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第6話 囚われのメイド

 煉瓦造りの大きなこの屋敷は、ご主人様たちと莉子以外の人間を見かけない。広い庭園は手入れが行き届いているし、厨房には毎回人数分の食事が用意されている。天海が言うには、「執事のじいさんが、たまにこっちに来て雑用してるよ」とのこと。


 莉子は天海の部屋の掃除を終えると、窓を開け、差し込む光を眩しそうに手で遮った。桜の木は葉をつけ、桃色から新緑へと移ろいゆく。


 机の上のカレンダーに目をやると、今日の曜日が“金曜日”になっていた。

 「うそっ」と莉子は焦りながらスマホを取り出すと、表示されたのは“Friday”の文字。目を擦りまばたきをしてもう一度みると、すぐに“Monday”に切り替わった。ハッとして再度カレンダーを見やると、“月曜日”に戻っている。


 (私、おかしい。千尋様の言葉に惑わされたままだ)


 しっかりしなきゃ、と自分に言い聞かせる。

 

 机には、医学や哲学、政治学や情報学など様々な分野の本が積まれており、一番上にある心理学の本のページが風で捲れる。

 23ページ、アタッチメント理論について書かれていた。


 『アタッチメント理論は、Bowlby, J.が提唱した概念です。Bowlbyは「危機に直面したり、恐れや不安の情動が強く喚起されたときに、特定の対象に接近して、安心感を回復・維持しようとする行動」のことをアタッチメント行動と名づけました。』


 (アタッチメント……愛着。私が命令に従うのは、そういうのじゃない……)


 莉子はバチンと両頬を手のひらで打つと、掃除道具を持って部屋を後にする。

 今朝、天海は不在だったので、観察されたり変なことを言われたりせずに済んだ。


「入門心理学、23ページ。アタッチメント理論。読んでたね」


 莉子の背後に柔らかい声が落ちた。扉を閉めようとした手が止まる。もう片方の手から掃除道具がガシャンと音を立てて落ちた。


「あーあ、ダメだよ。大事な仕事道具なんだから」


 振り返りたくない、と思った刹那、大きな手で肩を掴まれ、莉子は身体の向きを変えられる。


 天海が楽しそうに莉子を見下ろしていた。

 莉子の背中には固い扉。後退る隙間もないほどに、密着される。


「み、見ていたんですか……?」

「見るもなにも、僕はずっと観察してるよ」

「ずっと……?」


 莉子は不信感を漂わせながら、背の高い天海の顔を見上げる。


「ふっ、知りたい? いいよ、教えてあげる。あんたは毎朝鏡を見るとき、いつも3秒だけ鏡に映る自分を睨んでる。そのあと、自分でも気づかないくらい小さく笑うんだよ。かわいい癖だね」

「っ……!」

「……怖いの?」

「こ、怖くないです……気持ち悪いだけ……」

「ふっ、“あなたが怖いです”って顔に書いてあるよ。それにご主人様に対して気持ち悪いだなんて……ダメなメイドだね」


 天海は莉子にそっと手を差し出す。


「ほら、こっちに来て。そういう口聞く子には、お仕置きだから」


 身体がひきつるが、無視はできない。莉子はそっと天海の手をとった。


 天海の部屋は、書斎と寝室に分かれていて、寝室の奥には小部屋が用意されている。そこだけは入るなと、最初に釘を刺された莉子だったが、今、天海の手に引かれその小部屋へ連れられていた。


「こ、これって……」


 薄暗い部屋の壁一面に配置された大量のモニター。床には乱雑に広がる配線機器。屋敷の至る所に設置された監視カメラの映像が、映し出されている。屋敷だけではない。通学路、学園内、莉子が生活する上での動線が全て把握され、監視されていた。


「私の部屋の監視カメラも、朔様が……?」

「さあ。でもどう? 全部見られてたって知る気分は。怖い? 嫌だ? それとも……嬉しい?」


 (この人は、狂ってる)


 莉子は怯える目で天海を睨む。天海はそれを面白がるとうに笑うと、莉子をモニターの前の椅子に座らせる。モニターには、昨夜、莉子が部屋で身支度をしている映像が再生された。


「……っやめてください!」

「部屋の監視カメラのことに気づいてから、警戒するようになっちゃったよね。普段のあんたの姿が見たいのに、残念。でもほら、昨日は少し雑だったよ。着替え方が荒いと、見えちゃうものも増えるんだ」


 莉子は目を瞑った。私生活を男の人の前で見せられる羞恥に耐えられなかった。


「ほんと面白いね。まばたきの数が今日は異常だ。動揺が手に取るようにわかる。……まあ、あんたの場合、数値なんかで測るより、見てるだけでどんな気持ちなのかすぐわかるけど」


 モニターの映像が途切れると、天海は莉子の後ろに立ち、髪の毛をさらりと撫でた。その仕草に、莉子は身の毛がよだつ。


「これからも楽しませてよ。君は……自分のためだけにここにいるわけじゃないでしょ? “弟くん”のためにも従順でいてね」


 莉子の身体はゾッとすくみ、冷たい椅子に縛られた人形のように動けなかった。





 莉子はおぼつかない足取りで掃除道具を運ぶ。

 この屋敷から去りたい、そう願ってしまった自分がいた。けれど、葵のためにも、ここでメイドとして生きていくしかないんだと、自分に言い聞かせる。


「……おい」


 メイド部屋へ戻る途中、泉とすれ違った。いつもはすれ違っても莉子のことを見ようともしない泉だったが、今日はいつも以上に暗い様子の莉子をみて気に障ったのか、低い声が莉子を呼び止めた。


「今日は、天海の担当だったか。どうせまた、どうでもいい命令に従って落ち込んだんだろう」


 泉の視線が痛い。莉子は居心地悪く感じ、素早く場を去ろうとすると、腕を掴まれた。


「きゃっ……」

「この痕、誰に付けられた?」


 強引に腕を引っ張られ、メイド服の袖がまくり上げられる。莉子の細い腕にある、契約時に服従の証として彫り込まれた痕が、薄く光る。

 莉子は咄嗟に腕を引っ込めた。痕を隠すように身を屈める。


「ふん……くだらない契約に嵌められたな」


 その言葉に、莉子はムッとする。


 (なにも、知らないくせに……なんでそんなことを言うの)


「睨むな。俺はお前にこの屋敷から出ていけと言っている。お前がいても邪魔なだけだ。いつも怯えて歩かれると鬱陶しい」


 いつになく言葉数の多い泉だった。


 冷たく放たれた言葉に、莉子は急に涙が溢れそうになる。


 (また、そうやって突き放す……)


 ここにいたくているわけじゃない、出ていけるものなら出ていきたい、でも、そんな簡単にできない……できないの……込み上げる悲しみ、怒り、もどかしさ、絶望――莉子の中にある様々な感情が、制御できなくなる。


 泉は予想外の莉子の反応に、目を丸くした。ここまで莉子が追い詰められていたとは思わなかった。


 泉の前ではいつも従順で、やるべき仕事は手早くこなす。無駄な干渉はしてこないし、邪魔と言えばすぐに去る。同時に素を見せようとせず、常に何かを隠している、そんな顔をする。


 しかし、今、泉の目の前にいるのは、怯えて震えている普通の少女に見えた。


 (どういうことだ。なぜこんなにも弱い……?)


 自分の言葉で莉子がこうなってしまったと思うと、いつかこのままでは莉子を壊してしまうのではないか、とかすかな恐れを抱いた。


「……っごめんなさい……私着替えなきゃ……っ」


 莉子は、不安げな泉の表情に気づくことなく、顔を伏せ急ぎ足でメイド部屋へ戻った。


 こんな顔を、泉に見られるわけにはいかなかった。





「へぇ……泉って、人に興味ないと思ってたけど、あの子のことは見てるんだ」


 廊下の壁にもたれながら、天海は興味深げに泉を見やった。


「……なんの用だ」

「いやぁ、別に。観察してたら、心拍数と脳波が異常をきたしたから。様子みにきたけど、あの子いないし。代わりに泉がいるし。なんか面白そうだなって」

「お前に話すことはない。どうせ全部聞いていたんだろう」

「ふっ、気づいてるじゃん」

「お前……屋敷のこと、全部知っているのか?」

「さあね。それより、あんな物言いじゃ、誤解されるだけだよ。相変わらず言葉が下手だね」

「……」

「屋敷から出ていけなんて、あの子を逃がそうとしても無駄だから」


 天海は腕を組んだまま歩き出すと、泉に近づき、伏し目がちな目を大きく見開いた。


「……あの子は今日、僕の担当なんだ。僕以外の人間があの子の感情を掻き乱すようなこと、言わないでもらえる?」


 天海の先ほどまでの柔らかな表情は一変し、敵意に満ちた様子で泉を蔑む。


「泉は、あの子を解放するつもり? それは困るなぁ。僕の邪魔をするなら、泉でも許さないから」


 天海は毒毒しい声で泉に吐き捨てると、「じゃあ」と廊下から立ち去る。


 (……食えない奴)


 泉は泣き出しそうな莉子の顔を思い出し、壊れそうな危うさに無意識に唇を噛んだ。





 ――観察対象 No.417

状況:天海朔による監視行為の直接開示を受け、被験体に混乱・羞恥・怒りの複数感情反応

精神過敏指数:上昇

記憶封鎖率:92.4%(やや低下)


「天海の過剰な監視と、泉の無意識な感情干渉が、次段階のフラッシュバックを誘発するか」

「……良質なデータに期待」



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