第5話 甘い蠱惑と齟齬
――観察対象 No.417
状況:木曜日時点での命令負荷が限界点手前まで上昇
感情変動:服従 82% → 自己疑念 35% → 恐怖 66%
記憶封鎖率:94.7%(警告域)ver.3.2
命令適応率:132%
【備考】
・神経刺激に対して過敏化
・感情干渉型命令によるショック症状+(発汗/失神/記憶断裂)
・過剰反応につき、刺激レベル調整必要
*
莉子は昼食を持って小さな広間に出た。ここは学園内でも目立たない場所なのに、草木がよく手入れされていて、鳥たちが戯れている。莉子にとっては穴場だ。
ふと、誰もいないと思っていた石畳の噴水のふちに、見知らぬ男子生徒が寝そべっていた。両手には黒革の手袋。制服の着崩し方は乱れているのに、品がある。不思議な色気と、やけに整った骨格。
突然、噴水が吹き出し、彼の身体に思いっきり水がかかった。制服のシャツから白い肌が透ける。
「わっ……! すごい濡れてる!」
慌てて莉子がハンカチを取り出し近づくと、彼はむくりと起き上がり、莉子の手首を掴んだ。
「やあ、“初めまして”。嬉しいなぁ、こんな可愛い子が心配してくれるなんて……」
彼は莉子の手首を引っ張り、自分の身体に引き寄せる。
「きゃっ!」
「アハ、可愛い反応。ハンカチで拭いてくれようとしたの……? 優しいんだね、君は」
艶かしい声が耳元に落ちる。彼の髪からは水が滴り落ち、その美しい顔をさらに妖艶に引き立てていた。どことなく危険な香りが漂う。
(だ、だれだろう……見たことないくらい綺麗な人だ)
莉子は思わず顔を赤らめるが、ハッとしてすぐに彼から離れようと身体を動かす。しかし、中世的な顔立ちとは裏腹な、強い力に阻まれる。
「ねぇ、君……昨日命令されたでしょ? “泣くな”って」
「えっ……」
艶やかな赤い唇が、莉子の黒髪に触れた。
(どうして、それを……?)
「あ、ごめん。驚かせた? でもさ……話すつもりだった? 誰かに、屋敷のこと」
甘美な笑みに含まれる、冷たく何かを試すような瞳。
「その口、誰の許可で動かしてるの?」
言葉の圧に、思わず身体が震える。
(屋敷のことは、誰にも話すな……!)
莉子の顔が青ざめる。
「……ねえ、誰に言ったの?」
「っなにも、話してません……」
莉子は凍りつく。口には出していない。でも、あの時、確かに風紀委員の男子生徒に動揺した。その感情さえ、見透かされているようだった。
「本当? 嘘は、上手くつかないと、相手に伝わるんだよ。君の嘘は……少し甘い」
彼は莉子を解放すると、上半身を起こし立ち上がった。背は高く、動きまで洗練されている。
「じゃ、また後でね。……次は“本当の”君に会えるといいな」
彼は静かに広間から立ち去った。彼からした甘い香りの余韻が鼻をくすぐる。
(あの人は、一体……? 屋敷の人? そんなはず、知らない。でも、私のことをあんなに……)
*
金曜日の夕方。莉子は蓮巳千尋の部屋の前で戸惑っていた。今まで何度訪れても、部屋には誰もいなかった。掃除をして、寝具を変え、食事を運ぶだけの奉仕だった。
しかし、今日は珍しくドアが開いており、隙間から明かりが覗いている。
「どうぞ。“今日のご主人様”です」
中から聞こえた声に莉子はたじろぐ。「失礼いたします」と恐る恐る部屋へ入ると、見覚えのある顔が莉子のほうを向いて微笑んでいた。
「昼間の噴水の! あなたが、金曜日の蓮巳千尋様、ですか?」
「違うよ」
「え……?」
ベッドの大きな枕に背を預けたまま、その問いに首を傾げて、さらりと告げる蓮巳。
「僕は、今日“日曜日”を預かってるから」
「で、でも、今日は金曜日で……」
(間違いない。学園の時間割も、持ち物も、今日は金曜日のはず……)
蓮巳はゆっくりと起き上がると、柔らかく問い返してくる。
「証明できる? 今日が金曜日だって」
「証明……?」
「たとえば、新聞の日付とか、携帯のカレンダーとか?」
莉子は咄嗟にスマホをポケットから取り出す。
「……っ?!」
ホーム画面に表示された日付は“Sunday(Sunday?!)”。
(そんな、うそ……!)
「証拠ある?」と笑って、蓮巳は莉子に近寄る。その笑みは甘く優しげで、それでいて言い逃れを封じるような陰湿さを醸し出していた。
「ほら、言ったでしょ? 僕は“今日の担当”なんだよ」
(……違う。おかしい。……でも……)
莉子の身体は、自然と蓮巳の言葉が正しいと刷り込まれていくようだった。否、自分が勘違いしていたかも、と思わせられる感覚。
「記憶は簡単に書き換えられるんだよ。本当に可愛いね、君は」
蓮巳は黒革の手袋をはめた手を差し出す。
「“日曜日の担当”に、理想的なご奉仕を」
蓮巳の優雅で耽美な言葉と動きに惑わされるかのように、莉子の身体はスッと動いていた。命令されていないのに、自然に従っている自分に気づいて、この異常さを恐ろしいと感じた。
*
蓮巳は莉子をベッドに引き寄せ、「隣に座って」と優しく囁いた。
「もっと、僕によりかかって……僕だけは、君の味方だよ。あの人たちは、君を知らない」
甘い声が莉子の身体に纏わりつく。それが心地よいものだと勘違いしてしまうような、そんな甘美な誘惑。
「ねぇ、君のこと……ずっと見てる目がある気がしない?」
「えっ……?」
莉子は身体を硬直させた。蓮巳から漂う甘い香りが、危険信号が点滅していると訴えているようだった。
(この前、私の部屋で見つけた監視カメラのこと……? なぜ知っているの……?)
「……僕は、気づいてしまったんだよ。でも、安心して。僕だけが君を守るから……」
莉子は身体が小刻みに震え出した。今すぐこの場を立ち去りたい、そう懇願する声を抑える。
「そんなに怯えないで。言ったでしょ、僕は君の味方だって……たとえ、君が自分を嫌いになっても」
*
蓮巳の部屋を出たあと、莉子はまっすぐ歩けなかった。靄がかった視界と、熱のこもった頬。
今日が日曜日だと言われ、スマホの表示さえすり替えられた気がした。なのに、それを否定できなかった自分が怖い、と身震いする。
(それに、どうして監視カメラのことを……?)
無意識に足が学園へと向かう。人気が少ない校舎裏の壁にもたれかかった。頬の熱を吹く風で冷ます。
「君!」
声のほうを見ると、昨日の風紀委員が駆け寄ってくる。眼鏡の奥に、戸惑いと焦りが見えた。
「昨日も、この辺にいたよね? やっぱり変だ。誰かに脅されてないか?」
(……話せない。絶対に)
莉子は俯き、首を横に振る。
「今日、おかしな男と一緒にいたろ? 蓮巳とかいう奴。あいつ、学籍が曖昧なんだ。他の生徒たちもはっきり彼のことを説明できない。名簿にも履歴が抜けていて、出席記録すら怪しいんだよ」
(どういうこと……? そんなはず……誰も彼を知らない?)
頬の熱が急に増す。混乱と動揺で頭がかき乱される中、突然スマホが震えた。
ポケットから取り出すと、画面に一文だけ、匿名のメッセージが届いていた。
>【戻れ。話すな。】
莉子の手からスマホが落ちかける。
(誰……? 誰が、送ってきたの……?)
一気に全身が冷える。呼吸が乱れ、胸が苦しい。
「おい、大丈夫か?」と風紀委員が莉子に手を伸ばしかけたその時、黒革の手袋が、風紀委員の肩にそっと置かれた。
「……彼女に、触れないで」
その声に、莉子は身体をこわばらせた。
「汚れるから」
振り返った風紀委員の目には、愕然とした色が浮かぶ。そこに立っていたのは、つい先ほど別れたはずの――
蓮巳千尋。
「君は、心配性だね。けど、それは余計なお世話って言うんだよ」
ゆるやかな声で告げた蓮巳が、莉子の方へ歩き出す。
莉子の耳元に顔を近づけて、小さく耳打ちした。
「さあ。証明してごらん。……君が、ちゃんと躾られた理想的なメイドだって」
莉子の喉が引きつる。まばたきができない。
けれど、気づけば口角を上げていた。
「ご心配、ありがとうございます。私は、何も問題ありません」
微笑む。姿勢を正し、淑やかに一礼する。指先の動きすらも、完璧に作られている。
(どうして、私、笑ってるの……? なんで、こんな言葉が……)
風紀委員は、莉子の美しい所作と、柔らかな笑顔に目を奪われ、頬が赤く染まる。
しかし、一呼吸置くと冷静になったのか、眉をひそめて怪しんだ。
「本当に、大丈夫なのか?」
何も答えられない。ただ、完璧な演技をし続ける。
(従ってしまうのが怖い。でも、身体が言うことを聞かない……)
蓮巳の手がそっと莉子を引き寄せる。
「ね、完璧でしょ? 躾は、記憶より強いんだよ」
そう囁いた笑みは、甘く、冷たい。
*
――観察対象No.417
状況:金曜担当 蓮巳千尋初接触 金曜日を日曜日と誤認させ、被験体の思考は一瞬停止。実際の日時は金曜だが、被検体のスマートフォンには、Sundayの文字が見えた“気がした”よう
事実:表示改竄の痕跡なし、視覚認識異常なし。全て言語的誘導と感情的混乱の演出
結論:被験体は事実を確認するより前に、事実を信じられなくなった。命令に対する身体反応は『拒絶』と『従属』が交互に出現
――これは、信仰に近い
「のまれるようなら、被験体の即排除検討」
第5話までお読みいただきありがとうございます。
五人のご主人様が揃いました。
ブックマークで今後の展開をお待ちいただけると嬉しいです。評価やレビューをいただけると励みになります!今後ともよろしくお願いします(*´-`)