第9話 蜂蜜三杯の優しさ
「……No.417……終了し……直ちに……ます……」
「……そのま……待機だ……を……ころせ」
ぼやけて姿は見えない。ただ、一切の感情も読み取れない無機質な物体が、こちらを見下ろしている気がする。革靴の音がゆっくりと近づくと、次第に顔が浮かび上がってくる――蒼い瞳の、殺気。
――!!
莉子はメイド部屋のベッドで目が覚めた。勢いよく上体を起こす。大量の冷や汗をかいて、身体が小刻みに震えている。しかし、なぜか心臓だけが、妙に静かに脈打っていた。
(今のは、何……? 誰の記憶?)
見たことのない殺気立った蒼い瞳だった。それなのに、それ以外の人間味を感じられない。異質な男。
「……No.417……どこかで…………うっ……」
その数字を言葉にしたとき、頭の奥が締め付けられるような強い痛みに襲われた。頭を抱えて目を塞ぐ。
(な、に……? 熱のせい……?)
莉子はあの後、掃除の途中で高熱を出して倒れてしまった。天海が流していた映像をたまたま見ていたのか、泉が現れて莉子を部屋へ運んでくれた、ような気がする。朦朧とする意識の中だったので、はっきりとは覚えていなかった。
まだ火照る顔を手鏡で見ると、自分の顔が鋭い目つきになっていることに気づいて、莉子は咄嗟に手鏡を布団に投げた。見たことのない警戒心の強さ、だけではない、何かを捕らえるような目。
(これは……誰……)
莉子の心には、知らない何かが抑圧されているような暗影が纏わりついて、離れなかった。
*
「……顔色が悪い。掃除は必要ない」
夜、泉の部屋を掃除していると、万年筆の筆が紙を走る音が止まり、低い声が背中に降ってきた。
「……かしこまりました」
命令に従い、莉子の手が止まる。
泉は莉子が何か言いたげに自分を見ていることに気づいたのか、机をトントンと指で軽く叩きながら莉子に言葉を促す。
「何か言いたいことがあるなら言え」
「あっ、ありがとうございます……。その、今朝は理仁様の担当でありながら、お部屋に伺わず、掃除の途中で倒れて、理仁様に運んでいただいてしまって……学園も欠席して、その……メイドとして、ごめんなさい」
泉の視線にはいつもの痛みは含まれていなかったが、莉子は無意識に俯いてスカートをそっと握りしめていた。
「……どうでもいい。そんなことは気にするな」
そう言うと、泉の万年筆がまた動き出した。泉の言葉は、いつも痛い。けれど、今日はその奥に、ほんの少し、優しい含みがあるような気がした。
(理仁様、いつもと様子が違う……気のせい? もしかして、疲れているのかな)
莉子は、最近泉が夜遅くまで書き物をしているのを知っていた。メイド部屋は南棟の四階にあり、そこから中庭越しに東棟三階の南向きの窓が見える。莉子が仕事を終えて部屋へ戻ると、いつも泉の部屋だけ薄明かりが灯っていた。
莉子は思いついたようにお辞儀をして、部屋を後にする。リネン室から薄手の毛布、パントリーからハーブティーセットを取り出すと、ワゴンに乗せて泉の部屋へ運んだ。
「あの、これ、ローズマリーのハーブティーです。リフレッシュ効果や、集中力を高めると言われています。……少し香りがきついかもしれないので、蜂蜜をご用意しました。理仁様は甘いものがお好きですよね。ティースプーンニ杯分くらい、混ぜてお召し上がりください」
意外そうに見つめる泉に、莉子はまた余計なことをしてしまった、と怯んだ。
「あ、ご、ごめんなさい……! 頼まれてもいないのに、こんなのいらないですよね……返してき」
ワゴンに手をかけようとした時、莉子は泉に手を掴まれた。力はなく、柔らかく支えられているような感覚だった。なぜだか身体が熱くなる。
「えっと……」
「飲む。蜂蜜はティースプーン三杯だ」
莉子は表情をパアッと明るくすると、「はい、かしこまりました」とにこりと返事をする。急いでハーブティーに蜂蜜を三杯加えると、泉の前へ静かに差し出した。
泉は、そんな莉子をじっと見つめると、ゆっくりとハーブティーを口にする。飲み込む時の、コクリと動く喉元が艶やかで、品を漂わせる。
「……あぁ、温まる。ありがとう」
莉子は、この屋敷にきて、初めてお礼を言われた。久しぶりの人からの感謝の言葉に、なんと返事をすれば良いか戸惑ってしまった。
今まで泉には居ないもののように扱われてきた。その冷たく無慈悲なご主人様が、莉子の目をみて、優しく囁いた。そんなわずかな行動の移ろいに、なんだか胸がじんと熱くなる。
「どうした?」
「あっいえ、あの、こちらこそ、召し上がっていただき、ありがとうございます!」
「……」
「わ、そ、そう言えば、毛布も拝借してきました。4月も終わりとは言え、まだ夜は冷えます。よろしければお使いください」
莉子は泉の肩に毛布を掛けようと手を差し出す……だが、まだ妙に身体が熱い。思うように力が入らなかった。視界がボヤけていく。ふらついて、前に倒れかけると、そっと何かが莉子の両肩に触れた。ゆっくりと身体が抱かれる。優しく、安まるような心地良さに、莉子の瞼が落ちていく。
「お、おい。ここで寝るな」
ハッとして莉子は目を開ける。泉の腕の中で抱かれるように寄りかかっている自分に気づいて、すぐに身を引く。
「ご、ごめんなさい! 私、お邪魔にならないようにそろそろ失礼いたします……!」
(この前、体勢を崩して理仁様にもたれかかってしまった時は、無視されたのに、今日は抱きしめていただいてしまった……きっと理仁様、呆れてる。恥ずかしい……!)
莉子は毛布を机の上に置くと、火照る顔を隠して部屋を出ようとした。
「待て」
ピタリと、莉子の動きが止まる。命令、だが……威圧感はない。
泉の手が莉子の顔に近づく。思わず身体を小さく震わせ、目を瞑ると、おでこに手が添えられた。
「やっぱり、まだ熱がある。どうして無理をする。他人のために倒れて、そこまでする理由が、お前にはあるのか?」
漆黒の瞳が莉子を包む。夜に映える、美しく輝くその瞳は、宇宙にも似た神秘を感じた。
「私、は……メイドです。雇われたから、ここにいます……それだけです……」
口が勝手に動いていた。その通り、莉子は弟の葵の命と引き換えに、契約を交わしただけのメイドにすぎない。顔の火照りも、この変な感覚も、全部熱のせいだ、と自分に言い聞かせる。
莉子は、引き留めようとした泉をよそ目に「失礼します」と一礼し部屋を後にした。部屋を去る際、偶然通り過ぎた棚の端に、“No.417”と書かれたファイルが置かれていたことに、莉子は気づかなかった。
部屋から去ると、莉子の胸の奥の温かさは、不思議とゆっくり引いていく。
残されたハーブティーに小さく浮かんだ茶葉が、行き場を無くしたように波紋を描いてティーカップを漂っていた。
*
――観察対象No.417
状況:感情値/従属率は安定推移。ただし、被験体の記憶の輪郭が浮上し始めている兆候あり
記憶封鎖率:91.8%(微弱異常)ver.3.2
A/P:No.417の「自我の回復」は、観察における最も回避すべき事柄の一つである。しかし、現状では主人の好意に対して“メイド”として受け入れらている模様。現状維持