第4話 痛み、それが従属という証
学園には、少し遅めの春の風が吹き抜け、凛とした空気を撫でるように包んでいた。
「屈めよ。俺が拾えって言ったら、拾うんだよ」
人気のない廊下で、神城帝真が莉子を壁際に追い詰めるように立っていた。床には、わざと落とされたノート。あの夜の支配者は影に隠れ、跋扈とした態度で命令を押し付ける。
「ここ、学園内です。それに今日は火曜日じゃなくて……」
「へぇ、また口答え? 曜日なんて関係ないだろ。俺の命令にはいつでも律儀に従えよ」
横暴な言葉に、莉子は黙り込むしかなかった。
不用意に命令に抗えば、罰がくだる。それは痛み以上に、弟の葵の安全を揺るがすかもしれない。そんな不安が背後に付きまとっていた。
「おい、神城」
そばから足音がした。冷静でありながらも、不機嫌そうな声が続く。
「今日は木曜。こいつは俺の担当の日だ。それに、学園内での命令行為は禁止されてるはず」
イラついた神城とは正反対な泰然自若とした態度で、如月詠一は莉子の前に立った。
「いくらこの学園の理事長が神城家と懇意でも、目立ったことされると、こいつが俺たちのメイドだってバレるリスクが上がる。あんまり馬鹿だと、味方が減るよ?」
低く、牽制するように放たれた言葉の端には、軽く笑うような口振りが含まれていた。
神城はバツが悪そうに眉をひそめる。反論はせず、ふっと鼻を鳴らす。
ふと、廊下の奥から生徒たちが近づいてくるのが見えた。如月は莉子の手を取る。
「じゃあ、夢乃さん、いこっか?」
「わ……っ」
如月がにこりと莉子に微笑む。その声色は、先ほどとは全く別の、まるで少女漫画の王子様のような響きだった。周囲にいた生徒たちがざわめく。
「如月様が夢乃さんと手を繋いで……?!」
「また夢乃さんがそそのかしたのでしょ」
「それにしても、如月様、今日もかっこいいわ!」
「笑顔が素敵ね、まるで王子様よ!」
莉子は如月に手を引かれながら、この温もりに少しだけ救われた気がした。
けれど、ほんの一歩、莉子が如月の背に近づいたその時。如月は笑顔のまま振り返ると、小さく囁いた。
「ほら、足が遅いよ? 見られたくないなら、ちゃんと従って」
苛立ちを噛み殺すように、握られた手に伝わる力が強くなっていく。
(……痛い。詠一様、すごく怒ってる……?)
*
放課後、掃除当番だった莉子は、校舎裏でゴミ袋を抱えて歩いていた。
「……あの、君……」
背後から声をかけられて、ハッとする。
そこにいたのは、風紀委員のバッジをつけた男子生徒だった。真面目そうな黒髪で、どこか気遣わしげな目をしている。
「君、あの……いつも屋敷の方に帰っていくけど、誰かに脅されてるの? 僕でよければ、話くらいは聞くよ」
優しげな声だった。この学園に来てから、莉子のことを心配する人はいなかった。
莉子は思わず返事をしようとしたその瞬間、ズキンッと鋭い痛みが頭に突き刺さった。痛みに耐えられず、頭を抱える。
(……っ、なに……?)
「だ、大丈夫……?」
男子生徒は莉子に手を伸ばそうとしたが、莉子はそれを怯えながら振り払う。
「ちがっ……、ごめんなさい!」
倒れそうになった身体を壁に支えて、その場から逃げるように走り出した。
(誰のものにも、なるな……!)
交わした契約が、身体の奥底で警告のように疼いていた。
*
屋敷に戻る頃には陽が傾いていた。制服からメイド服に着替えた莉子が、いつものように階段を下りていると、背後から声が飛んできた。
「おい、メイド」
嫌な予感がして振り返ると、そこには王子様の仮面を脱ぎ捨てた如月が立っていた。……この顔は、完全に怒っている、と莉子は身構える。
広報やメディア事業に精通している如月財閥の次男、如月詠一。兄よりも優秀だと財閥内や世間から認められ、後継者の地位は彼が譲り受けた。
「さっきのはなに。どうして神城のところにいた?」
「ご、ごめんなさい。帝真様に命令されて、従わないと、私……」
「言い訳はやめろ。どうせ、命令されたら従っちゃう病なんだろ」
顔つきと声色は学園での如月のものとは全く別だ。如月は、二つの顔を持っている。いつも穏やかで王子様のように優しい如月と、素っ気なくて冷たい如月。素顔は、後者だ。
如月は階段を一段降り、距離を詰めると、莉子の顔を大きな手で掴んで持ち上げた。力は強くない。
しかし、冷たい表情の奥には、強い怒気が感じられる。
「神城に怯えながら従ってるお前をみると、虫唾が走るんだよ」
苛立ちをぶつけるように莉子を蔑む。莉子は何も言えず、誤魔化すように視線を逸らすと、それを叱るように如月の指が莉子の頬に強く食い込む。
「メイドは“モノ“扱いされて、満足なのか?」
「……えっ」
如月は、たまにこういうことを言う。莉子のことを心配しているのか、ただ煩わしいだけなのか、曖昧な如月の態度に戸惑う。
如月は莉子の顔を掴んでいた手を雑に離した。
「はあ、いつも泣きそうな顔してるだろ。あれをみてると、こっちまで気分が悪くなる。……“泣くな”よ」
莉子の肩がびくりと揺れる。
「え……?」
「泣くなって言ってるんだ。馬鹿でもできる。笑え、これは命令だ」
その言葉を聞いた途端、急に視界が白く染まった。ビリッと、頭の芯を殴られたような激しい衝撃が走る。神経を焼かれるような痛みが、背筋から両腕へと駆け巡った。
「ッ……くぅっ……!」
(っ……またっ……!)
莉子は叫び声を飲み込むが、よろけて膝をつく。視界が歪んで、呼吸がうまくできない。意識が遠のきかけ、まぶたが落ちていく。
――だめ、バレる。命令を聞かなきゃ、殺される。
暗い部屋。目の前で誰かがこちらを捉える影。背筋を走る冷たい感覚。――逃げられない。
(っ……いまのは、なに……?)
ハッとして目を開ける。意識がかき乱された。しかし、すぐに目の前にはくっきりと屋敷の階段が浮かび上がる。絨毯の毛がチクリと膝を擦った。
「……お、おい」
突然の莉子の異常さに、如月は表情を曇らせた。階段を降りると、莉子の顔を覗き込む。
「そんなに強く反応しなくてもいいだろ……」
その声には、先ほどまでの高圧的なトーンはなく、ほんの少しの狼狽が伺える。
「ご、めんなさい……っ」
手すりを支えにどうにかして身体を起こすと、震える唇をぎゅっと噛みしめる。
「俺のせいか? 俺が命令したから……」
「ち、違います……! 詠一様のせいじゃないです。自分でも、よくわからなくて……」
「なんだよそれ。……意味がわからない」
手を差し出すわけでも、優しい言葉をかけるわけでもない。しかし、莉子を見下ろす如月の瞳は、澄んだ青空に一滴の純粋さを垂らしたような、淡い水色が潤んでいた。
莉子はその瞳に吸い込まれるように見つめていると、自然と、息をするだけでも痺れる身体が、徐々に楽になっていく。
(万能薬……みたい)
この人は、ただ冷たい人じゃないのかもしれない、と莉子がぽかんと見つめているその間、如月の頬がじんわりと赤く染まっていくのに莉子は気づくはずもなかった。
*
夜の屋敷は、月も見えない闇に覆われている。莉子は部屋の前に立ち尽くしたまま、動けなくなっていた。
部屋の扉の前に、紅茶セットの載った銀のトレイが置かれている。香り高いダージリンと焼き菓子。上等な器と、折りたたまれたメッセージカード。
そのカードに優雅な筆跡で書かれていたのは、“「Kamishiro」”――神城の名前だった。
莉子の喉が、ごくりと鳴る。
今日は木曜日。神城の担当ではない。それなのに、届けられた、という事実が全てを物語っていた。
(時間外でも、あなたは“俺のもの”だって……)
優しげに見える紅茶と菓子は、まるで檻の鍵のようだった。誰にも見えないところで、じわじわと莉子だけを囲い込むような、その支配の意思に、ぞっとする。
手を伸ばしかけて、そっと引っ込める。トレイごと、そのまま部屋の横に押しやった。
(……受け取ったら、ダメ)
莉子はそう直感した。
*
同じ頃、三階東棟の書斎では、泉理仁が椅子にもたれながら、静かに本を閉じた。読書をしていたのか、ただ考え事をしていたのか、それすらわからないまま、黒曜石のように深い瞳が窓の方へ流れる。
泉たちがこの屋敷に集められたのは、数日前、莉子が突然この屋敷にやってきたからだ。五大財閥の子息が共同で生活など、前例がないはずだ。どういう企みなのか。
そして今日、書斎前の廊下で、泉が偶然莉子と擦れ違った時。莉子の制服の袖が風でまくれ上がり、ちらりと見えた白く細い左腕に、ほんの一瞬、光のような何かが埋め込まれているのが見えた。
(あれは……)
部屋の照明を落としながら、泉は顎に手を当てる。
「……おい、まだ監視しているんだろ」
誰もいない部屋で、泉は壁の一点に視線を向ける。そこに返事はない。だが、低く呟かれたその問いは、確かにある誰かへと向けられていた。
視線の先にある壁の絵画の裏には、埋め込まれた極小の監視装置が、微かに赤く光った。
(あの女が、あそこまで従う理由。あれも関係しているのか?)
泉は無言のまま、ただ椅子に背を預けた。
カーテンの隙間をぬって、夜風が部屋の空気を攫う。月のない夜。屋敷は、静寂の檻に包まれていた。