふりまき、男と女が口論しながら老人に近づいてくる。近くの海辺で遊ぶうち、いつの間にかここへ来てしまったのだ。
二人とも、できるだけ派手には見えないようにした簡素な水着を着て、男のほうは一本のひもで縛ったビニールのかばんを持ち、大きなタオルを肩にかけていた。
女は、老人に道を尋ねようと提案しており、男は妙な雰囲気だからやめておけと言う。しかし結局、女は小走りに近づいてきて声をかけた。
「ねえ、おじいさん」
老人はややあってから、ゆっくりと頭を向けてきた。
彼と目が合ったとき、女に不思議な感覚がよぎった。
まったく言い表せない感覚だった。寂しいような情、それに少しの怒りや戸惑い、嬉しさもある。まだその表現が誰にも発見されてないかのような感情だったが、強いて言えば、女が感じたものは『懐かしさ』に近かった。
老いた男の目は翳りのさしたブルーで、揺れ動く水面のように煌めいていた。しかしもちろん、太陽と海の輝きの反射のせいかもしれなかった。
彼の顔には無数の深い皺が刻まれており、髪も眉毛も、あごのまばらな無精ひげも、全て乳白色に成り果てていた。
さらには身に着けた衣服も、もとはそれなりのコートだったあろうものがひどくぼろぼろになって、特徴のない、くすんだ緑色のただの布きれだった。
しかし、それらを考えずに見ると(彼の皮膚や髪や容姿を簡単に無視できることも不思議だった)凛々しいまでに若々しく見栄えるのだった。まるで二十代の青年に、なにかの手違いで老いをかぶせたようだった。
「なんだろうか、お嬢さん」
答えた声は低く、よく通った。
「あの」わけもないのにどぎまぎして、女は言葉につまった。「わたしたちさ、道に迷っちゃって」
この年老いた男を取り巻く空気は、どうも落ち着きすぎている気がした。自然的すぎるのだ。
女はこの出会ったばかりの、何もかもを超越したような老人の気配に興味を抱かずにはいられなかった。
「あなた、ここで何してるの」
「海を見ているのだ」
言葉は投げやりだが、その響きは恐ろしいまでの深い慈愛に包まれているかのように心地よかった。彼は顔を再び海に戻した。
女と一緒にいた男は少し後ろで待っている。その表情は早く目的を尋ねろと言っていたが、女は気づかないふりをした。
そして、この老人と会話するときには、もっと畏まる必要があると思いなおした。
「海になにかあるんですか。いえ、すみません、なんだか気になってしまって」
「この海か」そう呟いたきり、老人は答えなかった。
「あの、失礼ですけど、あなたの年を聞いてもいいですか」
彼はまた答えなかったが、今度は考えている風だった。
「はっきりとは覚えておらんのだ。多くの季節は見てきたが、はたして今は何度目の夏だったろうか」
「いえ、いえ。いいんです」
女は驚いて手を振った。自分の年齢が分からない?
女はどうしていいか分からず、犬に目をやってみたが、この主人に完全に従順な動物は何事にも無関心のまま、遠くを眺めていた。
後ろの男を振り返ると、いまや憮然とした顔で腕組みをしている。
「もしかして、この辺りの人ではないのですか」
「それは君たちだろう」
「なぜ、それが分かるんですか」
「迷い込んでここへ来るのは、よその人間だけだからだ。この土地の人間は、私とあの子供たちだけだ。向こうにいる絵描きはどうだか分からないが」
老人は海の向こう側を見たまま少し目を細めた。黄昏時にはまだ時間があるため、光が眩しいのかもしれない。
「それに、私はもうずっと前からここにいる」
女は息をのんだ。老人が涙を流しているように見えたからだ。しかし、もう一度よく見たとき、彼は少しも涙を流してなどいなかった。
「それって、」どもりがちに女は尋ねた。「それって、どういうことですか。朝からいるってことでしょうか。それとも、ずっと昔から?」
「昔だ。あなたがまだ種にもなっていない過去だ」
種、という表現に女は少し驚いたが、次の質問はすぐに飛び出していた。
「あの、よかったら、どういうことか聞かせてもらえませんか。すみません。どういうわけか、すごく気になってしまったんです」
強めの風が吹き、老人はいま、はじめて腕を上げて帽子を押さえた。
「言ってもあなたに」老人は頭をふった。「いや、誰にだって分かりはしないだろう」
「そんなこと、言ってみないと」女は口の中が乾いていくのに気づいた。「お願いします。なにか事情があるんでしょう」
老人の口元が迷っているのを見てとって、女はさらに懇願を繰り返した。老人は小さく息を漏らし、女に向き直った。それだけで、彼女には奇妙な充足が得られた。
「理解できるとは思わないが、いいだろう」彼はほんのかすかに微笑んだようだった。そして、小さく「どのみち、今日は最後の日だ」と付け足した。
読んでいただいて、本当にありがとうございます。
はじめての投稿作品ですが、しっかり書ききりたいと思いますので、よろしくお願いします。




